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紫紺の追憶 2

明治二十四年、六月。

 背中を大きく切り裂かれた後、頸部より上と四肢の小さなものを除いたほぼ全身の骨が抜き取られ、麻袋に詰め込まれた凄惨な遺体が発見された。自分が本郷警察署へ赴任して、初めて見た遺体だ。否、あれほどの遺体はどこであろうと見ることはなかっただろう。本郷警察署では最寄りの帝国大学医科大学に遺体を運ぶと聞き、早速赴くことになった。一人で、皆帝大を恐れ付いてくる者はいなかった。正確には帝大に住まう『誰よりも死体を好む魍魎(もののけ)』を恐れて。


 それこそが神戸朔太郎だった。初めて顔を見たとき、彼は巨大な熊の死体の中に居た。『熊に食べられる気分はどんなものなのか』と言う彼に対し、部下たちが言っていた『誰よりも死体を好む魍魎』の正体だとすぐさま理解した。

 全身の色が失われ、唯一の有色である赤い瞳はまるで血を吸ったようだった。詰襟に燕脂と墨の袴、頭には学帽。身の丈はこの国の男児としては平均より少し低く、その容姿はまだ幼年であるかの如き幼さが色濃く、大学という場にはあまりにも不釣り合いで当初彼が大学生だとは思っていなかった。だが、どうやら丁年には達しているらしい。風貌こそ少年だが、彼の知識は西洋医学、東洋医学を修得し大人をも凌駕するものだった。事実、あらゆる知識から生まれる機転に何度も助けられた。それらの知識は全て『死体を愛する』故に身に付いたものである。


『死体は自分の側を離れない、死体は自分に文句を言わない、死体は、痛がらない』


 それは幼き頃の純真故に生まれた、生者を拒み死者を受け入れるという彼の愛の形だった。

 そして自分の『秘密』を暴き、脅し、警察の職権を利用し己の欲望を満たそうとする『狡猾さ』も持ち合わせている。


 それが今目の前にいる少年、神戸朔太郎だ。


「やぁ神戸君。検視ご苦労だった。中村先生はどちらに?」


 中村先生とは、帝国大学医科大学の法医学者であり、我々本郷警察署から検視を依頼している教授だ。神戸君の師であり、彼の父とも由縁があるらしく、諸々の面倒も頼まれているらしい。

 神戸は解剖室に入ると手にしていた盥を近くの作業台に置いた。まだ濡れている盥の中には、解剖で使用した器具が収められていた。

 どうやら彼は今し方までそれらの器具を消毒し洗浄していたのだろう、と天野は一瞥する。


「先生は所用で今居りません。ですので検視は終了しましたが、検案書はまだです」


 解剖の際に着用していた割烹着を脱ぐ神戸。その割烹着には洗濯では落ちきれない血や脂の染みが生々しく残っている。

 天野は近くの椅子を引き出し、腰掛ける。神戸は(たらい)の中の器具の水滴を布で一つ一つ拭っている。


「承知した。まだ現場は混乱していてな、話を終えたら俺は逆戻りだ。原因が判るまでは交代で見張りをしなければならない。誰がこの事態を引き起こしたのかもいまだ判明していない」


 深い溜息を吐く天野。神戸はその姿を横目で見ている。

 今朝、ある長屋の一角で集団によるなんらかの中毒事件が発生した。男女複数名が嘔吐、下痢、頭痛などを訴え、そのうち一名が吐瀉物にまみれ死亡していた。自分と共に現場に到着した神戸君の所見で毒物を摂取した可能性が高いという見解から、長屋周辺を封鎖する事態となった。意識のある者、ない者は病院へ、そして遺体はここへと運ばれた。死因となった毒物を特定するまで近くの井戸すら使用禁止となり、周辺の人々が水を摂取しないように我々が監視、警戒に当たらなければならなかった。


「いえ、その必要はないかと。もう事態は収拾するでしょう」


 神戸の含みのある言葉に首を傾げる天野。


「……それはつまり、毒物の原因が判明したのか?」


「ええ、大凡(おおよそ)は。あとは生きている人間の胃の内容物でも病院で伺えばよいかと」


「いったい何が原因だったのだ? やはり水か?」


 天野が身を乗り出すと、神戸は振り向き、天野の後ろを指差した。天野が振り返ると、そこには饐えた臭いを放つ胃の内容物と思われる物が乗せられた膿盆が置いていた。


「……なんだこれは」


「この死体の中に残っていた、『(にら)』……と間違えて食べた物です」


「に……ら? と間違えた物?」


 勿体ぶる神戸に、合点がいかない天野。神戸は右手人差し指と中指をそれぞれ左右の口角に宛てがう。これは神戸の癖の一種だった。何かを考えているとき、嬉しいとき、事ある毎に彼は唇に触れる癖がある。


「原因はこの韮にとてもよく似ている、水仙の葉です。水仙の葉には毒が含まれてます。摂取すると下痢、嘔吐、発熱等の症状が出ます。通常でしたらこれを食して死に至る事はないでしょうけれど、この死体は七十を超える老体だったために体力が尽きたのでしょう。『不幸な事故』と言ったところでしょうか」


「……事故? 誰かが故意に毒を盛った、ということではないのか?」


 神戸の回答にいまだ納得がいかないのか、天野は『事故』に疑念を呈す。神戸は天野の近くに駆け寄り、膿盆を持ち上げて鑷子(ピンセット)で胃の内容物を掻き分け、緑色の葉のような物を摘まみ上げた。


「これです。端から見たら未消化の韮ですよね」


「あ……ああ、確かに似ている」


「ですが、韮を食しても通常嘔吐や下痢などの中毒症状は出ません。このような葉の形状、そして中毒症状からして、水仙の葉を食した、というのが僕と中村先生の見解です。長屋の一角ということですが、本来は臭いで判るであろう韮と水仙の葉の区別がつかなかった誰かが採取し配り歩いたのではないでしょうか。または行商から買ったか。いずれにしても、どこかの素人が摘んできた物でしょう」


 鑷子を置く神戸。天野は呆れ顔で死体を見る。そして椅子から立ち上がり再び深い溜息を吐く。


「では伝染の恐れはないようだな。現場に戻って監視を解き、その水仙の葉の出所を調べよう。病院へも被害者へ話を聞かなければな」


「検案書は本郷警察署へ持って参ります」


「ああ、よろしく頼む」


 天野は踵を返し扉まで歩いていく。いつもならここで別れるのだが、今日は違った。


「警部」


 不意に後ろから神戸の声がし、天野は歩みを止め後ろを振り返る。神戸が唇を尖らせ何か言いたげな表情で天野を見ていた。まるで親にそっぽを向かれて拗ねている子供のように、否、そのままである。


「……最近ここ以外で会う回数が減りましたね」


「え? ……そうだろうか?」


 確かに最近死体を介してでしか神戸君と話をしていない気がする。いや、元々そうではあったし事件や死体の件数が特段減った訳ではない。ただ……彼との会話の時間は確かに減っている気がする。本郷警察署では退職者が数名出たことから慢性的な人員不足に陥り、最近は休日を返上して仕事をしている状態だ。とは言えここ帝大以外で会うとしても警察署か、時々我が家へ茶に誘うくらいしか……。


 ——そうか、『それ』がないのか。


 天野から目を逸らす神戸はいまだ口を尖らせて、元より膨らみのある唇が一層厚みを増していた。いつもは直情的な言動を取る神戸だが、この日は顔にこそ出ているものの何かを言い淀んでいるように見える。

 暫し目を泳がせた後、天野はこほん、と一回咳払いをした。


「じ……実は最近、近所に新しい甘味処ができたんだ。気にはなっていたのだが一人だとどうも……それで、明後日だが一緒に行ってみないか?」


 妙に恥ずかしい言葉である。甘味処へ一緒に行こうと誘うこの言葉が。しかしそれしか誘い文句が出てこない自分が最も恥ずかしい……。


「……それって、警部がただ行きたいだけじゃないですか」


 相変わらず唇を突き出したまま、じっとりとした視線を天野に送る神戸。天野は神戸のその言葉に一瞬落ち込むも、それが承諾だと気付き思わず吹き出してしまった。


「そうだな。ぜひとも君に付き合ってもらいたい」


「いいですよ。僕も甘い物、食べたいですから。じゃあ約束ですよ、警部」


「もちろんだ、約束する」


 神戸の頭を撫でる天野。腕を曲げたときに丁度良い高さにある小さな彼の頭を撫でるのが何より心地良い。素手で撫でたときの彼の滑らかな髪は尚更だ。

 天野の手が離れぬまま、神戸は天野の腹に腕を回し密着してきた。それは思ったより強い衝撃で、天野は一瞬たじろんだ。


「……愛してます、警部」


「知っている」


 それは何度も聞いた、彼の告白。『死体を愛する男』からの言葉。『愛』の矛先が死体から自分へ向けられているのを、自分は知っている。


「じゃあ、流石に戻らなければ」


 天野は神戸を引き離し、彼に目配せして解剖室を後にした。

 正直名残惜しい。もう少し彼の頭を撫でて、彼の話を聞いていたかった。自分は彼が唯一心を開いた『生者』なのだから。

 自分の秘密を知る、唯一『女』の姿を知っている者なのだから。

 女人禁制の警察組織に性別を偽って所属する『秘密』を。

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