敗北
エルネスティーネは沈みながら思った。
あ、だめかもしれないわ。
ちょっと脅かしてやろうとしただけだった。
堀の水なんて人工のものだし、深さなんてたかがしれていると思っていた。
防衛面もかねている堀は実際にはエルネスティーネが想像していたよりもずっと深かった。
ドレスが水を吸い、重くなって引き込まれる。
止めていた呼吸が苦しくなってくる。
助けて。
声を出したいのに出せない。
小さな泡が足掻く自分を笑うかのようにプクプクと浮かび上がっていく。
こんなことなら、やりたいこと全部やっておけばよかった。
あれ?
だけど、やりたかったことって何……?
豪奢な宮殿
高級なドレスや宝石
流行りのお菓子
巷で珍しいと持て囃されているもの全て
何もかも産まれた瞬間から持っていた。
だけどちっとも満たされなかった。
私、私が、本当にしたかったのはーー。
お父様、お母様にもっと甘えて、たくさん抱き締めてもらえばよかった。
ジークフリート兄様とエーベルハルトと、もっとたくさんお喋りすればよかった。
それに何よりーー。
耐えきれなくなった口の端から水が入り込んできた。一気に力が抜ける。レースのふんだんについたドレスは気味の悪い海藻のように身体中を締め付けて、見えない力でどんどん底へおさえつけられる。
いよいよこれまでだと思ったとき。
揺らめいているばかりだった水の世界に、一筋の光がさした。
紅と黄金に光る大きな魚が飛び込んできた。
(魚……いえ、ちがうわ。きれいな女の人……まるで人魚みたい)
彼女は信じられない速さでこちらに近づいてくる。どの宝石よりも深遠な輝きの紫の瞳。
身体が一気に引っ張られるのが分かった。
人間ではない、大きな海獣に思い切り持ち上げられるような、抗えない力だ。
重かった水が嘘のように追い払われていく。
鏡が割れたと思ったら、空が見えた。
途方もなく青い空だった。
「エルネスティーネ様!」
と、呼ばれて、初めて自分が誰かに抱きかかえられているのが分かった。
岸を掴んで、もう片方の腕でしっかりと肩を抱いてくれているのはメルジーナだった。
結わえていた髪はほどけて、金の糸が肩に垂れて水を滴らせている。
(この子、ーーこんなに美しかった?)
「大丈夫ですか!? 水を飲みましたか?」
紫の瞳がじっとこちらを見る。
つい先刻までなんとも思わなかったのに、今はその貴重な宝石のような瞳から目が離せなかった。
「だ、大丈夫です、わ……」
「よかったあ」
へにゃり、と相好を崩したメルジーナは、安堵の息を吐いた。
その後、近くにいた使用人たちに助けを求めて無事救助されたエルネスティーネたちだったが、メルジーナは《皇女様が足を滑らせてしまって》と言うだけだった。
(私のせいなのに)
一言も責めず、自分が濡れることも構わず、そんな自分を体をはって助けにきてくれた。
「あ、あの、ーーその、あの」
「はい?」
メルジーナはあくまでも優しく笑う。
きらきら。
彼女の周りに妖精でも飛んでいるように見える。
こんな美しい女性になりたい。
それはエルネスティーネが初めて感じた憧れだった。
「あ、あ、あ……ありがとう。メルジーナ」
メルジーナは少し、驚いたように目を見張った。だけど次の瞬間には花が綻ぶように笑った。
「私の大切な皇女様ですから」
そして、頬の熱と共にエルネスティーネは自分の敗北を悟った。




