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紫紺の追憶7

 しとしと、しとしと。

 とても小さな雨粒は木の葉に降り注ぎ、かすかな振動で葉を揺らす。雨粒ひとつふたつでは葉の表面に水が付着する程度だ。しかし時間を増す毎に雨粒は集合し葉の先端に溜まり、やがて地へと落下する。

 (もや)に覆われた紫陽花の群生や木々、人気のない建物に色はなく、自分が今此岸に居るのか彼岸に居るのかを曖昧にした。しかし肌に感じる風が、雨が、葉を揺らした音が、景色に色をつけていく。まるで青白色から天色へ、そう見えた。

 夢から現へと戻り、再び手を動かした。摘んだ葉を袂の中に仕舞い、用を済ます。手拭きで水滴を拭い、その場から立ち去ろうと体の向き変えた。その時——。


「こんにちは。お待ちしておりました」


『彼』を見た瞬間、周囲は天色から紫紺色に変化した。

 声の主は自分の前方にある石段からゆっくりと降りてくる。その石段の先には古く小さな寺があり、自分が先程まで見ていた紫陽花もこの寺の敷地に咲いているものだった。彼の着物は遠目から見ても湿り気を帯びていると判るほど色が濃くなっていた。


「……神戸……さん?」


 紗代は数日前の出来事を思い浮かべ、彼の名を呼んだ。神戸朔太郎。ここで天野と再会した際、天野と行動を共にしていた医学生だという少年。

 靄で淡く霞む風景の中では臙脂色の着物と彼の瞳が鮮やかに映え、その赤が視界を支配する。神戸が近づく度に紗代は後方の確認もせず、じりじりと後ずさった。無意識に彼を拒絶していたのだ。


「ここなら、もしかしたら貴女にお会いできるかもしれないと思いました」


「私に……何かご用でしょうか?」


 紗代は困惑しながらも愛想良く口角を上げる。対して向かい合う神戸は同じく口角を上げているものの、その目つきはまるで彼女を睨んでいるかのように鋭かった。


「そこの紫陽花の葉、摘んでおられましたね」


「え?」


 体を緊張させ、袂を押さえる紗代。中からはかさり、と葉が擦れる音がした。


「先日お会いになった際にも紫陽花の葉をその袂の中に仕舞っておりましたよね。貴女が立ち去ったあと紫陽花の葉が舞っていました。僕はそれがずっと気になっていたのです」


 神戸は紫陽花の葉を一枚摘む。


「たまたま、着物に付いていただけではないですか? あの日もここの紫陽花を鑑賞していただけですし、葉が綺麗でしたので数枚いただいただけですの」


「ではその葉は何にお使いですか?」


「それは……貴方には関係ありません」


 紗代は顔を顰め神戸から視線を逸らす。


「……私はこれで。神戸さんも早くお帰りにならないと、お身体を壊してしまいますわ」


 目を合わせないよう顔を伏せながら会釈し立ち去ろうとする紗代。それでも彼は口を閉じなかった。


「本郷警察署で調べました。警察署には過去に本郷で起こった事件の取調書があるのですが……当然僕は警察の人間ではありませんので、それを見ることはできません。だから頼んだのです。()()()に過去の事件を教えて欲しいと」


 彼の言葉を聞いた紗代は立ち止まり、ゆっくりと後ろを振り返る。彼女の顔は青ざめ、いつも優雅に弧を描いていたあの唇は慄いていた。


 ——ある人、とは。


 頭の中が真っ白になる。視界がぐらりと揺らぐ。彼は何を言っているのだろうか。彼は、何を言うのだろうか。


「七年前、本郷のとある旅館で宿泊客のうち数名が嘔吐する食中毒事件が発生しました。死者は出ず、食中毒の原因はこの旅館で提供された料理。に、『飾り』として使われていたものでした。料理に添えられたそれを食した数名が嘔吐した、ということですが」


 神戸は左手人差し指と中指を唇の端に添えて口角を吊り上げた。


「その飾りというのが、紫陽花の葉です」


 右手で摘んでいた紫陽花の葉を紗代の前に突き出す。その葉の前で微動だにしない彼女だが、瞳は蝋燭の火のようにゆらゆらと揺れ動いていた。


「症例が少なくあまり知られてはおりませんが、紫陽花の葉には毒が含まれています。この葉を食すと眩暈や嘔吐、呼吸困難などといった食中毒の症状を引き起こします。ちなみに花は乾燥させ煎用すれば解熱の効果を得られますよ」


 紫陽花の葉を揺らし指先で遊ぶ。神戸が何かしらの返事を待つも紗代は閉口し、ただただ立ち尽くしていた。

 二人の間にしばしの沈黙が流れたあと神戸は溜息を吐き、再び口を開く。


「……似ておりませんか? 貴女のご主人の症状と」


 その言葉を聞き、紗代は一瞬体をびくつかせた。顔に冷や汗を滲ませ、ゆっくり神戸と目を合わせる。彼は眉を顰め、目を細め、蔑むかのようにこちらを見ていた。


「最初から疑っていた訳ではありませんが、症状を聞いて何かしらの中毒症状ではないかと考えました。そのとき目に入ったのが貴女から零れ落ちた紫陽花の葉だったのですが……先程も言いましたが紫陽花の葉による中毒の症例は少なく、そもそもこの紫陽花の葉は食用ではありません。仮に紫陽花の葉による中毒だったとしても、なぜそれを食したのかなんて疑問でしかありません。あるいは、誰かが()()()()()()()()食べさせていたのか」


 神戸の正視に耐えきれず紗代は再び視線を逸らし、震える自身の体を抱きしめる。胸は今にも破裂してしまいそうなほど激しく鼓動を鳴らし、顔は熱いのにひどく寒気を感じた。

 雨は先程よりも量が増し、傘を差さない二人はその着物に水分を貯めていった。水気を含んだ服とともに空気は重く沈んでいく。


「貴女、仰っていましたよね。『本郷の旅館で女中として働いていた』と。だから調べたのです。そこには載っていたのですよ、当時の従業員の名前——貴女の名前が」


「……いるの……?」


「知っていましたね、この紫陽花の毒を」


「……知っているの?」


「食べさせましたね、この紫陽花の葉を」


「……丞さんは……っ!」


 口の中は乾ききり、振り絞った声は掠れて言葉は最後まで紡げなかった。


「丞さんは知っているの?」


 俯きながら、静かに問うた。


「……いいえ。警部には伝えておりません。尋ねたのは違う警察官です」


 神戸は摘んでいた紫陽花の葉を離す。ひらひらと風の抵抗を受けながら葉は地面へと落ちていった。

 再びの沈黙。しとしとと降り続く雨だけが間を保つ。やがて紗代は深く息を吐き顔を上げ神戸を見据えた。


「そう、丞さんは……知らないのですね」


 緩やかに口角を上げ、ようやく彼女はいつもの顔を取り戻した。


「殺したかったのですか?」


「……殺したかった、のかもしれませんし、死んで欲しくはなかったのかもしれません。ただ……苦しんで欲しかった」


 眉を顰め苦虫を噛んだような表情とその言葉から、神戸は彼女の苦衷を垣間見た。


「確かに紫陽花の葉の毒についてはあの事件で知りました。当時は誰もそのことを知らなくて、ただの飾りとして料理に添えたんです。……とても怖かったのを覚えております」


 紗代は袂に収めていた紫陽花の葉を取り出す。くるくると表裏を返しながら愛おしそうに、もしくは恨めしそうに眺めていた。


「あの人と出会ったのもその頃でした。私の働きぶりを見てお気に召してくだすって、お屋敷の使用人として引き抜きをされました。……そのあと私たちは結婚して……幸せでした。子供も、いたんです」


「……子供もいた?」


 紗代の言い回しに引っ掛かりを感じた神戸は首を捻らせる。なぜならば先日、彼女は天野から子供の有無を尋ねられた際に『まだ』と答えていたのだから。


「流れたのです」


 空を見上げ顔を雨で濡らす。その瞳は遠く、雲で隠れた天を見ていたのだろうか。それともただ、雨で誤魔化したかったのだろうか。


「あの人は人当たりが良く、いつも自分のことよりも他人のことを優先して行動するような気遣いのできる人だった。でも酒に酔うと人が変わって……見境なく怒鳴り散らしては、私や周りに手を上げたの。ある日……私は酔った主人を介抱ながら階段を上っていたのです。何かが障ったのでしょう、あの人は足場が悪い階段の上で暴れ私は……足を滑らせて下まで落ちました。まだ膨れていなかった腹でも守りきれなかった。それは、仕方がなかった」


 上げた顔を神戸のほうへと戻し、あの顔で彼を見つめた。


「もう子を作ることができなくなりました。普段、主人はそれを咎めないのに酒が入るといつも言うのです。『お前の腹はもう使えない』と。それがどんなに悲しいことか、どんなに悔しいことか。……いつの間にか箍が外れてしまい、平穏や自分の幸せではなく、苦痛を感じ苦痛を与えることを考えるようになってしまった」


「それで……毎日紫陽花の毒を摂取させていたのですか」


 紗代はこくん、と一度だけ首を縦に振った。


「毒などというもの……私にはそのような知識がありません。だけど紫陽花の毒だけは知っていた。たまたまこの道を通った際に葉をつけ始めた紫陽花を目にして、思い出したのです。あの事件、そして……あの人と出会った時のことを」


「紫陽花の葉に含まれる毒は微量であり、大量に摂取しないと致死量には至らないと言われております。また、その毒は胃液に触れることで反応を起こすため嘔吐してしまえば体内には毒は残らないでしょう。中毒死ではなくせいぜい嘔吐により栄養が取れなくなり栄養失調という形で死ぬしかありませんね」


 両掌を空に向けてため息を吐く神戸。紗代は「その通りでした」と呟くと満開の紫陽花のほうへと目線を向けた。


「だから、死ななくてよかったと安堵しております。でもそれと同時にもっと苦しんで欲しかった。私の受けた苦痛はこんなものじゃないって……あの子は……還ってこない。あそこで毎年咲く紫陽花と違って、一度きりの命だったのに」


 そこで初めて、彼女の目から『涙』と判るものが流れた。


「こんなこと、丞さんには言えなかった」


 ——私の幸せを願ってくれたあの人に、こんな話はできなかった。


 止むことを忘れた涙は紫陽花の葉に溜まった露のように地面へと零れていく。

 雨は止まぬまま日は暮れ、とうとう曇天が晴れることはなかった。


「僕は死体にしか興味がありません」


 上げていた腕を下ろし、開いていた掌を握る神戸。顔を俯かせ、学帽の鍔で表情は隠れていた。だから彼がなぜそのようなこと言ったのか、紗代は意図を読み取ることができなかった。


「別に警察へ突き出そうとは思っておりません。もし貴女がすでにご主人を殺害し死体となっていたのならば、数ヶ月ものあいだ毒を盛られていた死体を解剖できただろうと考えると大変興味があったのですが。しかしそれも、どうでもいい」


 伏せられていた顔が少しだけ動き、ようやく紗代は神戸の表情を覗くことができた。が、あのあどけなさは消え、まるで明王像に見るような顔、忿怒とでもいうのだろうか。それはおぞましく、しかし今の自分に対してはその表情こそが向けられるべき眼差しであり、決して目を逸らしてはいけないのだと感じた。


「消えてください。二度と、天野警部の目の前に現れないでください」


「……」


 自分が近づいてはならない人間だということは解っていた。『正義』を背負ったあの人に対し、自分がした事は相反するものであり、それを脅かしかねないのだから。でも多分、彼がそう言ったのにはまた別の理由がある。


「神戸さんは……知っているのですね、彼女のことを」


「ええ、知っております」


 彼女とは、天野丞。丞さんが『警察官』であると聞き、ある矛盾が生じた。でも私にとっては矛盾ではない。成るべくして成ったのだと悟った。女は警察官になれない。だが彼女は警察の職に就いた。この矛盾を成立させる方法はひとつ。つまりは彼女が『女であることをひた隠しにしている』ということだ。今、目の前の少年はその事実を知っていると言った。本来であれば丞さんにとって、彼は脅威である筈だ。

 しかし二人の関係はそうではない。


「……神戸さんは丞さんのことが好きなのですね」


「ええ、愛しております」


 ——あぁ、やっぱり。


 紗代は神戸の返答で全てを理解した。

 天野に近づくなと言ったのは紗代が『天野の正義を脅かす存在』であるだけではなく『神戸の愛を脅かす存在』でもあるからだと。

 幼い頃の同調とはもう違う。分別のつく大人になったことで越えてはいけない境界線を知り、そしてそれは越えることのできない境界線なのだと知った。

 だけど今ならその線を越えられる、越えてしまうだろう。あの再会を機に忘れ去られていた感情が呼び戻されてしまったのだから。私も、彼女も。


「……男だったら良かったのに」


 遠く、空の彼方を見つめながら紗代はぽつりと呟いた。


「もう二度と丞さんの前に現れることはありません。もちろん貴方の前にも。お二人の関係を壊したくはないの」


 紗代は口角を上げ神戸にそっと微笑むと、深々と頭を下げた。


「丞さんを守っていただいて、ありがとうございます」


「……いいえ。守ってもらっているのは僕のほうです」


 紗代は頭を上げると、自身の右手を左手で握り、そっと胸に宛てがった。


「そう、それが丞さん。あの人は誰かを守らずにはいられない。自分が刃となって盾となることを望んでいる。……けれども彼女を守れる人は、もう貴方しかいないの」


 一雫の涙が紗代の頬を伝う。

 この涙にはいったいどれほどの思い出が詰まっているのだろうか、そんな考えが頭に過った。

 紗代は袂をひっくり返し、中に仕舞われていた紫陽花の葉を外に解放する。ひらひらと葉が揺れ落ちるさまを、神戸はただじっと見つめていた。

 紗代は再度、神戸に向かって深々と一礼し、ゆっくりと、静かに、その場を去った。






 それは二人の、在りし日の遠い記憶。


 同じ人間であるのに、互いの体は違う成長を遂げた。ひとりは艶やかに、ひとりは、歪に。


「母に申し上げたのだ」


 あの日も雨だった。


「何を仰りましたの?」


 少女は尋ねた。少女とも少年ともつかない、歪んだ体を持ったその子は言った。


「私は女として生きられぬ。子を成す事もできず、この先嫁ぐ事もできないだろうと。ならばせめて、父のような人間に成りたい。世のため人のために剣を振る父のように、強く生きたい。そう(こいねが)った」


 その子——丞は己の掌を見つめる。威勢の良い声の張りとは裏腹に、身を縮こまらせ震えていた。雨のせいだったのか。少女には解らない。


「どう生きようと、貴女様は私の友でございます」


 少女は丞の掌にそっと、自分の手を重ねた。同じ歳の頃である筈なのに、丞の手は自分のそれよりひと回り大きかった。背も、肩幅も。


「どう生きようと、私は貴女様をお慕い申し上げます」


「私も君を想う。君を守れるよう、強うなる」


 ——あぁ、そういえばあの時もこんな霖雨(ながあめ)の季節でございました。


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