紫紺の追憶 8
幾日も雨が続き、梅雨の季節は終える気配を見せない。普段は外回りを希望するが、この時期は外を出歩きたくはない。濡れるのは好きではないからだ。しかしながら事件というものは、それを考慮してくれる訳でもない。事故や窃盗はもちろん、酒に酔った男達の喧嘩の仲裁や、痴情の縺れからの騒動の対応。我々の仕事は時も場所も関係ないのだ。だが神戸君には申し訳ないが、ここ最近は遺体と遭遇してはいない。梅雨を除けばいたって普通の日常である。
しかし思わずにはいられない。『なぜ秩序を乱すのだ』と。
ふっ、と天野は嗤った。
自分は誰よりも規則違反をしているではないか。他人を糾弾し、かたや自分の罪には目を逸らし見て見ぬ振りをする。己から見ても、なんともあさましい人間である。
男と同じ考えを持っていても、女というだけでそれが許されない世界。窮屈だと感じつつもこうして裏道を使い今ここに居る。
——霖雨のせいだ。雨が仮面を流し、醜い内面を曝け出す。
自分ひとりで憂鬱な気分に浸ってしまったが、良いこともあった。先日質屋で起きた強盗殺人事件の下手人を逮捕し、事件を解決できたことだ。動機は質屋の主人と金銭的ないざこざから発展した一方的な恨みによるものであり、店内は争った痕跡を隠すためと強盗の仕業に見せかけるため、殺害後に荒らしたようだった。中村先生と神戸君の見立てにより質屋を利用した人物を重点的に調べ上げた結果、犯人逮捕に繋がった。彼らにはいつも助けられている。
さて、溜まった書き物を処理しなければ。あぁ、面倒だ。
天野は筆を取り報告書を認め始めた。署内は穏やかで、叩きつける無数の雨音を除けばここは静かだ。巡査が茶を運びに時折天野の元へとやって来る。最近の巷の話なんかを聞いていると、また別の巡査がやって来た。話に混ざろうとしたのかと思ったが、その巡査はどうやら彼女を呼びに来たようだった。
「天野警部に会いたいという人がいるんですが……」
「俺に? それは……その、若い女か?」
天野が彼にそう尋ねたのは先日、紗代に『自分は本郷警察署に居るからいつでも訪ねに来ていい』と伝えたからだ。神戸ならば自由に出入りができる。それ以外、自分に用のある人物など心当たりがなかった。
「いえ、若いというか……女は女ですが、あれでは婆ですよ。どうしても警部にお会いしたいそうです」
「はぁ……。とりあえず行こうか」
附に落ちない天野は生返事をして席を立つ。その人物が待つ署の受付へと行くと、そこに居たのは確かに紗代ではなく、むしろ会ったこともない初老の女だった。心なしか生気が無いようにも見えるその女を別室に案内し、ひとまず話を聞く運びとなった。
「ええと、貴方が天野警部でしょうか……?」
「ああ、そうだ。貴女は……? どこかでお会いしたことがあるのか?」
「いえ、警部殿とお会いしたのはこれが初めてでございます。私は近衛家の使いでございまして、古くから近衛家に仕えてきた者です」
天野は首を捻る。この女に会ったこともなければ『近衛』という人物にも心当たりなどなかったからだ。決して多くはないであろうその姓は一度聞けば忘れないようなものだが……。
天野の態度に女も首を捻る。
「あの〜……奥様の遣いで来ました。紗代奥様から。言伝を……頼まれていたのです」
それを聞いて天野ははっ、とした。
——そうか、紗代は嫁いだのだった。当然姓は変わっていた。そういえばそれを聞いていなかった。
「紗代さんとは古い馴染みでした。先日、偶然街でお会いしてな。何かあれば頼ってくれと伝えたのだ。……彼女の主人の話も聞いた」
「左様でございましたか。ではその時に何かお伺いしたのでしょう……」
女は顔を伏せる。
紗代の主人に何かあったのだろうか。
「それで、俺に伝言とはなんなのだ?」
「奥様は最期に書を認めておられました。『本郷警察署の天野警部に伝言を。彼に全て話したと』と、そう……書かれておられたんです」
「……最期……?」
「奥様は亡くなられました」
「…………は?」
天野は目を見開き、口を半開きにしたままその場で固まる。瞳はゆらゆらと揺れ、唇が戦慄く。
「……亡くなった? ……紗代が……死んだ?」
「……はい」
女は目に涙を浮かべ、裾の端で目元を抑える。
奥様は亡くなられた、その言葉が頭の中で繰り返し復唱される。天野はただ無言のまま唇を動かし、頭の中で死んだ、と呟いた。
そんな天野をよそに女は語り出した。
「旦那様は今年に入ってからずっとご病気で……先日、お亡くなりになりました。それはもう骨と皮のような姿で……もう見ていられませんでした。最後はほとんど呼びかけにも答えず、逝ってしまわれました。奥様はたいそう嘆き、旦那様が亡くなられたその日に後を……追ってしまわれました。川に……飛びこんんだのです。発見されたのは紫陽花の咲き誇る水辺でした。旦那様とは違いたいそうお綺麗なお顔でした。それで遺書が遺されていたのですが……奥様は貴方様に何をお話になられたのでしょうか?」
「……ご主人が不治の病だと伺っておりました。何か協力できることがあれば言ってくれとは言いましたが……それ以外には何も」
「そうですか」と女は俯きめそめそと泣き出した。天野は巡査を呼び出し茶を用意させる。彼女こそが本来は泣くべきであろうが、なぜか涙が出なかった。頭の整理がつかないのも一理あるが、人前で涙を流すまいと知らず知らずのうちに堪えていたのだ。
——そもそもだ、なぜ紗代は死んだのだ。主人を愛していたからといって突発的に死を選ぶような激情的な人間ではないはずだ。それに……伝言——遺書の意も気になる。彼に全てを話した、彼とは自分のことではないはずだ。確かにこの近衛家使用人の女は自分のことを男だと思い、自分に何かを話たのだろうと思ったに違いない。だが当の本人は心当たりがないのだ。では、彼とは一体誰を指したのだろうか……。
「あの……よろしければ手を合わせに行ってもいいだろうか?紗代は幼い頃からの友人なんだ」
「ええ、ええ、もちろんです。奥様もお喜びになると思います」
鼻を啜りながら立ち上がる女。二人は部屋を後にし、天野は一度執務室へ戻ると警帽と外套を持ち出して女の後をついて行く。
「済まないが外へ出る」
「あ、はい分かりました。お戻りはいつ頃に?」
天野は警帽を深く被り、受け応えた巡査の顔を見ずに答えた。
「今日はもう戻らないだろう」