紫紺の追憶 5
「な……なんだこれは!」
——大の大人が大人げもなく店内で声を張り上げる。この声の主はもちろん。
「警部、特段驚くことでもないでしょうに。銅鑼焼きの皮のようなものですよ」
自身の前に置かれた皿に目を輝かせる天野。その隣では神戸が呆れ顔で、向かいには紗代が淑やかに笑いながら卓に座っている。
ここは神田に最近できたという西洋菓子を提供する茶屋だ。神田は本郷とは一部の区画を除いて、川を隔てた隣に位置する。かつてはいくつもの武家屋敷が連ねられていたが、幕府が倒れ多くの武家がこの地を撤退したことで広大な敷地だけが残り、その敷地を活かし官立学校が建てられた。結果、帝大を筆頭に数多くの学校が存在する本郷区と神田区はあらゆる学生で溢れかえる『学生街』として有名になった。
そんな学生街の一角にあるこの店には男女関係なく学生が多いようにも見える。また、背広を着た男らも見られる。食べ物を求めて来た、と言うよりは物珍しさに惹かれて来たのだろうか。まさに自分のように。何やら珍しい西洋料理、それも甘い食べ物らしい。といった噂を耳にはしたものの一人で出向く勇気はなかった。料理を含め西洋にはあまり詳しくないので、それに通ずる神戸君を連れてでもしないと来られなかっただろう。
どんな料理が来るのか、甘味を味わうのが何よりの愉楽である天野にとってこの時間は果てしなく長く感じられた。見目は、香りは、味は、未知との出会いに心を躍らせ鶴首して待った。が、いざその料理を目にすると想像とは少し違っていた。見慣れたような、だが見たことはないものが目の前に運ばれた。
丸く、薄く焼かれた何か。確かに銅鑼焼きの皮のようだ。特段唆られるような甘い香りもしない。しかし一緒に運ばれてた小鉢からは甘酸っぱい香りがする。それに見慣れた小豆餡もある。
目の前の皿を凝視する天野に、神戸は汚さないよう袴の袖を押さえながら皿を指した。
「これは『パンケーキ』といって西洋の料理です。僕も独逸に居た頃は何度か食べました。ほら、それを付けて食べるんです」
神戸は卓に置かれた小鉢を幾つか指す。あの甘酸っぱい匂いのするものが入った小鉢だ。
「これは『ジャム』です。果物を煮詰めたもので、えーっと……まぁ柚子練りみたいなものです。これは苺ですね、甘くて美味しいですよ」
神戸は小鉢からジャムを匙で掬い、パンケーキの上に乗せる。それを見て同じように天野も苺のジャムを、紗代は自身の近くに置いてあった小鉢から小豆餡を乗せた。
皿と一緒に小刀と肉刺しが食器として運ばれた。神戸と紗代は器用にそれらを使い、パンケーキを小さく切り分け口に運ぶ。天野は二人の動作を見て食器を手にするが、上手く使いこなせなかった。小刀を右手に持つも左手の肉刺しが安定しない。もたもたする天野を見て神戸は彼女の皿を引き寄せた。
「いいですよ、僕が切り分けますから。そのフォークで刺して食べるんです。それともお箸をいただきますか?」
「い……いや、大丈夫だ。すまない、使い方が……わからなくて」
「いいんです。この国では使う文化のない物ですから」
神戸はすいすいとパンケーキを切り分け、皿を天野の前に戻す。天野は右手で肉刺しを持ち、小さなパンケーキをジャムで包み口に運ぶ。
「酸っぱい! でも……甘い」
先程までは食器を使えなかったことで己の知識のなさに赤面していた天野も、パンケーキを口に運んだ瞬間にその赤面は興奮の紅潮へと変わった。
もっちりしたパンケーキには味はしないが、添えたジャムはとてつもなく酸っぱく、甘かった。その甘さと味のなさが一体感を生み、薄い生地でも食べ応えがあった。
「苺のジャムが気に入ったみたいですね、丞さん。甘い食べ物が好きなのは昔から変わらないですね」
舌鼓を打つ天野に向かって微笑む紗代。つい夢中になって食していたことに気付き、天野は食器を置いた。
「ついつい美味しくてな……。苺というものを初めて食べたんだ」
「まぁ、丞さんジャムをお気に召したのですね。それでしたら今度苺のジャムをお送りいたしますよ。うちにあるのですが主人も誰も食べないんですの。一人で食べるにはたくさんの量をいただきまして……」
「……主人……そうか、君は結婚していたのか」
紗代の口からでた『主人』という言葉に反応する天野。
紗代は自分と同い年だ。女ならば既に嫁いでいることが当たり前の年齢である。だから予想はしていた。していたが、久々に逢った紗代は自分の知っていた頃の彼女ではないような気がして、寂寥感が否めない。
「はい。数年前に結婚いたしました。私、本郷の旅館で女中として働いていたんです。その時に……今の主人と出会いました」
目を伏せて語る紗代。口角を少し上げ、薄っすらと微笑む表情に天野は少しだけ安堵した。
——幸せ、なんだな。
「主人は外交のお勤めをなさっているんです。時々外国のお菓子や調度品を頂戴することがあって……。丞さんさえよろしければお裾分けいたします」
「いやそれは……流石に申し訳ないな。気持ちだけでも受け取らせてもらうよ」
紗代の申し出を丁寧に断る天野。紗代は少し残念そうな表情を浮かべる。
「だから君はこれらを使えるんだな」
天野は小刀と肉刺しを見る。自身は神戸に切り分けてもらったが、紗代は彼から指導を受けずに難なくこの食器を使いこなしていた。
「主人の仕事柄、時々外国の方との会食に付き添っていたこともあって、西洋の作法も練習しましたの。それを言えば……神戸さんもお上手でしたね。先程独逸に居たとか仰ってましたが」
「ええ。父の付き添いで独逸に留学していました」
ひとり黙々と食事をしていた神戸は一足先に食べ終わり、胸布で唇許を拭っていた。
「はぁ、お若いのにそんな経験まで……敬服いたしますわ。神戸さんはどちらで丞さんとお知り合いに?」
「警部と知り合ったのは昨年です。全身から骨を抜かれた死」「あああ! 一年前に事件の参考人として話を聞いたことが切っ掛けでな! それ以来親しくさせてもらっているんだ!」
紗代の前で、この食事をする場で、『死体』などという言葉を出させるものか!
神戸の言葉を遮り慌てて説明をする天野。紗代は少し首を傾げきょとん、とした表情を浮かべるも「そうですの」と納得し笑みを浮かべた。神戸は天野の意図に気付き、唇を尖らせる。
「丞さん、面白いでしょう? 荒っぽい性格の割には繊細で、とても優しい人。誰とでも仲良くなれるけど、曲がった事をする人には決して容赦しない、とても強い人。多分丞さんのことだから昔から変わってないと思う」
「確かに。警部は自分が気に入らないとすぐに声を荒らげるし手も出すし。そのくせ悩みだすとうじうじ、うじうじ。面倒臭い性格してます」
大きな溜め息を吐きながら天野を尻目にかける神戸。二人の天野に対する分析は的を射ていて、しかも自負していたことから反論ができなかった。自分の性格を暴露された天野はまさに青菜に塩といった有様だ。
「けれども私は……私を守ってくれていたけど、丞さんこそ危なっかしくて放っておけなかった。なんでも自分がやらなきゃって背負っちゃうから」
天野を真っ直ぐ見つめる紗代との距離は決して遠くはない。だが彼女の瞳はどこか遠くを、まるで天野の瞳を通り越し脳へと語りかけているように見えた。
「神戸さん。だから丞さんをどうか……よろしくお願いいたしますね」
紗代は視線を神戸に移し顔を綻ばせる。神戸にとっては思い掛けない言葉だったのか目を少しだけ開くが、何かを返答することなく一回だけこくん、と首を縦に振った。
「神戸君にはいつも助けられているんだ。大事な、俺の大事な友人だ」
天野は前屈みになり神戸の頭に掌を乗せる。
「俺は一人っ子だったからな、弟ができたようで楽しいんだ」
乗せた手で神戸の髪の毛をわしゃわしゃと乱暴に撫で、彼は悲鳴を上げながら天野の手を振り解こうと踠いている。その光景を見て「お似合いのきょうだいね」と紗代は小さく笑った。
「そうだ、君のところは子供はいないのか?」
「……ええ、まだ」
「そうか。……ぜひ君の子供を目にしたいものだ」
「そう……ですね」
紗代の声色が変わった。表情は口角は上がっているものの翳りが見える。その様子に対し天野は怪訝そうな顔をして口を開いた。
「……もしかして、何か悩み事があるのか?」
その場の空気が一気に重くなるのを感じつつも、天野はそれを聞かずにはいられなかった。紗代は昔からよく笑う人であった。嬉しい時も悲しい時も、その口角を決して下げなかった。しかし瞳だけはいつも正直で、幅広い色を表現していた。
今の瞳の色は、喩えるなら暮色だ。
「いいえ、悩み事の程でも……。ただ、主人が……病気ですの」
紗代は二度ほど首を横に振ったあと少しだけ顔を伏せた。
「二ヶ月も前からになります。医者に診ていただいても原因が判らないんです。食事も摂れなくて、日に日に痩せていく主人を見るのが……辛くて」
微かに肩を震わせる紗代に掛ける言葉が見つからず、天野は唇を強く結んだ。
幸せだと思っていた。結婚して、聞く限りでは随分裕福な暮らしに見える。きっとこれから子を授かることもあっただろう。でも、それは自分の願望でしかなかったんだ。彼女は、彼女だけは女としての幸せを感じているものだと。
「食事が摂れないと言うのはつまり、嚥下できない、という事ですか? それとも摂取した後に嘔吐しますか?」
二人の沈黙を破るように、神戸は紗代を見ながら口を開いた。
「……は……吐き出してしまいます。食べても後に戻してしまうんです」
「では下痢は? 発熱や呼吸困難、失神といった症状は? 皮膚に紅斑や痒みは」「神戸君」
前のめりになりながら矢継ぎ早に問い掛ける神戸の言葉を天野が遮る。紗代は少し困惑した表情を浮かべていた。
「……すまない紗代。気を悪くしないでくれ。彼は……その、帝大の医学生なんだ」
「そう……でしたの。やっぱり、優秀な帝大生さんなんですね」
神戸に微笑み返す紗代。神戸は無表情のまま姿勢を戻した。
「お医者様からは匙を投げられました。だからきっと誰も……主人を助けられないと思います」
そこで天野と神戸は今日初めて、紗代の口角が下がった瞬間を見た。
それもそうだ、医者にも見放された病気の夫に対しいつまでも気丈な態度でいられようものか。愛する人間の命の灯火が尽きるやもしれない現状を、彼女はずっとひとりで耐えていたのだろうかと思うと慰めの言葉も出ない。愛する人間を失ったこともない自分が放つ惻隠の情など、その日が近づいている人間に対しては重みがないだけだ。
天野はじっと紗代を見つめ、彼女に掛けられる最善の言葉を探していた。しかしなんの言葉も出せなかった。彼女らの座る卓は静まりまた暫しの間沈黙が流れた。
「僕の母は胃を患い亡くなりました」
再び沈黙を破ったのは神戸の声だった。
「食事も粥すら飲み込めなくなり、吐血して、死にました。この世で一番愛していた人でした。医者である父でも母を助けられませんでした。医学はまだ発展途上です。病気の発見も完璧ではなく、また発見したところで治療法がないものも沢山あります。……でももしかしたら数年後、明日かもしれません、未知だった治療法が確立するかもしれない。医学は……そういった世界です」
そう話す神戸の表情には悲壮が見えた。かつて経験した母の死の悲しみの中に医学の未来を視る、そんな表情だと天野は感じた。
「ごめんなさい、お医者様を非難するつもりはなかったの……。ただどうしたらいいのかわからなくて……」
「紗代、俺には君のご主人の体を治すことはできないし君の立場なら同じように悩むだろう。でもそうなったら、誰かに話しを聞いてもらいたいと思う。なんでもいいから肯定してもらいたいと思う。自分が精一杯支えていることを、最善を尽くしていることを。だからもし必要になったら……誰かに頼って欲しい」
天野の言葉が終わる頃には、紗代の瞳に涙が溜まっていた。そして葉の先端に集まった雫のように、やがてぽたりと落ちた。
「……はい」
三人が店を出る頃には雨は止み、雲間から光が差し込んでいた。
「今日はありがとうございました。折角お二人でお出かけになっていたのにお邪魔するような形になってしまいまして……」
「いいんだ、気にしないでくれ」
手を横に振り苦笑いする天野。その隣で神戸は否定も肯定もせずじとっと天野を見ていた。
「今日お二人に出会えて本当に良かった。久しぶりに楽しい時間が過ごせました」
「紗代さえ良ければまたいつでも相手になってくれ。本郷警察署に来てもらえれば、俺はいつでもそこに居るから」
「そんなこと言って。警部なんて内勤が嫌だって言っていつも外を歩き回っているではありませんか」
神戸の頭に再び拳骨を落とす天野。本日二回目の鉄槌に悲鳴が上がる。
「そのときは私も歩き回って丞さんを見つけ出しますね」
ふふ、と笑みを零す紗代に釣られ天野も顔を綻ばせる。彼女の笑みはいつも周りを巻き込ませる魅力があった。
「では、また」
紗代は二人に一礼し、くるりと反転しその場を去った。天野は後ろ髪を引かれる思いでその背中を見つめていた。はらり、と紫陽花の葉が舞うのを神戸は見ていた。