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紫紺の追憶 1

 明治二十五年、芒種。

 袖笠雨の中、まるで沈痛な思いから落とす涙のように、溜まった雨露を零す紫陽花の前で俺達は再会した。



 東京府本郷。文明開化が唱えられ、西洋化が進む中でも古き街並みがいまだ残るここは少し奇妙に見える。

 隙間なく敷き詰められた昔ながらの商家が並ぶと思いきや、金のある商人はまるで蔵のように大きく、硝子張りの窓を散りばめた異国風の店を構え他を圧倒させた。そんな景色の移り変わりに違和感を覚えるのは、自分がこの時代の変化を受け入れているからだろうか。

 いずれはこういった建築物が家として当たり前になる日が来るのだろうか。

 いずれは自分を『偽らず』とも、受け入れてくれる時代が来るのだろうか。


 天野(あまの)(たすく)はいつもと同じ門から入り、いつもと同じ本館の職員に挨拶し、いつもと同じ別棟へ向かっていた。

 ここは帝国大学医科大学。この本郷の象徴となりつつある帝国大学の一部であり、医学校としてはこの国の中で恐らく頂に位置するであろう。最新の西洋医学を筆頭にあらゆる部門の医学をここで学ぶことができる。

 また敷地内には病院も付属し、多くの医者や研究者、学徒は勿論、西洋医学を教授すべく遥々欧羅巴(ヨーロッパ)からやって来た所謂『お雇い外国人』なども在籍する。

 本郷警察署の警部である天野がここへ来る理由はただ一つ。下手人を追うためでも、病院へ見舞うためでもない。

 『彼』から話を聞くためだ。

 天野は帝国大学医科大学の本館より少し離れた別棟を訪れる。

 扉を開き中に入ると、棟内はしんとしていた。今日は授業が無い日なのか静かである。

 人気が無いのは当たり前だ、授業以外でここに足を踏み入れる人間は滅多に居ないだろう。仕事のためとは言え自分とてあまり来たくはない。

 ——法医学教室。治療のためではなく、死後のための医学を学ぶ場所。かつては『裁判医学』と呼ばれ、なぜ死んだのか、なぜ、殺されたのかを分析するための医学だ。

 勿論天野はここに学びに来たのではない、調べるために来たのだ。正確には『彼』が調べた事柄を聞きに。

 向かうのは棟内の奥、解剖室。

 ——コン、コン

 戸を二回叩き、両扉の片側を押す。上半身を室内へ進入させたところで天野は自身への呼び掛けが無いことに気付き、そこで室内は無人であることを知った。

 解剖室は然程大きくはない。壁際には書類の入る棚や、備品、薬品が仕舞われている大きな茶箪笥。天井は高く、足台を使用しても届くかどうかに位置する窓は『虫』の侵入を極力防ぐために最小限の造りになっている、と聞いた。

 だがこの室内の構造上、まず目に飛び込むのは扉の目の前に設置された検視台であり、場合によっては遺体である。

 今日は遺体。それもそうだ、この遺体を運んだのは自分なのだから。

 そして次はこの室内に充満する腐敗臭と薬品の臭いが目に、否、鼻に付く。最近では『まし』になったが、以前は髪の毛にまで付着した臭いに家人も眩暈がしていた。母からは『折角の御髪が台無しである』と呆れ顔で洗髪を命令される始末だ。ならばいっそのこと、この長い髪を切り落としてしまいたいと後頭で結った髪を指すと、『それはなりません』と首を横に振るのである。

 天野は一人、解剖室内をうろうろしていた。といってもよく来るこの解剖室には特に目新しいものはなく、違いというのはこの検視台の上に乗せられる人間だけである。

 ちらり、と検視台の上の人間に目をやった。白い布が掛けられた遺体は少し平たい。


「警部、検視はもう終わりましたよ」


 天野が背後からの声に気付き後方を見ると、大きな盥を持って微笑みかける『彼』——神戸(かんべ)朔太郎(さくたろう)の姿を捉えた。



 神戸朔太郎。死体を愛し、解剖する少年。

 彼と出会ったのは最早一年も前になる。自分が本郷警察署へ着任してすぐの頃、この本郷で起きた一件の猟奇殺人事件がきっかけだった。

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