誰が何のために
「毒だ!」
と、誰かが言った。
メルジーナは目の前が真っ暗になるような気がした。
(まさか、……ジークフリート様が!?)
「お兄様っ」
エルネスティーネ皇女が小さく叫んで立ち上がった。
メルジーナはそれで、我に返った。
エルネスティーネのパフスリーブのドレスをそっと押さえる。
「私が見て参ります。エルネスティーネ様はこちらでお待ちください」
大公が側近に早口で矢継ぎ早に指示を出していた。
その少年にしては異様に素早い対応も意識に入らないほど、メルジーナは焦っていた。
焦らずにはいられなかった。
波止場で見たあの蒼い瞳。
舩の上で交わした他愛ない会話。
そんなことがふと脳裏によぎった。
あの宝石のような貴重な人を、毒なんかで失ってしまっていい訳がない。
床に転がっていたのはスープ皿だった。
その隣に男性が倒れている。
「落ちている物に何人たりとも手を触れませぬよう! 救護の者はおるかっ」
と、声を張り上げたのは大公の側近だ。
そのとき、誰かが倒れている男を担ぎ上げた。
「私が運ぶ! 救護室はどこだ」
「こちらです」
汚れる服にもかまわず、走り出す小間使いを大股で追いかけるのは、ジークフリートだった。
(ああ、ジーク様ではない。)
と、安堵したのもつかの間。
(ではあれは……毒味の者?)
ジークフリートその人が狙われたという事実は間違いがなさそうだった。
「皆様、落ち着いてください。そのまま席にお座りください……」
大公の側近や部下が指示を出したが、興奮した大臣たちや貴族連中はざわざわとするばかりで、なかなか落ち着かない。
メルジーナは混乱に乗じてその場の様子を見た。
(床にスープの皿……他は無事。周囲も何事もない)
となると、おそらくは。
メルジーナは滑るように部屋を出た。
向かう場所は一つしかない。
厨房だ。
*
厨房は混乱の渦中にあった。
帝国の人間が倒れてしまったのだからさもありなん。
「なんてことだ…もう終わりだ」
「次の料理はどうするんだ!?」
「持ち場を離れるな」
「いや、今すぐ逃げなければ処刑されるんじゃないか」
錯綜する情報、ささやかれる噂。
そんな中、メルジーナには確かめたいことがあった。
要人の側仕えの身分とはいえ、茶を運ぶような女中のする仕事もする立場だ。
厨房くらいならば出入りは許されている。
騒がしい厨房の奥、スープ鍋の近くにはおろおろとしている見習いコックがいた。
「困ったな…でもシェフに持ち場を離れるなって言われてるし…」
「あのう、すみませんが」
「ひゃいっ!」
驚かせてしまったらしい。
メルジーナはうらなり瓢箪のような風貌の見習いコックへ、挨拶もそこそこに尋ねた。
「ジークフリート様の御膳のスープはこちらでしょうか」
「いや、それは違う……ジーク様のは別の鍋で作るように言われたんだ。海老のスープは食べられないからって……」
それは嘘だ、とメルジーナは思った。
なぜならジークフリートは前菜に海老を食べていた。
忘れるはずがない。
あんなに優美に、無自覚な色気を振りまきながら食していたのだ。
コックは思い出した記憶を確かめるように、うなずいた。
「要人の方だから粗相のないように、と言われたからね」
「中身はどこに?」
「もう運んで、流しで洗った後だよ」
コックは洗い場の流しに積まれている小さな鍋を指さした。
メルジーナはため息をついた。
そうそう証拠が残されてはいない。
「ジーク様のスープはほかの皆様とは違うのですね?」
「ああ。準備されていた食材を使ってね。僕は野菜の皮むきをしたくらいだけど」
「準備されていた食材とは」
「えーっと……確か、キャロット、ポテト。あとは朝に山で採れたキノコと新鮮な魚、それと貝」
「どんな魚?」
「白身魚だよ。もう下ごしらえもしてあったけど……。貝は殻がしっかりしていて新鮮そうだった。量は少なかったけど、これも砂抜きはしてあるからすぐに入れろって言われて……ああ、それに『毒リンゴ』も」
「何て言ったの?」
「大陸の人には馴染みがない? えっと、このへんに残りが……そうだ、これだよ」
メルジーナは赤いその実をつまみ上げた。
(これは……)
*
用心をして毒見役のペテロを近くに座らせていたのは正解だったが、ジークフリートの胸中は複雑だった。
それが仕事とはいえ、自分の部下が命を危険にさらして嬉しいわけがない。
ペテロの容態は深刻だった。
なんとか胃の内容物を全て吐き出させて、今は眠っているようだ。
必ず下手人を見つけ出して償わせてやるとジークフリートは決心した。
当然のことながら、晩餐会は中止になった。
命を狙われた驚きや恐怖よりも、ジークフリートにははっきりさせておきたいことがあった。
(『誰が』『何のために』俺を狙ったのか)
普通に考えれば、エスター大公国の人間が、婚姻にケチをつけるため、だろう。
リシリブール帝国と大公国の婚姻が中止になって得をする人物--。
ジークフリートは自分を呼び出した相手の顔を直視した。
すなわち、エスター大公。
ここは大公の自室であるーーつまり、邪魔は入らないということだ。




