森の小道
「もっと早く歩いて、ティモ」
「はいはい。わかったよ、メルヒオールくん」
シャツのボタンをあけたティモは、貴族の執事然とした姿から、あっという間に町の少年になった。快活な笑みを浮かべて、ティモはメルジーナの隣を歩く。
もともとが好奇心旺盛なたちなので、この状況も楽しんでいるらしい。
ここから先は、貴族のお嬢様と執事ではない。
町人メルヒオールとその友人のテオだ。
そして、その二人が身分を隠してこそこそと変装してまでどこに行くのかというと、答えは一つだった。
海だ。
青く澄んだ海。
そこで思いっきり泳いで、リフレッシュするのがこの小さなお忍び旅行の目的だった。
晴れ渡る日の光が、森の葉から細くちらちらと差し込む。
歩きながら、ティモが尋ねた。
「ねえ、メルジー……メルヒオールくんはさ、晴れて人間になったことだし、やってみたいっていうことはあるの」
「そりゃあ、たーくさんあるわよ」
メルジーナは美貌の頬を紅潮させて、興奮した声でティモに語りかけた。
「まずは、色とりどりの花が咲き乱れる大きな庭を歩いてみたいわ。故郷の海の中には美しい珊瑚や海藻があったけど、地上の花々はそれと違うみたい。香りや触れた感じを体験してみたいのよ。あとはね、そうそう、市場に行ってみたいわ。魚だけじゃなくて、果物やハム! パン、チーズ、あと、卵! 本で見た色んな食べ物が並んでいるのよ。そんな中を賑やかにおしゃべりしながら歩いたら、最高に素敵だと思わない?」
さくさく、と地面を踏みしめながら、メルジーナはうっとりした。
「あとは、人間の音楽も聴いてみたいわ。私たちの歌声は海の中では響くけれど、楽器は無かったもの。陸の楽器の音色を、人間のこの耳で直接聴きたいわ。どんな感じなのかしら」
ティモは顔にへばりついた蜘蛛の巣をとるのに忙しかったけれど、忠実な従者らしく興味を持って尋ねた。
「他には何かある?」
メルジーナは目を輝かせながら続けた。
「それとね、私、人間の食べ物もいろいろ試してみたいの。海の中では魚や海藻しか食べられないけど、地上にはケーキやチョコレートや、冷たいアイスクリームなんてものもあるって聞いたの。貴族向けのお上品なソルベじゃなくて、お砂糖がどさどさ入っているような、体に良く無さそうな色のお菓子よ。そんなの、味わうだけでどんな気持ちになるのか、すごく楽しみだわ」
少年は笑顔で答える。
「じゃあ、まずは何から試す?」
「そうね、一番、派手な色のアイスクリームはどう?」
「どんな色さ」
「ええっ? 虹色とか? それとも、ものすごくピンクに近い紫とか……とにかく、お母様が絶対にドレスに選ばなさそうな、極めて下品なやつ」
「わーお。すっごく……体に悪そうで、わけがわかんなくて、……わくわくしそう」
「でしょ」
少年は元気よく頷いた。
「よし、じゃあアイスクリームの店を目指して、頑張ろう」
「そうね。足で歩くって結構慣れるまでは難しかったけど、最近はそうでもないわ」
「練習したもんね、僕たち」
「誰かに見せたいくらいよ。私なんて、最初に歩いたとき、生まれたての岩にへばりついたクラゲみたいになってたんだから」
そうこうしているうちに、町へ着いた。
アイスクリームのメニューの書いた看板をたて、その隣に赤・青・黄の派手な旗を吊したキッチンカーが、町の入り口に停まっている。
あれは期待できそうだ。
メルジーナとティモは舌なめずりをしながら、『最も派手で下品な色合いのアイスクリーム』を探しに、先を争って駆けだした。