どこからどう見ても立派な建物です
ここでいいです、とメルジーナは言って馬車を降りた。
御者は良い笑顔で、グッドラック!と言わんばかりに親指を見せて、陽気に去っていった。
メルジーナは小さな荷物を持って、とぼとぼと皇宮の広大な敷地を歩く。
まるで陸の上の魚、いや、まさしく陸の上の人魚だ。
「まずは一番立派な建物に行けと、お父様に言われたわね……」
メルジーナはきょろきょろ辺りを見回した。立派なーー。
明らかに大きな、巨大な建物がある。
実のところそれが皇宮の本殿、つまり政治的なことの一切を行う《本部》なのだが、悲しいことにメルジーナの感覚は普通とずれていた。
「あの建物、小さいけれどキラキラしているわね……」
メルジーナは本殿から少し離れたところに建っている建物に目をやる。
それは《教会》だった。
確かにステンドグラスやタイルの意匠が美しく、すらりと伸びた塔の細工も見事なものだ。
そんなわけで《立派》という言葉をはき違えた結果、
「これが一番きれいだもんね」
というメルジーナの判断により、行先が確定した。
帝国の九割はマーシ教の信者だ。
宗教心の差はあれど、国民は皆、国教であるマーシ教の祈りや歌を歌える。
そして皇居にある教会が特別なものであり、儀礼の際にしか使えないものだということも周知の事実だった。
しかし、陸の事情にうとい元人魚姫・メルジーナには常識は通用しない。
「わあ、きらきらしてすっごくきれーい! おじゃまします」
蒼い宝石の埋め込まれたドアをためらいなく押す。
が、開かない。
「あれれ?」
メルジーナは首をひねって、建物を改めて眺めてみた。
すると茂みの側の下側の小窓が開いている。
成人男性なら無理だろうが、メルジーナくらいの身体なら通り抜けられそうだ。
普通ならばドアが開いていない時点で、ここではないという勘が働きそうなものだが、残念ながらそこは箱入り娘ならぬ、海どっぷり漬かり娘、もちろんここでも陸上の常識は通用しない。
「ここから入ればいいわね!」
仮にも伯爵令嬢がそんな泥棒のような体勢をとるとは、誰も想像できないだろう。
しかし、メルジーナはさっと上半身をかがめて、ドレスが汚れるのも構わず窓に頭を突っ込んだ。
窓からの侵入は容易だった。
猫のようにするりと建物内に入ったメルジーナは、案内人を探す。
父親の話では《立派な建物》の中に待機している人がいるので、諸々の委細はその人に訊くようにと言われていた。
「えーっと……あ! あの人かな?」
赤銅色のふんわりとした後ろ頭が見えた。
祭壇の隣、小さなオルガンに腰かけている。
入るまでは気付かなかったが、この教会には心地よい音楽が流れている。
メルジーナはオルガンから聞こえてきた音色に耳を澄ませた。
(綺麗なメロディー……)
シンプルだが繊細な旋律が心地よく耳に残る。
海には無かった音だ。
人間はこんなものを作り出せるのかとメルジーナは感嘆した。
右手の流れるようなメロディーを左手の穏やかな和音が支える。
どこか切なさが混じりながらも、ひたすらに平和で最後にはまとまっていく。
丁寧な指使いの弾き手は、その曲を弾き終えると余韻を感じるようにそっと目を閉じて鍵盤を放した。
メルジーナは、ハッと我にかえり、パチパチ拍手をした。
「こんにちは! すごくきれいな曲!」
そして、
「すみません、お待たせしてしまいました」
と令嬢らしく続けようと思ったが、
「うわああっ!?」
という怯えた悲鳴にかきけされた。
「だ、誰っ!?」
案内人は少年だった。
垂れ目で穏やかそうな造りの顔だが、ブラウンの瞳には得体のしれない者の出現への恐怖が渦巻いていた。
「誰って……聞いてないですか? リーメンシュナイダーが伯爵の娘、メルジーナです」
「め、メルジーナ……?」
「こちらにいらっしゃるとお聞きして」
「えぇ、この場所のことは家臣の誰にも言ってないのに? 誰に聞いたの……?」
「お父様ですけど……」
「えぇぇぇ……? 伯爵怖い……」
「そんなことよりも、それは何なのですか?」
少年はバツが悪そうな顔になった。
「オルガン、だけど……」
「オルガンというのですか」
「え? 知らないの?」
「あ……びょ、病気でずっと寝込んでいたので! あまり物の名前も分からないのです」
途端に少年が心配そうな表情になる。優しい子なのだろう。
メルジーナは、今は元気ですよ、とあわててちからこぶを作ってみせる仕草をした。
警戒心を解いたのか、少年は少し微笑んでくれた。
「海に光あれ、という曲だよ。讃美歌ではないけど、僕は好きなんだ」
「人間は曲に名前をつけるんですね」
「え?」
「いやいや。何でもないです。メロディーのところ、もう一度弾いてくれませんか?」
「え、うん。ええっと……」
メルジーナは耳を澄ませる。
そして形のよい唇を開き、鍵盤に合わせて小さな声で歌いだした。
(えっ……?)
少年は目を見開く。
今まで聴いたことのない音だった。
美声というにはまだ言葉が足りない。
鈴の音と花の開く音と、管弦の楽器の最も細い線の音と、様々な音のイメージが一体になる。
歌詞もなく、Lu,Lu,Lu と口ずさむだけのそれが、これほど美しいとは誰が思うだろう。
(これが人間の出す音なのか――?)
気付けば伴奏もやめて聞き惚れていた。
ぼうっとした少年にメルジーナは気付き、心配そうに見つめた。
メルジーナと視線を合わせると少年は真っ赤になった。
「か、歌手なのですか!? あなたは……」
「ただの、伯爵の娘ですわ」
「そんなことあるわけない、だって、僕だってたくさん歌は聞いてきたけど、あなたみたいな人は――」
「それよりも」
メルジーナが白魚のような指を彼の唇にあて、静かにするように伝えると、少年は目を見開いて黙った。
「良い曲ですね。この……海で泳ぎたい、とかいう曲は」
「光あれ、です」
二人してまた猫のように窓から茂みに出るとき、少年はふっと笑って言った。
「あなたみたいな人がいるなんて知りませんでした。……僕は《歌舞音曲にうつつを抜かしている暇などない》って言われて育ちました。でも、やっぱり音楽が好きで。祝典なんかでも楽器ばっかり見てしまうんですよ。でも、いい子でいなきゃいけないと思って……ここにはこっそり来るんです。知ってるのは近侍くらいだし、音もそこまで大きくないから」
「音楽が好きなのね」
「……はい。あなたの歌をきいて思い出しました。周りに何を言われても、好きなものは好きなのですよね」
「ええ。私だってティモにひどくバカにされたけど、バナナを折ることはなかったわ」
「バナナ……?」
「好きなら好きでいいじゃない。やらなきゃいけないことを忘れさえしなければ、誰だって自分の好みを大切にしていいはずよ」
つまりは《婚活》という命を懸けた最大の目的を達することを忘れなければ、その他のオプションーー珍しい植物集め、主にバナナ――は好きにすればいい、というメルジーナの自論である。
だがしかし、赤銅色の少年は感に堪えないといった様子で呟いた。
「肝に銘じます……!」
教会の外に出た途端、黒づくめの眼鏡をかけた紳士がぬっと現れた。
「お疲れ様でございました」
「アロイス」
少年は驚く様子もなく微笑む。
アロイスは長身を屈め、少年に礼をする。
「エーベルハルト様。失礼ですがそちらは……?」
「リーメンシュナイダー伯爵のお嬢様だよ」
「こんにちは。あのう、今日からこちらで働くことになっていて、ここにくれば案内してくださるって聞いたのだけれど」
アロイスと少年ーーエーベルハルト・クラッセンは顔を見合わせた。
もしかすると、いや、もしかしなくてもーー。
「勘違い!?」
メルジーナの頬から血の気がひいた。
エーベルハルトとその従者に連れられて向かった本殿の建物のエントランスには、本当の案内人であるリア・ヴァイスが、誘拐か迷子かと気をもみながら焦れて待っていた。




