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紫紺の追憶 3

 ——決して、女には成れぬ。然れど、男にも成れぬ。



 その日は曇天であった。せっかくの休日だというのに、梅の雨が近いためか。この時期はあまり好きではない。

 天野は襯衣(シャツ)と着物を交互に見ていた。洋装にするか、着流しにするか。顎に指を添え、首を左右に振っては宙を見つめていた。

「……ただ、神戸君と近くに出るだけではないか……」

 天野はふと我に返り、襯衣を手に取る。崩れせを気にせずに着れる襯衣は、警察の制服で着用する事が多い天野にとっては馴れた服であり、動き易い。しかし、白く薄手の生地は(サラシ)を巻かねば着ることはできない。それは少しばかり億劫だった。

 いつも着けているのだ。今更窮屈だとか感じることでもない。

 自身の胸に晒を巻き付ける。胸囲を始めとし、肋骨の終わりまでを覆っていく。そこでふと、左下腹部の傷が目に入った。三寸ほどの縦筋、その周囲には縫合され、抜糸した際の痕が残っていた。抜糸の痕こそ点々と残るが、縦筋に残る切開の痕は開くことなく綺麗に閉じられていた。

 このときの記憶は無い。どのように切られ、どのように触れられたのか。


 ——彼が、この傷を癒した。


 この傷を見る度に自分は彼の所有物にされたのかと思い総毛立つ。


『切り裂きジャック』


 血に染まったような赤毛、その存在とはまるで真逆な、神秘的に青く光る瞳。当時は『アイザック・ブレア』と呼んでいた。だがその名も本物ではないだろう。医師かどうかも疑わしいが、実際に病院に勤務し、傷の処置がこのように完璧なあたり、その腕だけは本物だっただろう。

 数年前、英吉利(イギリス)で起きた連続娼婦殺人事件。英吉利では犯人の特定に至らず未解決となっている、その当事者がこの国に潜伏していた。彼は自らの手を汚すことなく殺人を楽しんでいた。同僚の医師を唆し娼婦を殺害させ、自身の心を満たしていた。そう、神戸君から聞いた。

 そして彼も自分に執着していた。神戸君と同じように。女として。

 なぜ自分なのか。それを聞く術は最早無い。

 だがその執着の証拠がこの傷とあの言葉だ。


『貴女を切り刻み、内蔵を掻き回し、殺すのはこの私だ』


 まるで不治の病を引き起こす呪詛のような言葉が、いずれ現実のものとなる。言い知れぬ確信があった。いつか、明日かもしれない、目の前に彼が現れ外科刀で喉を裂いた後、腹を裂き内臓を蹂躙するだろう。

 『その』死体を見てきた自分にとって想像するのは容易い。

 この一年、腹の傷を見てはこれが頭を過っていた。

 (ズボン)を履き、革帯(ベルト)で留める。背広は……あまり着て歩き回ると目立ってしまうから今日はよそう。……しかし一雨降りそうな天候であるし、念のため外套は持って行こうか。

 外套を腕に掛け天野は自室を後にした。

 家を出ると、玄関先で神戸が足下の小石を雪駄で弄んでいた。彼は天野に気付くと、満面の笑みを浮かべた。


「警部! おはようございます」


「おはよう神戸君、家の中で待っていればよかったではないか」


 二人の間にそれほどの距離はないものの、天野は早足で神戸の許へと近付く。


「いつもお邪魔しては迷惑ではありませんか」


 天野は目を丸くして神戸を見る。

 いったい、どの口から『迷惑』などという言葉が出たのか。むしろ彼は図々しく他人のことなど考えない人間だ。思ったことはすぐ口に出すし、思い立ったらいつの間にかその場から消える。そして今まで何度か我が家に誘ったが、迷惑という意思で断られたことなどなかった。


「……神戸君も大人になったものだな」


「どういう意味ですか、それ」


 感心した目で神戸を見る天野に、彼は口を尖らせて睨む。


「いや、なんでもない。さぁ行こうか」


 神戸の背中を叩き天野は歩き出す。彼女の手の力に勢い余ってずれた学帽を直しながら、神戸は尖らせた唇を引っ込めた。


「今日はずっと一緒に居られるのですよね」


 隣を歩く神戸が天野を見上げる。その丸い瞳はよく彼の『色』を映し出す。こうした無垢な子供のような澄んだ色、かと思えば、死体から広がる赤黒い染みのような、何もかもを吸い込むようなどす黒い色。天野はそんな彼の瞳が好きであり、ときに恐怖であった。いずれにしろ、見つめられれば常に心を解剖されている気分になる。

 神戸を少し見下ろし、彼の望む返答をした。


「ああ、終日休みだからな。どこか行きたい所でもあるのか?」


「どうせ甘味処へ行くのなら、出合茶屋にでも行きましょうよ」


 神戸の明け透けな言葉に天野はぐっ、と喉を閉め噎せ返る。


「ばっ……ば、馬鹿か君は!」


 天野は咳き込み、涙目になりながら神戸を見る。神戸は素知らぬ顔で正面を見据えていた。


「僕達はいい大人ではありませんか。男と女が揃って、何もしないというのは生殺しです。それとも、ずっと生娘でいるおつもりですか?」


 ——見た目は子供のくせに、考える事は男のそれである。


 天野は荒れた呼吸を整え、今度は彼女が神戸を睨む。


「……そんな所へは行かないし、男だとか女だとか……そんなもの興味はない!」


 天野は顔を真っ赤にして嫌悪する。彼の冗談とも本気とも取れる言葉はこれまでも受けてはきたが、『出合茶屋へ誘う』なんてものは冗談でも口にしてはいけない。そういったものには疎いと自負はしているが、世間を全く知らない訳ではない。出会茶屋とは男女が密会に使用する場所であり、近代化を、と謳われているこのご時世でもいまだ存在する触れてはならない場所。そこへ行きたいということは、つまりは『情を交わしたい』ということだ。


「まったく、その点で言えば警部はまだまだ子供ですね」


 神戸は後頭部で両手を組み口を尖らせる。

 なんとでも言うがいい。ここで神戸君に反論すれば彼の思うつぼである。……だがこれ以上食い下がってこないあたり、冗談ではあったのだろうか。

 天野は動悸を抑え、神戸の少し後ろを歩く。目的地までは近いとはいえまだまだ歩くだろう。


「ところで、先日の事件はどうなったのですか?」


 神戸が振り向き天野を見る。神戸君が訊ねる先日の事件、とは一つしかないだろう。


「それがなんとも不幸な事件だが……あの水仙の葉を摘んだのは、亡くなったご老人本人だ」


「……それ本当ですか?」


 予想だにしていない返答だったのか、神戸は足を止め目を見開いていた。


「他の被害者に聞いたところ、あの朝例のご老人が皆に山菜を配っていたそうだ。いつも早朝に山菜や野草を採りに行っては周りに振舞っていたらしい。だから誰しもがそのご老人を、貰った水仙の葉を疑いもしなかった、という訳だ」


「まさに、とんだ迷惑を撒き散らしたものですね」


「そうだな、住民に叱咤されながら井戸水まで封鎖したが、結果がこれではな。皆疲れ切っていた」


 苦笑いする天野。事故というのは毎日そこかしこで起きているが、これだけ騒ぎ立て死亡者を出して結果が自らが摘んだ葉で食中毒死とは、本当に誰も浮かばれない。

 食中毒の代表と言えるものが、一昔前では『河豚(フグ)毒』であったが、法が整備されたお陰で事故率はかなり少なくはなった。だが食中毒というのは決して珍しいものではなく、身近な病気でありいつでも起こりうる事件なのだ。


「植物由来の毒は先人達の『経験』からそれなりに解明はされていますが、植物というのは東西南北、果ては世界で生息する種類が違いますし、その文献が広く知れ渡っている訳でもありません。まだ知られていない植物の毒もあるでしょうし。それらの知識を吸収し、この国に普及させるのも医学ですからね」


 再び歩みを進める神戸。天野もそれに続く。家屋が並ぶ道を抜け、商店が並ぶ通りに出る。人が、馬が、闊歩するゆっくりとした時間。いつもは警察の仕事として周りを警戒しながら歩いている道も、その職を解けばこんなにも時の流れは穏やかに感じるものだったのか。

 しばらく無言で歩いていた二人だが、天野がその沈黙を破る。


「なぁ、神戸君」


「なんでしょう?」


 天野の呼びかけに、神戸は視線だけ彼女の方へと向ける。


「君は医者になるのか?」


「はい?」


「いや……先程の会話でな。知識を吸収し、この国に普及させるもの医学だと言った。君は今後の進退についてどうするつもりなのかなと……。学業はあと二年、一年半か。医者となり病院に勤務するのか……それともやはり中村先生の下で法医学者になるのか?」


 天野はふと疑問に思った。神戸君はいつまでも学生ではない。いずれは修業し、卒業するのだ。だが彼から将来についての話など聞いたことはなかった。……それは自分も同じではあったが。

 いつまで『警察』として、『男』として身分を偽りこの仕事に携わることができるのか。それを考えることが怖かった。

 神戸は口角に指を添え、うーん、と小さく唸る。


「……そもそも『医者』というものに興味がありませんので。学ぶことは好きです。ですが生きている人間に触れ、治療をするという行為は僕にはできません。目の前で死なれては嫌ですから」


 神戸は悪戯に両掌を空に向け、自嘲気味に笑う。目の前で死なれては嫌、その言葉の意味を知っている天野から見れば、彼のその態度が不憫に思える。

 それは一年前、ある事件で彼と巡回中、喉元を引き裂かれた女を見た。その女にはいまだ息があり、口から、頸部から血を噴き出しながら助けを求めてきた。あまりにも血腥い光景に自分は神戸君にその女を救うよう求めた。警察が、知識を持たない一人間ではもうその女を救えない、でも医学の知識がある彼なら、咄嗟の判断で彼に女を託そうとした。

 しかし、その場で誰よりも怯えていたのはその彼だった。

 神戸君は生者を、とりわけ死する直前の人間に対しひどく恐怖する。

 それはかつて幼き頃、病気により全身の痛みから苦痛に悶え、血を吹き出し死んでいった母親の一部始終を目の当たりにしたことにより植え付けられた感情だった。

 目の前で命が消えることが彼にとって『恐怖』であり、苦痛に悶える女に母親を重ね、彼は足下から崩れ落ち全身を震わせていた。その出血量から瞬時に悟ったのだろう。その女がもう手遅れだということを。

 そして自分が刺されたあの日。意識が朦朧とする中、無意識に彼に助けを求め帝大まで這って行った。だがあの日もまた、神戸君は触れることができなかった。生死の境を彷徨う自分を。

 最愛の人の命の灯が目の前で消える。幼き頃のその体験がどれほど自身の心を縛っているか、恐らく本人ですら自覚していないだろう。神戸君は、だからこそ死体を愛し、死んだ最愛の人——母親の首を今も抱き続けているのだ。標本瓶に詰められた女の首を毎日抱いている、彼の『秘密』。

 死した母親は献体に回され父親の手によって解剖され、その死に嘆く我が子のために頭部を切り離し標本にしたのだった。

 母親の死と父親の気遣いが彼を作り上げたと言うならば、誰がそれを責めようか。


「……医学の知識があるからといって、必ずしも医者になる必要などないからな。不躾なことを聞いて悪かった」


 天野は眉間に皺を寄せ、目を逸らして神戸に謝罪する。己が問うた内容はひどく失礼なことだったと反省した。


「いえ、いいんです。どうせいつかはその選択を強いられる時が来るのですから」


 神戸は淡々とした態度で天野に微笑み返した。気にしないでください、と付け加えて顔を前に戻す。天野もそれ以上は口を開かなかった。

 この大通りを抜け少し外れた所に例の店があるらしいが、まだまだ歩くだろう。そろそろ雲行きが——。

 そう思い天野が空を見上げた頃には、ぽつらぽつらと雨粒が落ちてきていた。


「ああ、降ってきてしまったな……」


「そうですね」


 天野は嘆息し、腕に掛けていた外套を羽織る。

 持ってきていてよかった。いくら小降りと言えどこのまま濡れては風邪を引いてしまうだろう。


「神戸君、君は平気か?」


「ええ、帽子を被っておりますし、これくらいの雨でしたらなんでもないです」


 神戸は掌を空に向け、落ちてくる雨粒を見ている。肌をしっとりと濡らす程度の小雨ならば存外気にする程のものでもないのだろうが。


「あともう少しの辛抱だ。こんな天気に付き合わせてしまって悪かった」


「いえ、僕は警部と一緒に居られるのならどこでも、どんな天気だろうと構いません」


 にっこりと笑い、天野を見上げる神戸。その笑顔に、天野はいつも喩えようのない安心感を覚えていた。彼の笑顔が、変わりゆく世界でただひとつ変わらないものに感じる。

 天野は微笑み返し、神戸の背中に手を添えた。


「さ、もう少しで着く筈だ。行こう」


 天野は軽快な足取りで歩みを進める。聞いた話によるとこれから行く甘味処は西洋菓子の店らしい。甘い物が好きな天野にとって未知の甘味を想像するだけで涎が滴るだろう。

 小道には紫陽花が咲き誇り、辺りは紅碧に染まっていた。

 そしてそれらの前で佇む一人の女の姿が見えた。まるで周りの紫陽花と同化でもしているかのような淡い碧の色無地、綺麗に結い上げられ蜻蛉玉の簪を挿した黒髪。その表情は見えなかったが、頭を垂れじっと紫陽花を見ていた。

 なんの気なしにその女を見ては、視線を戻して横を通り過ぎる。雨は先程より量が増えた気がする。


「……丞さん?」


 背後から声を掛けられ、天野と神戸は後ろを振り向く。声の主はこちらをじっと見ていた。それは紫陽花の前に立っていた、あの女だった。

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