料理人は祈る
その運命の日も、エルマー・アイゼンフートは店にいた。
というか、店の二階が自分の部屋なので、実質自宅のようなものだ。
エルマーは自他共に認める《片付けられない男》だった。
昔働いていたレストランから独立して、貯金をはたいてこの店《海の皿》を立ち上げたまではよかった。
しかし、店は寂れる一方だった。
エルマーは料理人としては一流だった。
しかし、経営の才能はてんでなかった。
厨房でいくらもてはやされようが、店が荒れていては話にならない。
料理人として、調理器具の手入れは怠らなかったが、店内の内装や調度品なんて専門外だった。
当初レストランだった店も、寂れるにともなって様相を変え、今では場末の酒場になってしまった。
それでもエルマーの料理を食べたいという地元の奇特な常連たちに支えられて、細々と店を続けていた。
しかし、店の存続が風前の灯となった今、エルマーの選択肢はそれほどなかった。
「店、畳むかなあ……」
もともと自分に商才など無かったのだ。
ただ、見習いシェフだったときに出会った少女との約束を果たしただけだ。
お兄ちゃんのお料理、すごい!美味しい!と掛け値なしに称賛した、小さな客の笑顔があまりに可愛らしかったので、当時20歳になるかならないかだったエルマーは約束したのである。
「僕がいつかレストランを開いたら、きっと食べにきてね。今よりももっと美味しい料理を作るから」
と。
結局その少女が来ることは無かったが、昔よりも確かに自分の料理の技術はあがった。
でも、それだけだ。
やりきった満足や充実感でなく、空しさを感じるのは未練がある証拠だ。
でも、それに気付かないふりをして、エルマーは店の天井近くに飾った海の神をかたどったレリーフを見上げた。
(海の神様。僕に今一度チャンスをください。あなたの恵みを誰よりも見事に料理してみせます。ですからどうか、この店を)
「この店を御守りください……」
祈りの言葉を発すると同時に自覚した。
未練なのか、意地なのか。場末の小汚ない店、潰れかかったお化け小屋と罵られようが、まだここにしがみついていたいのだ。
料理に人並みならぬ情熱を傾けてきたエルマーにとって、大切な店を手放すことは自分の半身を切り裂かれるのに等しかった。
これを失えば、料理人としての矜持も、ささやかな夢も希望も失ってしまいそうでーー。
(さて。まあ、とりあえず今日も頑張ろうか)
今夜の日替わりメニューは、リシリブール産の白ワインによく合う川魚のフライにしよう。オニオンスープにメットヴルストを入れるのもいい。
野菜籠からオニオンを取り出そうとしゃがみこんだとき、入り口のドアがギシギシと音を立てて開いた。薄暗がりの店内に一筋光が差し込む。
「ねー姫様ぁ、何があるっていうのさ、こんなとこ。いや、別に怖いとかじゃないけど」
少年の声のようだ。
姫様? 何かのあだ名だろうか?
何にせよ、子どもがふらりと立ち寄るにはアクの強い店だ。
お化け屋敷で肝試しでもしているつもりなのかもしれない。
穏健なエルマーは腹をたてることもせず、あくまでも優しく声をかけた。
「真っ昼間からどうしたの? 営業時間は夕方からだよ」
「ギィヤァァァァァアーー!!!」
少年の悲鳴が店内に響き渡った。




