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医學生 神戸朔太郎の解剖カルテ  作者: 綾峰けう
神去りて、小春
10/10

神去りて、小春1

 明治二十四年、寒露。


 あれから半月が経った。腹の傷はまだ痛む。糸で縫い合わされた皮膚は奇麗に癒合して見えるもののまだ抜歯はできず、傷口は軟膏を塗布され綿紗(ガーゼ)で覆われていた。

 綿紗の交換にはだいぶ慣れた。初めこそ人に頼んでいたが、今では一人で処置できるようになった。

 当然、病院には行っていない。行けない。行けば医者に身体を見られるからだ。

 だから処置は彼に頼んでいた。神戸君に。

 いつも行う解剖のように、血管の一本を摘まみ上げる時と同じように、繊細で丁寧な治療を施してくれた。素人目から見てもその手つきは鮮やかで、彼にその気があるのなら名医と呼ばれる存在になるだろう、そう感じた。


 天野はその日、帝大へと足を運んでいた。いつもの警察の制服ではなく、着流しに羽織姿で。勤務する本郷警察署の署長であり、天野の伯父でもある日下部からはあの日以来療養を命じられ、天野は休職を余儀なくされていた。とは言えども、彼女にとってこの期間はただ暇を持て余しているだけに過ぎなかった。普段から椅子に座り報告書を書く内勤ですらもすぐに飽きて投げ出してしまう彼女が、何もせず安静になどできる筈がなかった。

 

そんな状態の天野にとって唯一の楽しみは神戸との会話だった。彼は毎日、講義が終われば家へ見舞いに来てくれた。大抵は死体の話で、警察から依頼された検視でこういう死体だった、死因は、凶器は、犯行の動機は。その死体から見たものを彼はとても楽しそうに話す。常人はともかく天野でも理解しがたい内容ではあるが、その会話の本質は内容ではなく『神戸が他人と対話』することだ。死体の話など、きっかけに過ぎない。

 そう、毎日来ていたのだ。それなのに昨日は姿を現さなかった。

 だから彼を探しにここまで来た。


 天野はいつもの事務員に頼み、神戸を呼んでもらうよう声をかけようとも思ったのだが、一般人として来た以上は完全な私用である。彼女は諦め、授業が終わるまで帝大の校庭を散策しようと考え本館を出ようとした——その時。


「おや、天野警部ではないか」


 天野の背後に立つのは、この帝大の教授で法医学者。そして死体を愛する神戸の師、中村知道だ。


「中村先生、おはようございます」


「今日は警察の制服もなしに、どうしたんだね?」


「……いえ、別に……。その、神戸君に会いに来たんですが」


「神戸君? ……ああ、君には話していなかったのかね。神戸君は今実家だよ」


「……実家?」


 天野は不意に首を傾げる。これまで様々な会話を神戸としてきたが、『実家に帰る』などとは一言も発していなかった。

 急用だろうか。


「丁度、今日の朝向かったところだ。まぁ二、三日で戻るだろう」


「そうですか」


 天野は心に穴が空いたかのような物足りなさを感じた。いつも隣に居た神戸が人知れず姿を消したことで、自分だけ取り残されてしまった。


「ところで、傷はもう大丈夫かね?」


「え? ああ、だいぶ良くなりました。神戸君のお陰です」


 横腹をさする天野。本当はまだ痛むも、彼女はそのことは誰にも言えなかった。痛むと言えば皆が心配する。その気遣いが天野にとっては息苦しかった。


「そうか」


「えぇ」


 中村との会話がなくなる天野。いざ制服を脱げば、何を話せばいいのかわからない程彼とは親しくなかったことに気付いた。いや、逆に神戸と親しくなりすぎたのだ。

 気不味い空気が流れていることを感じた天野が帝大を後にすると告げようとした時だった。


「君は今、休暇中だったかね?」


「ええ。そうですが……」


 中村は仰ぐと口髭を指でなぞり、何かを考え込む素振りを見せた。うむ、と一声発し改めて天野に向き直った。


「君に神戸君の住所を教えよう。横浜へ行ってみるといい」


「俺が……横浜へ?」


「そうだ。君にはその()()がある。彼女を知っているのだからな」


中村の含みのある物言いに天野は思考を巡らせた。『彼女』とは一体誰のことだろうか。


「あの……彼女って誰のことですか? 失礼ですが思い当たる人物は……」


「『首』だよ。神戸君が愛する首——神戸はる、彼の母親だ。明日は……彼女の命日だ」


「それってつまり……」


「そう。彼は墓参りに行ったのさ」


天野に何も告げず神戸が行った先は、母のもとだった。

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