紫紺の追憶 6
本郷へと戻る間、二人に会話はなかった。天野も神戸もそれぞれで考え事をし、互いに何かを尋ねては一言二言返すのみでこれといって会話が弾むこともなく、長く感じた行きとは違い帰路はあっという間だった。
「神戸君」
足を止め神戸の名を呼ぶ天野。天野が立ち止まったことに気づかず、神戸は数歩先を歩いたあと彼女の声で歩みを止め振り返った。
「なんでしょう」
「今日は……ありがとう。とても楽しかった」
「僕のほうこそ、今日はありがとうございました」
抑揚のない神戸の返事。特別なことではなく、それが彼の普段の声色である。しかし今の天野にとっては彼のその声色が少し怖かった。
——怒っているのだろうか、そう感じたからだ。
彼が声色を変えるのは死体を見たときだけである。従って、抑揚のない声は必ずしも怒気を孕んでいるという意味ではない。それを理解した上でそう感じたのは、自分が彼の好意を踏みにじってしまったと思ったからだ。
「……その、すまなかった。せっかく楽しみにしていてくれたのに紗代を誘ったこと。自分のことしか考えず軽率な行動をしてしまった」
二人で出かけるという約束をしたのにもかかわらず、旧友との再会に浮かれ彼との時間を蔑ろにしてしまった。紗代に出逢ったときは興奮のあまり彼女との時間を優先してしまった。別れたあとになって、その行動が神戸君にとっては面白くないものであったと気づきひどく後悔した。
「いいんです。あのときは警部がそうしたいと思ったんですから。僕にそれを止める権利はありません」
小さく微笑む神戸。天野は罪悪感を感じつつも、彼の微笑みに安堵を覚えた。なぜならばその表情は天野にだけ見せる『優しさ』の色であったから。
「ありがとう、神戸君。なぁ、もし時間があるならば俺の家で夕餉でもどうだろうか?」
「このあとですか? 僕は所用がありますので。せっかくの休日なのですから、警部はゆっくりお休みなさったらどうですか?」
「そ……そうか、用があったのに付き合ってもらって悪かった。そうだな、最近は仕事が忙しく落ち着かなかったのは確かだ。今日はもう帰って休養するとしようか」
苦笑する天野。そんな彼女に対し頷く神戸。
「では、警部」
「ああ。気を付けてな」
天野は神戸と別れ家へと歩いていく。神戸はその背中を見送ったあと帝大のほうへと歩み出す。
その道すがらにあるのは、本郷警察署だった。
本郷区を管轄する本郷警察署。署内には当然ながら警察官と、複数の一般人が見られる。ぼろぼろの着物を纏った老人と思しき人物はどうやら酔っているのか、二人の警察官に抱えられながら千鳥足で別室へと歩く。かたや洋服を着た身なりの小綺麗な人物は警察官に対し身振り手振りで何かを話している。耳を立てると、どうやら紛失物を探しているようだ。
神戸はその場の人間を観察しつつ、奥の執務室へと向かう。通常、一般人は立ち入りが許されない場所だが彼は別だった。本郷警察署から依頼された検視は全て帝大の教授である中村先生が執り行い、結果は検案書として警察に提出される。作成された検案書は警察署へ持参するのが常だが、それを担っているのが神戸だ。よって、彼の執務室への出入りが許されていた。
執務室の中は閑散としていた。天野からは『人手不足で忙しい』と聞いていたが、確かに以前までの本郷警察署に比べ待機する警察官が少ないように見えた。
執務室に入った神戸の姿を数名の警察官は一瞥するだけで、誰も彼に声を掛けなかった。神戸がきょろきょろと辺りを見回していると、やがて一人の警察官がこちらに気づき近づいてきた。
「あれ? 神戸君、どうしたんだい?」
神戸に声を掛けたのは山本巡査だった。普段は派出所勤務が多いが、この日はどうやら署内で待機していたようだ。神戸は見知った彼に挨拶をする。
「こんにちは山本巡査」
「こんにちは。って……あれ? 今日は天野警部はお休みだよ。それとも検案書を持って来たとか? うちで何か検視を頼んでいたかなぁ」
首を傾げる山本に対し、神戸は首を横に振る。
「いいえ、今日は警部に会いにでも、検案書を持参したのでもありません。山本巡査に折り入ってお願いがあるのです」
「……僕に、お願い?」
傾げた首を反転させる山本。神戸がここへ来た用が天野でもなく検案書でもなく、自分にあるということが彼にとっては意外であった。神戸は自他共に認めるほどの『人間嫌い』で、彼が天野と中村を除く他の人間と積極的に会話をする姿を山本はあまり見たことがない。対象が警察の人間であっても、仕事として交流はあるものの私語を交えることは滅多になく、自分も例外ではないと思ったからだ。
だがそんな彼がこの警察署へ赴いて誰かと話をするとしたら、天野警部に次いで自分なのだろう。
山本は以前、神戸にあることをお願いした過去があった。それは検視の方法だ。死亡推定時刻の特定方法や創の出来方、死因の調べ方、など。本来は検視によって調べてもらう事柄だが、たとえ浅くともこの知識は警察官には必要であると感じ彼から教わることにしたのだった。きっかけは昨年、自分の上司が失踪し、のちに死体となって発見されたある事件だった。神戸は検視どころか死体を見ずとも事件を『解剖』した。一方自分はというと警察官であるにもかかわらず誰が犯人かも見抜けず、さらには負傷までするという失態を演じてしまった。この手で上司を見つけられなかった己の無力さを痛感するとともに、神戸の感性に強い憧れを抱いた山本は彼から法医学について学んだのだ。
その結果神戸との距離を縮められたのなら、山本にとってこれ以上嬉しいことはなかった。かぁ、と目頭が熱くなる。
「神戸君が……僕を頼ってくれるなんて! わかったよ、なんでもお願いして!」
顔を真っ赤にし神戸の両肩をひしと掴む山本。
刹那、神戸の口がひどく歪んで見えたのは山本の気のせいだろうか。
「では……」
周りに聞こえないよう山本に耳打ちをする神戸。
「…………え?」
山本が先程まで感じていた熱さは一気に引き、今度は全身に寒気を感じた。素っ頓狂な声を上げ神戸を見つめると、彼はにっこり微笑んでいた。
「ここ一、二年分は結構ですので。あと誰にも言わないでください。もちろん天野警部にも」
「それを……僕一人で?」
「僕は山本巡査を信用しております」
神戸は口許に指を添え、屈託のない笑みを零す。純粋無垢なそれとは違う、まるで鬼が嗤ったような顔に見えた。
「……わかったよ」
——僕の休日が、無くなった。
山本は観念し神戸の願いを承諾した。了承を得た神戸は『ありがとうございます』と一礼し、本郷警察署を去っていった。
あの再会から数日、六月も半ばを過ぎていた。本格的な梅雨入りもし、連日の雨により空気は湿り気を増すばかりで呼吸をする度に肺も気分も重苦しくなる。
その日天野は強盗殺人事件の捜査で集めた情報を精査していた。昨日ある質屋の主人が店内で死んでいるのが発見され、辺りは元の店内の面影をなくすほどひどく荒らされていた。頭から血を流し倒れていた男、そして現場の状況から強盗と判断した警察は死体を運ぶ前に神戸を現場に呼ぶことに。彼は頭部に陥没した痕を発見したことから詳しく調べる必要があると判断、検視を帝大に依頼する運びとなった。事件が発覚した時刻が夜を過ぎていたため検視は次の日に回し、取り急ぎ死んだ店主の周辺を捜査していた。
帝大では今朝から検視は始まっているだろうからそろそろ死因の特定はできているだろう。検案書を貰う前に少し話を聞きに行かねばだ。また、荒らされた現場で消えた物がないかをこの店主が質入れで受け取った物品の台帳と照らし合わせる作業も残っている。普段であれば下の者に頼む作業だが、今は人を選んではいられない。派出所への人員を優先しなければならず、署内は手薄になっているのが現状だ。
やらねばならないことを整理すればするほど、何から手を付けてよいのかわからず天野はため息ばかりを洩らしていた。だがそんな状況でも彼女は今一つ仕事に集中できずにいた。梅雨がもたらす不快感も原因の一つだが、何よりも紗代のことが気掛かりだった。
——あれから主人の体調はどうだろうか、紗代の負担は、看病のしすぎで彼女自身が気を病んではいないだろうか。
ふと紗代のことが頭に過っては、今はそれどころではないと自分に言い聞かし首を横に振る。自分の本分は地域の安全を保つことなのだ。
「俺は今から帝大へ話を聞きに行ってくる。そのあと例の質屋に向かうから、原林と山本はこの台帳を持って先に店に向かってくれ」
天野は椅子から立ち上がり警帽を被ると、手にしていた店の台帳を原林に託した。
「あのっ……天野警部!」
執務室を出ようとする天野を呼び止めたのは山本だった。
「帝大へ行くなら、僕に行かせていただけませんか? ちょっと神戸君に用があって……。それに、天野警部が先に現場に赴いて指示を出されたほうが円滑に捜査ができると思いますし……」
やや姿勢を低くし、天野の様子を伺いながら尋ねる山本。天野は少し不審そうに彼を見るも、問題はないだろうと判断しその提案を承諾した。
「解った。では中村先生に死因と、その他に判明したことがあれば聞いておいてくれ。そのあとはお前も現場に来い」
「はい、了解しました!」
山本の返事を聞いて天野は他の警察官を引き連れ署を後にする。山本は軽く溜め息を吐いて、後に続くように署を出て帝大へと移動した。
帝大の別棟にある法医学教室の一角に位置する解剖室では中村と神戸が死体と向き合っていた。頭部の皮膚は骨から剥がされ、顔の半分まで捲られていた。皮膚の下の頭蓋骨は丁度額の真ん中辺りから切り離され、さらにその下に存在する脳が露出していた。
通常目にする死体とは違い『分解』されていく人間の姿。硝子越しにその光景を見た山本は思わずたじろぐも、意を決して扉を叩いた。
「こ……こんにちは。本郷警察署の山本です」
「あぁ山本巡査か。どうも」
拡大鏡で脳を覗いていた中村は顔を上げ山本を視認する。
「あの、天野警部の代わりに伺いました。その……死因などは判明したんでしょうか?」
「うむ、頭部以外に外傷は見当たらなかった。結論から言えば死因は頭部を殴打されたことにより生じた硬脳膜外血腫だ。血腫により外傷性脳障害、脳圧迫を引き起こし体の機能が停止したということだな」
中村は赤黒く変色した脳を指差す。山本は目を細めながらその指の先にあるものを見た。死体を見ることはあっても脳を見ることは滅多にないが、だからと言って見たいものではない、と山本は直感した。
「それと初見では見えなかったものですが、どうやらこの死体は二度同じ箇所を殴打されたのではないかと」
神戸は切り離し膿盆に乗せられた頭蓋骨を山本の前に差し出す。頭蓋骨には陥没した箇所があり、その範囲は掌に収まるほどだった。
「一見して一箇所に見える陥没ですが、全体の範囲に比べ一部だけ陥没が深くなっています。凶器が一部分だけ突出していたことで陥没の深さにばらつきが出たという可能性もありますが、そうではなく同じ箇所を二度殴られたと考えております。……例えば薄墨で円を塗り潰し、位置を少しずらし重なるように再度薄墨で円を塗りつぶせば、重なった部分の色は濃くなりますよね。恐らくそれと同じような現象ではないかと思っています」
「ならば死因についても納得するものがある。この遺体が発見される数時間前には元気に店を構えていたと聞いたが、一度の殴打であればよほど強い衝撃でない限りその数時間で死に至るには少し不自然であるのだが……二度となれば脳は強い衝撃を受けただろう、それが原因で短時間のうちに脳の機能が停止したとなれば死因に納得がいくのだな」
神戸の説明に補足する中村。山本は視線を右上、左上と動かしながら二人の会話を聞いていた。
「なるほど……。じゃあ二度も被害者を殴ったとなれば動機は怨恨……とか?」
「だと思います。事故であったり動きを封じるためだとすれば一度殴るだけで十分ではありませんか。理由はなんであれ、二度も殴るということはそこに『殺意はあった』のではないでしょうか」
神戸の解釈に頷く中村。神戸は持っていた膿盆を近くの台に置く。
山本は帽子を持ち上げて二人に一礼した。
「では天野警部にはその死因と、犯人の動機についての見解をお伝えさせていただきます。……と、神戸君。ちょっといいかな?」
山本は解剖室を後にする直前、神戸に向かって手招きをした。
今日は別の教授による法医学の講義が行われていたためか、廊下には多くの生徒が行き交っていた。そのため二人は棟の外に出ることにした。
「見つけたよ、君が探していたやつ」
山本は懐から掌ほどの小さな手帳を取り出す。開くとその中身は鉛筆でずらりと文字が書かれていた。
「もう調べるの大変だったんだからね。休日も返上したんだから」
「さすがは山本巡査。ありがとうございます」
「さすがに埋め合わせしてもらいたいんだけどぉ」
唇を尖らせる山本を見てうーん、と口許に指を当て考え込む神戸。やがてその指を唇から離し、ぴん、と垂直に立てた。
「中村先生が隠れて自宅で作っておられる酒があるのですが、これがまた美味しいのです。それをお裾分けいたしますね」
「え、それって。……いいの?」
「紛いなりにも僕は中村先生の書生なので。色々と見つけるのですよ。まぁおひとつ無くなっていたからといって、きっと気づかれはしないでしょう」
——ちょっと神戸君に恩売ってやろうかと唆したつもりが、いつの間にか中村先生まで巻き込んでしまった気がする。いや、僕は知らない。知らないぞ……。
最早互いが互いに他人事である、というような顔をしていた。
「……で、それを見せていただけるのですか」
神戸は山本が持っていた手帳を指差す。山本は彼の指先を目で追い、自分が手にしている手帳を見て一瞬でも忘れていた本来の目的を思い出した。
「あ、ああ……。えーっと、事件があったのは七年前だね。後にも先にもこの一件だけだったよ」
山本は調べ物を書き写した手帳の面を開き神戸に渡す。受け取った神戸は書かれた文面を指で追いながらをまじまじと読む。やがて目当てのものを見つけたのか、神戸はごくり、と喉を鳴らした。
「Heureka」