レッツクッキング
寂れた庭園の、今にも風に吹き飛んでしまいそうな温室に案内されたエルマーは目を疑った。
「これは……?」
「魚です」
「いや、それは見れば分かるんだけども……」
木製の台の上に――それもおそらくよく見れば価値のある一枚板の、アンティークな花置き台だったが――まるで市場の果物屋のように置かれたのは魚だった。
しかも硝子の瓶の中に――こちらもおそらくは価値のあるだろう、高級そうな意匠が施されている――5、6匹が花でも活けるかのように入れてある。
エルマーはおそるおそる尋ねた。
「もしかして、僕の仕事っていうのは……」
「これを、身と骨に分けて、さばいてください」
「ん? 骨ごとじゃなくて、身を外すの?」
「そうです。それもできるだけ素早く。うーん、遅くても一匹あたり20秒くらいで」
「無茶を言うね!?」
この令嬢、物の相場が分かっていない。
というか、世間知らずもいいところだ。
リシリブールの生活には魚が根付いているが、その分、プロの料理人に求められる技術は高い。
煮込み料理や煮つけにするためには骨ごと断ち切らなければいけない。
そうしなければ魚の旨味は出ないとされているし、実際スープにはぶつぎりの魚が一番合うとエルマーは思う。
生の魚を食べるのは、船上の漁師くらいなものだ。
そのため、あまり上品な食べ方とされてはいない。
エルマーも市で買ってきた魚で試してみたことはあるが、どう頑張ってみても、金を払う価値のあるものにはならなかった。
船の上でもないかぎり、食卓にのぼる前に、生の魚は腐ってしまう。
だから火を通すのだ。
リシリブール帝国に暮らす者なら、3歳でも分かる常識だ。
エルマーは思った。
何を考えているのか知らないが、お嬢様の気まぐれに付き合わされるなんてたまったものじゃない。
いや、何も考えていないにちがいない。
だが――。
落ちぶれてしまえば、伯爵家のお嬢様でもこんなものなのか。
この屋敷の荒廃ぶりを見れば分かる。
家庭教師を雇う余裕はとてもないだろう。
3歳でも分かる常識さえ身についていない、この世間知らずな少女がエルマーはだんだん可哀そうになってきた。
きっと、野蛮な食べ方だとも教えられていないのだろう。
普通の令嬢ならば、生の魚と聞いただけで拒否感をあらわにするはずだ。
本か何かで見たのだろうか。
風の噂では病弱な少女だと聞いたことがある。
いや、目の前の血色のよい頬やきらきらと光る瞳を見ればそれが嘘なのかもしれないとは思うが――。
「エルマーさん。私の考えを実行するのには、あなたが必要なんです。あなたの技術が」
メルジーナは厳かにも聞こえる声で言った。
その言葉は不思議と、真面目に読んだこともない聖書の一節のように、エルマーの身体に染みた。
どこで自分のことを知ったのかは分からない。
だが、流行らない場末の男酒場、ごみ酒場の主人とバカにされた自分でも必要としてくれる人がいる。
それがたとえ世間知らずの少女でも、エルマーは正直なところ、とても嬉しかったのだった。
「分かった」
エルマーは持ってきた擦り切れた焦げ茶色の皮の鞄から、包丁を取り出した。
年季は入っているが、手入れを怠らないエルマーの道具はぴかぴかと光る。
店の内装は正直興味がないが、料理人の魂ともいえる調理用具だけは曇りひとつない。
「お嬢さん。20秒で、と言ったね」
「メルジーナと呼んでね。あなたとは今から仲間なのだから。無理なら30秒でもいいわ」
エルマーの目に光が灯った。
「冗談。10秒でいいよ」
ティモが口笛を吹いた。
そしてリシリブール中のどこの調理場よりも静かに、その《試作》が始まった。
*
メルジーナがエルマーを知ったのは、空気の精だった頃のことだった。
リシリブールの男女をくっつけようとしているメルジーナは、貴族だの平民だの貧民だのは関係なく、ひたすら飛び回っていた。
若い男女が好むような、ムーディーなレストラン。
高級志向の貴族たちが噂をする、ラグジュアリーバー。
しかしどの店も厨房にひとたび入れば、そこには裏方たちの怒号の飛び交う戦場だ。
安酒を高級なグラスに入れて、法外な値段で出していることもあった。
(ああ、ここに来る人間は食べ物の味じゃなくて、雰囲気を買いにくるんだなあ)
しかし、同じ店に通い詰めることはほとんどない。
きらきらしい店を幾つまわるか、珍しい料理をどれだけ見つけることができるか。
人々は競っているようでもあり、メルジーナは面白かった。
そんな中、その酒場は異様だった。
インテリア性のかけらもない、おしゃれや清潔感とは無縁のごみ溜めのような小さな店。
しかし、好き好んでそこに通う人々がいた。
そしてその物好きたちは一様に、満足そうに店を出て行くのだ。
ほとんど同じ店に通わないはずの人間たちは、その店に限っては常連となり、後日また来店していた。
人数こそ少ないものの、隠れ家のような酒場。
デートスポット探しにやっきになっていたメルジーナは、不思議になって厨房を見に行った。
そして、《彼》を見つけたのだった。
エルマーの仕事は完璧だった。
硝子の器に入った小さなニシンを素手でつかみ上げると、瞬時に頭部を落とす。
そして流れるような動作ですう、すう、すうっ、と刃を滑らせると、今さっきまで泳ぎ回っていた魚は三枚の食材になっていた。
ティモが、うわあ、と小さく声をあげた。
「すごい、エルマーさん。きっかり十秒だ」
師匠と呼び出しそうな勢いだ。
いつの間にあのティモを手なづけたのかとメルジーナは内心驚いた。
人間、しかも男性になんて、死んでも懐かないものだと思っていたのに。
自覚はないようだけれど、このエルマーという男はとてもいい性質をもっている。
「美味しそう……」
メルジーナは思わず呟いた。
海の中では常食していたのだ。
生の魚の命の薫りは貴く、そして食欲を誘う。
しかし、手をニシンの血で染めたエルマーはぎょっとしたようにメルジーナを見たので我にかえる。
そうだった。令嬢だった。
もう人魚ではないのだから、生魚を見てよだれを垂らしているわけにはいかない。
「っではなくて、えーと……きゃあ、生のお魚なんてはじめて見ましたわ、こわーい、でも、おいしそう、うふ、おほほほほ」
取り繕ったつもりが、エルマーをより一層恐怖に駆り立ててしまった。
エルマーが信じられないようにこちらを見てくるので、メルジーナは目を逸らした。
「さ……さて、ではやりますよ」
「やるって何を?」
エルマーの問いに、メルジーナは麻袋を見せることで答えた。
中にはさらさらとした白い粉が入っている。
「そのお魚たちを――」




