微笑みは大切です
海の中の時代。
メルジーナはとりわけ強くも賢くもなかった。
六人いた自分の姉たちは、それぞれ秀でていたものがあった。
その美しさや高潔さに憧れたことこそあれど、メルジーナは理解していた。
自分はそのような選ばれた者にはなれない――。
海の生活で身に着いたメルジーナの唯一といっていい美徳は、《上から言いつけられたことは律儀に守る》という真面目で地味きわまりないものだった。
しかし、何がどう転ぶか分からないのか人間の世なのだった。
「承知しました」
と、メルジーナは言ってにっこり笑った。
なぜかというと、数時間前、女中頭のエレナにそう言い渡されたからに他ならない。
それ以上でもそれ以下でもなかった。
陸の常識や暗黙の了解など、通用しないメルジーナは、皇女の台詞を額面通りに受け取っていた。
すなわち、
「口に合わなかったものだから、つい、手がすべってしまった」
という言葉。
(ああ、人間ってそうなんだ。海ならどんなに嫌いなものでも波に乗せちゃえばよかったもんね。陸だとそうはいかないか)
と、のほほんと考えていた。
さすがにティーカップがとんでくるとは予想していなかったものの、
(貴族の常識っていうのもよく分からないものが多かったのに、皇女様のマナーっていうのは全然意味が分からないなあ。カップがもったいないような気がするけど、人間って不思議だなあ)
くらいに思っていた。
焦ったのはエルネスティーネの方だった。
(なっ……何よこのメイド! 全然こたえてないじゃないのっ)
エルネスティーネが知らなかったのは、メルジーナが《普通》の令嬢ではないということだった。
一般的な貴族の娘ならば、他人から物を投げつけられるなんて暴力行為にひとしい。
そして、そのような行為から守られてきた淑女たちは皆、泣くか倒れるか逃げ出すのだ。
しかし、皇女は想像もしていなかった。
伯爵令嬢メルジーナが前世で、男を巡ってド修羅場を立ち回り、死線をくぐるどころか自らダイブし、さらには根性で各地を飛び回っては人間関係に横やりを入れ続けていたことを。
苦労などしないにこしたことはないが、してしまった苦労は否応なしに魂を強くさせる。
たとえ人間であれ、人魚であれ。
貴族の常識がないことを差し引いても、そんなメルジーナがちっぽけなティーカップごときに動じるわけはなかった。
使用人の休憩室で着替えを渡したエレナは、称賛の眼差しをメルジーナにおくった。
エレナは新人を褒めることなど珍しい、厳しい中年女性だったが、評価はきちんと下す。
「メルジーナ様は宮廷にいらっしゃるのは初めてではないのですか」
「え、えぇ……そうです。何か変だったでしょうか」
「いいえ。堂々とした振る舞いに感服いたしました。エルネスティーネ殿下への対応も見事でした。怒りも悲しみも、貴人の側付きのメイドは見せてはいけないのです。最初からあの癇癪を微笑みでやり過ごしたのは、皇后陛下の女中たち以外ではあなただけですよ」
(えっと……よく分からないけど、ほめられた? のよね。よしっ)
午前用の新しいエプロンドレスに着替えたメルジーナはあらためてしゃっきりと背筋を伸ばした。
「では、その調子で頼みます。私は一度、皇后陛下の宮へ戻りますから、メルジーナ様はエルネスティーネ様のお世話をなさっていてください。たしか紅茶をご所望でしたから。昼食の前には私もこちらへ合流します」
「はい、承知しました」
と、返事をしたメルジーナは微笑みを絶やさずエレナの背を見送った。
そして気付いた。
(ん? さらっと言われたけれど、《紅茶をご所望でした》って? えっ、待って! エレナさん、待って!)
メルジーナはさぁっと蒼ざめた。
(紅茶ってどうやって淹れるの!?)




