紫紺の追憶 9(終)
日が落ちても雨の勢いは衰えず、ざぁざぁと窓や屋根を叩きつけた。ここまで雨が続くとなると、さすがの彼も気が滅入っていた。死体は無い。授業はつまらない。警部には、会っていない。彼女の勤務日程など把握してはおらず、いつが非番か把握はしていない。
悶々とし体が疼く。彼女に数日会っていないだけなのに、すでに心の中にぽっかりと穴が開いてしまったような気になってしまう。
「かか様、僕、最近警部に会えていないのです。事件も死体もなく、雨で気分が憂鬱なのです。勉学のほうは相変わらず、つまらないです。僕はただ、死体を解剖し愛でればそれでいいのですけれどね」
卓上の『首』に話しかける神戸。それは何も喋らず、動きもしない。誰も居ない帝大のこの別棟で寝泊りをしている彼は、毎晩と言っていいほどそれと話をしている。一方的な会話に満足した後は『首』を棚に仕舞い、詰所へ戻ると布団を敷き寝巻に着替えた。
明かりを消そうと洋燈に手を掛けたとき、窓をコンコンと叩く音がした。
神戸はぴくり、と体を揺らし、窓のほうへと目線を移す。外は暗がりで雨粒以外何も見えない——と思ったが、そこに人影を発見した。
「……警部……?」
外に立っていたのは天野だった。見ると警帽は右手に持ち、結われていた髪は下ろされ頭から絝まで水が滴っていた。
「警部! そんなところで何しているんですか!」
神戸は急いで詰所を出て別棟の扉の錠を開け、傘を持って外へ出た。天野は俯き黙ったまま、彼を見ようともしなかった。ただ雨で全身が濡れていたせいか、体は寒さで小刻みに震えていた。その天野に神戸は背を伸ばし傘を頭上へと差し向ける。
「さ、中に入って。まずは服を乾かしましょう。このままでは風邪を引いてしまいます」
神戸に促されるまま室内に入る天野。神戸はすぐに替えの浴衣を用意し、天野の制服を脱がす。襯衣まで濡れ素肌は湿り、指先はまるで死体のように冷たくなっていた。浴衣に着替えた天野の髪を神戸が手拭いで丁寧に水滴を拭っていく。この間も天野は何も喋ろうとしなかった。
「警部……一体何があったんですか?なぜあんなところに立っていたのですか」
「…………死んだんだ」
「……え?」
天野の髪を拭っていた手が一瞬止まった。
「……紗代が……死んだんだ。自ら命を……絶ったんだ」
「……そう、だったんですか」
神戸は再び手を動かす。天野の体はいまだ震えが止まらず、寒さのせいだと行火を取り出そうとしたが、天野が洋燈に照らされた一瞬、それは寒さのせいではないことが判った。
彼女は泣いていた。神戸にとっては初めて見る彼女の涙だった。
「……っ……悩んでいたのならばなぜ相談してくれなかったのだ……‼︎ なぜ自ら命を……彼女の夫が病気だというなら……不死の病だとしても……一緒に逝くことはなかったのに……」
天野は瞳に涙を溜めて訴えていた。今の話から察するに、あの女性の夫とやらは死に、彼女も後を追ったのだろう。
「結局俺は彼女を守ってやることができなかった……! 彼女には誰かに何かを話していたんだ。だがそれは俺ではなかった……。俺ではなかったんだ…‼︎」
瞳からたまった涙が溢れ神戸を見つめる天野。彼女のいつもの威厳はなくなり、目の前にいるのは親友の死に悲しみ泣くひとりの女だった。
「警部、お布団に入って休みましょう? 今は疲れているのです。ずっと雨に打たれていたのでしょう?」
神戸はいつも自分が使っている布団に天野を寝かせようと催促する。
「自分が許せない……! 彼女を助けることはできたんだ! 俺はっ……彼女を理解していたつもりだった。全て一人で頑張ろうとする彼女を知っていた。自ら死を選ぶほど弱い人間ではないと思っていたんだ! ……でも結局、俺は何も理解していなかった。そんなっ……自分が……」
自責の念に駆られ、拳を強く握る。
——本当に何も理解していなかった。彼女が夫の死に悲しみ後を追うような人間であったと。それほどまで愛していたのだろう。そして、自分を差し置いて紗代は誰かにその想いを伝えていた。俺には言えないこと、他の人に言える男の存在——。
「……君なのか?」
天野は顔を伏せて呟いた。神戸は「はい?」と聞き返す。
「紗代は遺書にこう綴ったそうだ。彼に全てを話したと。……もしかしてそれは君のことだったのではないか?」
天野は上目遣いで神戸を見る。涙で潤んだ目では視界が悪かったが、彼の目はまるで固まった血のように赤黒く見えた。
神戸は何も言わない。二人の間に沈黙が流れ、ざぁざぁと雨音だけが時間の経過を表していた。
神戸は静かに溜息を吐き、天野と目を合わせた。
「……確かに、僕はあの人とお話をしました。あの人は夫を愛していたました。そして、殺そうとしました」
「……っな……⁉︎ 殺そうとしたって……どうして俺に何も言わなかったんだ‼︎ だったら紗代は夫を殺して自死したというのか⁉︎」
神戸の告白に動揺する天野は思わず彼の腕を強く握った。だが彼の表情は何も変わらず、先程まで打たれていた雨のように冷たかった。
「貴女に何ができましたか? 止めましたか? あの方の現状を知った上で、殺人未遂の罪で逮捕できたのですか?」
「逮捕など……! 彼女はっ……ほんの少し過ちを犯しただけではないか! 君は紗代の夫の解剖でもしたというのか? 死体を見た訳でもないくせに!」
「警部こそ何も知らないくせに、自分の友人は人を殺さないという確信でもあるのですか? 貴女は今まで警察として何を見てきたのですか。人が人を殺そうとするのには理由があり、それは誰にもある衝動だと、貴女は学ばなかったのですか?」
彼の言葉は胸に深く突き刺さった。これまでの殺人事件を解決してきたなかで、人が人を殺した時には何かしらの理由があった。恨み、欲望、相手は誰でもいい、ただ殺す理由は確固として存在していた。そういった殺人犯もいた。神戸君の話が本当だとして、紗代にも何かしらの理由があったのだ……。そう、思いたい。
「紗代に……一体何があったんだ……?」
困惑する天野に、神戸は先日の会話の一部を話した。夫を愛していたこと、子供が流れたこと、そのことで夫から虐げられ復讐を誓ったこと、紫陽花の葉を食事に混入して食中毒を起こさせていたこと。——そして、それを躊躇っていたこと。
「容態を聞いて、それが何かしらの食中毒であったこと、そのとき目に入ったのが彼女の着物の裾から溢れた紫陽花の葉を見て、僕は全てを知りました」
「……紗代は夫を殺そうとするほど追い詰められていた……なんて……」
「それが真実です」
「でも俺がその場に居れば止められたかもしれないのに……! 何もかも……」
天野は強く握った拳を畳の上に叩きつけた。鈍く、重い音が拳から伝わった、はずなのに何も聞こえないと感じた。目も鼻も耳も。じん、と熱くなっていた。
「もう手遅れだったでしょう。あの方の夫はすでに死へと向かっていた。僕が聞いた時点でもう先は長くなかったのでしょう。彼女があのあと紫陽花の摂取をやめていたとしても、衰弱した体は元には戻らなかった。貴女があの場に居たのならば、殺人未遂で逮捕するか、それを警察官の立場で黙認するしかなかったのではありませんか?」
天野は黙る。——自分がその場に居たら——果たして己の正義を貫き彼女を逮捕などできたのだろうか。それともその正義を曲げ、彼女をそのまま見送っただろうか。
天野は再び体を震わせ今度は大粒の涙を溢れさせた。
自分の思考に矛盾が生じ、その矛盾に耐えられなくなった。ただ、親友として、紗代を助けたかった。結局何もできなかった自分に立腹と後悔が残った。
「……愛していたんだ。彼女を。俺がずっと——お互いに心が通じていたんだ」
「貴女は愛で正義を曲げることができたのですか?」
神戸の瞳はまだ冷たかった。だが手は暖かく、その手で握り潰し真っ白になった天野の手を握った。
「あの方は自分の意思で動き、自分の意志でそれを終わらせたのです。警部が何をしても再会する前からその結末は同じだったと……僕は思います」
震える天野の体を神戸はそっと抱き寄せた。いつもの着流しや制服とは違い、浴衣一枚の彼女の体は思っていた以上に細く、柔らかく感じた。晒まで取ってしまったからかもしれない。
その神戸の体を、今度は天野が腕を回す。
「初めてなんだ。愛する人の死を体感するのは。こんなにも……辛いなんて……」
神戸を強く抱き締め、涙で彼の寝巻きを濡らす天野。それは力強く少し苦しくも感じたが、今の彼女の苦しみに比べたらこれは受け止めるべきものなんだろう、神戸はそう感じた。
彼は天野の頭を優しく撫でる。
「そうです。愛する者の死は辛いのです。もう二度と喋らない、動かない、会えなくなる。だけど今貴女には、僕がいます。だからもう……いえ、今日だけは自分を偽らないでください」
天野は静かに顔を上げた。潤んだ瞳、真っ赤な目尻、解かれた濡れ髪が神戸を欲情させた。
互いに見つめ合い、神戸はそっと天野の頬に手を添える。
「……警部、今晩は一緒に寝ましょう。僕がずっと、側に居ります」
神戸は静かに、天野の唇に自身の唇を重ねた。彼女は抵抗することもなく、その唇を受け入れた。
「今は僕を、愛してください——」
日が昇り雨はすっかり上がっていた。
隣ではまるで子供のようにすやすやと眠っている彼がいる。神戸の髪を掻き分け、安らかな寝顔を見て天野は穏やかに笑った。
天野は布団から出て一度浴衣を正す。そのあと自分の制服に手を掛けるが、服はまだ乾き切っておらず、湿った晒も少し不快であった。襯衣を着て絝を穿く。彼を起こさぬよう身支度をし、静かに帝大を後にする——つもりだったが、もぞもぞと布団が動き出し、小さな呻きが聞こえた。
「……ぅうん……けいぶ?」
どうやら起こしてしまったようだ、自分は昨晩一睡もできずにいたが……こんな早朝に彼を起こしてしまっては申し訳がない。
「す……すまない起こしてしまって。君が目覚める前に帰るつもりだったのだが」
「まだ居ればいいじゃないですかぁ……。昨日の続き、しましょう?」
神戸の言葉に耳から顔まで真っ赤になる天野。
「ばっ……馬鹿か君は! 昨日の続きなど……っ!」
昨日の続き、とは……口にも出したくない。自分が『女』というものになってしまったことをひどく恥じているのだから。
「昨晩のことは忘れてくれ。あれは少し…混乱していたんだ」
「ですが警部、少しは元気が出られましたか?」
その言葉に黙る天野。
「元気など……出ようものか」
親友が、愛していた人が死んだのだ。そうそう立ち直れるものなどではない。だからこそ神戸君は死人を愛するという『心の崩壊』を招いたのだ。だが自分はそうはならないだろう。いつまでも死人にしがみ付くほど病んではいない、そう、思いたい。
「だけど君の御陰で吹っ切れたよ。ありがとう」
天野はぎこちなくだが顔を綻ばせ、布団の前にしゃがみ神戸の頭を撫でる。神戸は猫のように唸り、気持ちよさそうにしている。そのまま神戸の顔まで手を滑らせ、親指で彼の下唇をなぞる。
「俺の正義は揺るがない、とは言えないだろう。自分に都合の良いように解釈するだろう。だがもし今度、同じような状況になったら……俺は警察官としてではなく、天野丞として答えを出す。君は……それを許すだろうか?」
「ええ、貴女のことはよく知っております。貴女が出した答えならば、僕はそれで良いと思います」
天野の指を手に取り、頬に擦りつける。神戸が布団から起き上がり天野と視線を合わせる。
神戸が片方の手で天野の頬を撫で、顔を近づける——瞬間、詰所の窓がドンドンと叩かれた。
「神戸くーん! 起きてくれー!」
二人は一斉に窓の外を見る。その声は山本巡査だった。神戸が窓を開けると、山本は窓から身を乗り出してきた
「あれ?天野警部、ここに居らしたんですか? 探したんですよ! どこにも居ないから、とりあえず神戸君を呼びに来たんです!」
どうやら山本巡査は急いで帝大へ来たらしい。息が途切れ途切れだった。
「あ……す……すまない。ちょっと神戸君に用があってだな……」
「なるほど……ってそれより大変なんですよ! 曙町で遺体が見つかったんです!」
「死体ですか!」
山本の『遺体』という言葉に反応する神戸。
「殺人か?」
「いえ、まだそこまでは判っておりません。何で天野警部、急いでください!」
「解った、曙町だな。神戸君が着替えたら行こう」
と、天野と山本が話をしている間に神戸はすでに臙脂の着物を着て袴を穿いていた。
「死体ですよ警部! 早く行きましょう!」
神戸はすっかり張り切って学帽を手に取り詰所を出ようとしていた。
「……全く君は……。まぁいい、準備が早いのは良いことだ。では現場へ急ごう」
「そういえば神戸君、先日の約束忘れてないよね?」
山本はいまだ窓から体を乗り出して神戸に尋ねた。
「約束? はて、なんのことでしょう」
神戸は笑顔で首を傾げ、ぴしゃりと窓を下ろした。山本の悲痛な叫びが聞こえた気もするが、きっと気のせいだろう。
「先日の約束?」
天野が神戸に聞き返す。神戸は小首を傾げて答えた。
「きっと、誰かと間違えているのです」
二人はは山本に連れられ帝大を後にする。
昨日までと打って変わって、空にはまるで青い紫陽花の色のような、晴れた空が広がっていた。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
コミックス『医學生 神戸朔太郎の解剖カルテ』全2巻の最終話から一年後の彼らを描いたものですが、皆様いかがでしたでしょうか?文才がないので誤字脱字だったり表現の仕方が荒かったり、読みにくい部分もあったことと思います。
この話は私が作中で描きたかった話の一つだったのですが、描けずにコミックスは終了したのであえて一年経たせ作中の時期をあわせました。本当は紫陽花の咲く季節に書き終えられればよかったのですが……。
小説の更新は一旦終わりますが、また機会があったらこの一年の間に何があったとかいろいろ書ければなと思います。
終わりに、ここまで読んでくださりありがとうございました。この『紫紺の追憶』はいずれ挿絵をつけて電子書籍化する予定です。無料で公開する予定ですが、その際にご支援くださったら大変嬉しいです……!
ではまたいつかお会いいたしましょう!!