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紫紺の追憶 4

「やっぱり……丞さんなのですね…」


 女は天野を見て微笑む。それはとてもやわらかく、今にも蕩けてしまいそうなほど温かい笑みだった。

 天野は首を傾げその女の顔をじっと見つめる。直近で会った人物の顔を思い出すも、そのどれもが当てはまらない。だがやがて記憶の中から強烈なまでの感情と共にその名を掘り起こした。


「……紗代(さよ)……?」


 天野が口にした名前に、その女は歓喜し駆け寄って来た。


「そうです、紗代でございます。ご無沙汰しておりました…!」


 女は頬を紅潮させ、一礼する。天野もまた、自分が思い出したその人物であると判明すると、少し顔を赤らめた。


「紗代か! 随分と綺麗になったじゃないか! 全くもって気が付かなかった……」


「でも丞さんは一目見て判りました。だって小さい頃からお変わりないんですもの。……でもまた背が伸びました?」


 紗代と呼ばれた女は少し姿勢を低くし、天野を覗き込む。その仕草に天野の顔は一層紅潮し、合わせた目を逸らしてしまう。女は観察するように、または目を合わせて欲しいのか、まじまじと天野を見つめていた。その視線に耐えきれず、天野の鼓動は高鳴り息を吸うことすら出来なくなっていた。

 そんな二人とは対称的に、ひどく冷めた視線を天野に送るのは一人の男だった。


「……警部、どなたですか? こちらの(メス)は」


 神戸のあからさまに棘を含む物言いに、天野は彼の頭に拳骨を落とす。学帽が緩衝となった、とは言え神戸は小さな悲鳴を上げ頭を押さえていた。


「その言い方はやめないか。彼女は紗代、俺の幼馴染だ。彼は神戸朔太郎、帝大生なんだ。訳あって知り合いでな」


 神戸を叱りながら紗代に紹介する天野。天野の拳骨を食らった神戸は彼女に向かい舌を出して悪態をつく。その態度に腹を立てた天野が再び拳を振り上げると、神戸は慌てて両手で頭を庇った。そんな二人の遣り取りを見て、くすくすと笑う紗代。


「もう、丞さんったら。乱暴はいけませんよ。初めまして、紗代と申します。帝大生さんだなんて優秀なお方なのですね」


 嫌味ではなく、素直な感想を述べる紗代は神戸に一礼する。神戸は眉間に皺を寄せつつ、礼を返す。そして視線を天野に戻すと再びやわらかい笑みを浮かべた。


「丞さんとはご近所で、よく一緒に遊んでおりました。最後にお会いしてから何年が過ぎましたでしょう。それに……今、丞さんのことを『警部』とお呼びしておりましたが、丞さん、まさか本当に警察におなりに?」


「実は……そうなんだ。縁故を辿ってな。今は隣町の本郷警察署に勤務している。君は今どこに住まっているのだ?」


「私は小石川に住んでおりますの」


「俺も君も、住んでいた所から離れてしまったからな。……だが本当に……綺麗になった」


 天野と紗代は互いを見つめながらはにかむ。まるで遠い場所に置き忘れた恋慕の情を思い出したかのように。

 その二人を更に見つめる視線がじっとりしているのは、小雨のせいだろうか。

 神戸は目を細ませながら口を開いた。


「……警部」


 神戸の声にはっ、と喉を詰まらせ彼の方へと顔を向ける天野。旧友との思わぬ再会に浮かれ、一時でも彼の存在を忘れてしまっていた。


「なんですか、先刻から二人して顔に紅葉を散らして。生娘生息子じゃあるまいし。警部が行かないなら僕帰りますけど」


 着物の水滴を払いつつ、口を尖らせ抑揚のない声で催促する神戸に、天野は慌てて謝辞を述べた。


「すまない。つい彼女との再会が嬉しくてな……。雨がひどくならないうちに行こうか」


「すみません、急に引き止めてしまって…これからどこかにお出でだったのですね」


 紗代は申し訳なさそうに頭を下げる。天野は首を横に振り彼女に向き直る。


「いや、いいんだ。これから神戸君とこの先の店へ行こうとしていたのだ。そうだ、よかったら……紗代も来ないか?」


 天野の一言に彼女は目を見開いた。もちろん、天野の後ろに居た神戸も。


「……でも、折角お二人でお出かけになっていらっしゃるのに、私が付いて行ったらご迷惑では……」


 紗代はばつが悪いと思ったのか、眉尻を下げてちらりと神戸を見る。先程の彼の言動からしてあまり機嫌がよろしくないことは察しているようだ。そんな彼女の視線を感じ取り、神戸は目的地の方向に体を向け歩き出した。


「……別にいいですよ。僕のことはお気になさらず」


 神戸の素っ気無い態度を気に留めるも、天野にとっては今、旧友と時間を共有したいという想いの方が優先されていた。


「……どうだい?」


 紗代は躊躇する素振りを見せるも、天野と同じ想いを抱いていた。


「はい。ご一緒させていただけるのであれば。また丞さんと…もう離れるのは勿体ないですもの」


 頬を赤く染めながら、紗代は遠慮がちに承諾した。

 先行く神戸を追い、二人は肩を並べ歩き出す。はらり、と紫陽花の葉が舞った。

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