知らぬ存ぜぬです
ジークフリートは目の前の光景が信じられなかった。
彼女はこちらを見るや否やあっけにとられた顔をして、すぐに俯いてしまったが、見逃すはずはない。
ドレスを着て髪型を変えてはいるが、顔形はあの日の少年と同じだ。何より、夢にまで見た紫の瞳が一致している。陶器のような肌は傷もないのに生命力に溢れて、若々しかった。
「顔をあげてください」
すがるように言ったジークフリートの言葉に、メルジーナは嫌々、しぶしぶ、ゆっくりと顔をあげた。そっぽをむきたいのを堪えているようだ。
絹糸のような見事な金髪が一筋、形のよい額に流れ落ちる。
ふと触れたくなった己の衝動に、ジークフリートは困惑した。三十年近く生きてきて、こんな感情は初めてだ。
「あなたは以前、海で……」
「人違いです」
令嬢はすげなく答える。
「桟橋など行ったこともございません。病弱でしたのでっ!」
当時はいざしらず、語気を強めて主張する姿からは快活さしか感じられない。ふっくらとして血色のよい頬は、ほんのりとピンクに上気している。
「そうか……まあ、いい。それよりも」
「それよりも?」
「兄や弟はいるか? あ、いや、ティモシー殿のことは知っている……それに、軍部のシュテファン殿のことも……そうではなく、よく似た容姿の少年を」
じっと視線を向けられて、メルジーナはうわあああと叫び出したくなる。
これでもよく頑張ったほうだ。
普通の女中ならば卒倒していただろうし、貴族の娘なら黄色い悲鳴の一つや二つあげただろう。
ジークフリートは生まれながらにして女性の本能的な部分に訴えて余りある魅力をそなえていた。
皮肉にも、メルジーナの心に歯止めをかけていたのは、彼が《皇太子》だという事実だった。
前世、かつて人魚姫だったとき、王子に散々な目に遭わされたのだ。そして王子を奪い当然のように婚約した令嬢も、どこぞの王族の娘だったーー。
過去の苦い記憶がメルジーナの理性を、普通の人間の数倍は強固なものにしていた。すなわち、
《もう王族には近付きたくないっ!》
という一心だ。
きらきらしい面だけでなく、裏側を体験してしまってろくなことがなかった身としては、もう王家のごたごたに巻き込まれるなんてご免だ。
その王たちを統べる、皇帝ともなれば尚更である。
積極的に近付きたい相手では決してない。
だから、
「全くもって存じません」
とキッパリ告げた。
「かつてあなたによく似た方に助けてもらったのだ。まるで魔法のように水の中から探し物を見つけてくれた」
「そうなのですね、でも全く。まっっったく存じませんわ。金髪なんてこの国には幾らでもいるでしょう」
存じませんで押し通すことに決めたメルジーナだった。
「本当に知らないのか? ちょうど、そう、あなたのような不思議な色の瞳をしていた。もう少し近くで見せてくれ」
長身のジークフリートがソファから立ち上がるなりすっと近付き、これまた長い腕が伸びた。
メルジーナの後頭部に柔らかい感触がする。
手のひらが触れている、と認識すると同時に、ジークフリートの玲瓏な鼻梁が近付いてきた。
宝石のような瞳にあっけにとられた自分が映っている。のぞきこまれている。それもごく近くで。
「そう、ちょうどこんな風に紫の目だった。珍しくて不思議で、神秘的で。もっと見ていたいと思わせられるようなーー」
熱っぽく見つめられてメルジーナの身体が固まった。それも後頭部に手を当てられているせいで、まともに避けることもできない。本気になれば振り払って逃げることもできそうなのに、なぜか体が動かない。
美し過ぎる顔が少しずつ近付いて、もう少しで鼻先が触れてしまいそうだーー。
そのとき、鳶色の髪が揺れ、メルジーナは細い腕に引かれた。
「ジーク様。お言葉ではありますが、メルジーナ様はこれから皇宮の案内がありますので、その辺りになさってください」
リアは淡々と告げ、虚をつかれた顔をした主人に向かって慇懃に一礼した。




