72:鈍色の雨3
前回のざっくりあらすじ:ニースの悩みを、グスタフたちも知った。
ニースが食堂から部屋へ戻ろうとしていた頃。ラチェットは出来上がったばかりの楽譜を手に、グスタフの部屋を訪れた。昼寝をしていたグスタフは、寝ぼけ眼をこすりながらラチェットを迎え入れた。小さなテーブルに向かい合わせに座ると、あくびをしながらグスタフは尋ねた。
「ふあ……それでラチェット。何の用だ」
「お待たせしました。ようやく完成しました」
「完成……? 何の話だ?」
グスタフは首を傾げたが、はっとして声を上げた。
「例のあれか! 考えがあるって言ってた!」
ラチェットは笑みを浮かべて、楽譜を手渡した。
「これです、座長」
眠気が吹き飛んだグスタフは、真剣な眼差しで楽譜に目を通し、何度も頷いた。
「これはいいな。歌で重奏をさせるつもりなんだな?」
「ええ。僕はこれを重唱と呼ぼうと思っています」
グスタフは愉快げに、がははと笑った。
「重唱か! これは二人で息を合わせないと出来ないな。これなら、ニースもセラと向き合わないと無理だ」
「この曲に歌詞をつけて、二人に歌ってもらおうと思います。舞台のために、少し我慢して歌い続けていれば、そのうちきっと、ニースのわだかまりも和らぐと思うんです」
微笑んだラチェットに、グスタフは笑みを返した。
「ああ。いいと思う。歌詞はこれから作るのか?」
「はい。メグに手伝ってもらおうと思います」
「それなら、セラが楽譜を覚える時は、私が手伝おう。その方が、歌の完成も早い」
「そうして頂けると助かります。早速、セラちゃんに伝えてきますね」
「ああ、頼む」
ラチェットが足早にグスタフの部屋を去ると、グスタフは、バイオリンを手に取り、調弦を始めた。
一方。お湯をもらったニースが部屋に戻ると、ラチェットはいなかった。ニースは一人でお茶を飲もうと、茶器がしまってある棚の扉を開けた。
「あ……」
棚の中には、茶器と一緒に小さなアルミ缶が入っていた。それは、セラが忘れていったクリームの缶だった。ニースは、後でセラに返せるようにと棚にしまい、そのまますっかり忘れていたのだ。ニースは缶を手に取り、しげしげと見つめた。
――そういえばセラは、メグみたいにすべすべの手になりたいって言ってたよね……。
缶の蓋を開けて見てみると、クリームは残り少なかった。
――あとこれしかないんだ……。
ニースが蓋を閉めようとすると、パラパラと雨音が強まった。ニースは、雨が叩きつける窓の外に目を向けた。町は暗く、雨が止む気配は感じられなかった。
――雨、また強くなってる。来週がセラの誕生日だけど……。ジーナさんが言ってたように、セラのお祝いが終わるまで、町にいることになるのかな……。
ぼんやり窓を眺めていたニースの手から、缶の蓋が滑り落ちた。ころころと蓋は転がったが、ニースの足元にコツンと当たって止まった。蓋の行方を追っていたニースの視界に、履いている靴が映った。
――ぼくの誕生日にもらった靴……。メグとセラが選んでくれたんだ。あの時のセラは笑ってたのに……。
ニースは蓋を拾い上げ、缶を閉じた。鈍色に光る缶をじっと見つめたニースは、決意を込めるように、ぎゅっと缶を握りしめ、部屋を出た。
――相談するのは、マルコムさんがいいよね。ジーナさんはメグと一緒にいるし、ラチェットさんは忙しい。グスタフさんは……きっと分からないと思うし。
ニースは、真っ直ぐマルコムの部屋へ向かった。しかし、部屋の扉を叩こうとして躊躇した。
――勢いで来ちゃったけど……。ぼくは、セラの顔を見れないのに、プレゼントだけ贈るつもりなの?
ニースが缶を見つめて迷っていると、マルコムが後ろから声をかけた。
「ニースじゃないか。どうした?」
ニースは気まずそうに視線を漂わせた。
「えっと……」
「何か用事があって来たんだろう? 中に入ろうか」
ニースは迷ったまま部屋に入り、勧められた椅子に座った。窓を叩きつけていた雨は、ほんの少し勢いを緩めていた。マルコムは椅子に座り、問いかけた。
「ニース。さっきから何を握ってるんだ?」
ニースはマルコムの言葉に、どきりとしたが、意を決して缶をテーブルに置いた。
「マルコムさん。この中身って何なのかわかりますか?」
マルコムは缶を手に取り、蓋を開けた。
「ああ。これは手につけるクリームだな。だが、ただのクリームってわけじゃなさそうだ。たぶん、何かハーブオイルが入ってるんじゃないか?」
「ハーブオイル……?」
「効果を高めるんだよ。炎症を抑えたり、保湿力を高めたりとかだな。この香りだとたぶん……」
クリームの説明を聞いても、ニースには、さっぱり分からなかったが、マルコムに相談して良かったと感じた。
「これって、似たようなものをこの町でも買えますか?」
「この町は小さいからな。まあでも、薬屋にいけばあるとは思う。しかし、ニース。こんなもん使ってたのか?」
不思議そうに問いかけたマルコムに、ニースは、ぷるぷると首を横に振った。
「これ、ぼくのじゃないんです。えっと……この前、セラが忘れていって……」
言い辛そうに声を落としたニースに、マルコムはニヤリと笑みを浮かべた。
「ほおー。セラちゃんとお揃いのを、ニースがつけたいってことか」
ニースは慌てて頭を振った。
「ち、違います! これは、その……。セラの誕生日に、何かプレゼントしてあげたくて……」
マルコムは、ニヨニヨと笑みを浮かべた。
「なるほどなぁ。プレゼントか。そうか、そうか」
マルコムの笑みを見て、ニースは誤解が解けていないと感じ、必死に言葉を継いだ。
「あの、マルコムさん。ぼくは、誕生日の時にセラに靴を選んでもらったから、そのお礼がしたいだけです。それに、セラは綺麗な手になりたいって言ってたけど、このクリームは残り少ないから、缶を返す時に、たくさん使えるように新しいものを一緒に渡したいってだけです。ぼくが使いたいわけじゃないんです」
「わかってる、わかってるよ」
頷くマルコムの顔は、ニヨニヨと笑ったままだった。不機嫌さを強調するように、ぷぅとニースは頬を膨らませ、缶を手に立ち上がった。
「本当に違うんです。からかわないでください」
ニースはムッとしたまま、部屋を去ろうとした。するとマルコムが、真面目な声音で語りかけた。
「ニース。それなら、クリームをただ渡すんじゃなく、もっと喜んでもらえる方法があるぞ」
マルコムの声に振り向いたニースは、ゆっくり頬から空気を抜いた。マルコムは、茶化すような笑みではなく、優しい目をニースに向けていた。
「女の子っていうのは、ちょっとした驚きが好きなんだよ。ただの銀色の缶じゃ、せっかくクリームを渡しても、感動が薄いと思わないか?」
ニースは訝しみつつも問いかけた。
「感動……ですか?」
マルコムは、しっかりと頷いた。
「ああ。クリームについては、ジーナの方が詳しいから、後で聞くといい。だがもし俺がニースなら、そこにさらに感動をいくつか付け加えるね」
ニースは、じっとマルコムの目を見つめた。マルコムの綺麗な青い目は、ニースをからかおうとするものではなかった。
――マルコムさんは、女の人と仲良くなるのが得意だから、きっと喜ばれるんだろうな。せっかくのお誕生日だし、セラには笑ってほしいけど、ぼくはセラを傷つけてるし……。
ニースは考えた末、ぺこりと頭を下げた。
「教えてください。マルコムさん」
「ああ、もちろんだ」
マルコムは、柔らかな笑みを浮かべて引き受けた。ニースが座りなおすと、二人は相談を始めた。雨音に混じって、調弦を始めたグスタフのバイオリンの音色が響いた。
マルコムの部屋の真下が、ちょうどメグとセラの部屋だ。バイオリンの歪んだ音色の中、ラチェットはメグたちの部屋の扉を叩いた。
「ラチェットさん……こんにちは」
扉を開けたセラは微笑んで挨拶をしたが、どこか元気がなく、寝不足のように疲れた顔をしていた。
――セラちゃん、相当悩んでるな。どうにかしないと。
ラチェットは胸の内を隠したまま、平静を装いセラに笑みを向けた。
「セラちゃん、こんにちは。メグはいないの?」
「はい。メグさんは今、食堂でジーナさんとお茶を飲んでいるはずです」
「そうか。それじゃあ、ここで用件だけ伝えていいかな」
セラは首を傾げ、ラチェットを部屋の中に誘った。
「あの、お話があるなら、椅子にどうぞ。テーブルも片付いてますし」
しかしラチェットは、入り口から動かずに首を横に振った。
「いや。女の子一人の部屋に入るわけにはいかないからね」
「え?」
セラは一瞬不思議そうな顔をしたが、何かを察したように、ふわりと微笑んだ。
「そっか……。ラチェットさん、優しいですね」
「そうかい?」
ラチェットは、はははと笑うと、気持ちを切り替えるように、メガネをくいと上げた。
「それで、セラちゃんに話したいことなんだけど……」
「はい。なんでしょう?」
ラチェットは懐から楽譜を取り出して、セラに見せた。
「この楽譜なんだけど、僕が新しく書いた曲なんだ。歌詞はこれから付けるんだけど、この曲をニースと一緒に歌ってほしいんだよ」
「ニースと一緒に……ですか?」
顔を曇らせながら楽譜を受け取ったセラに、ラチェットは穏やかに言葉を継いだ。
「ああ。これは、旋律が二つに分かれていてね。重奏みたいになってる。重唱って呼ぼうかなって、僕は思ってるんだけどね」
「重唱……」
ラチェットの話を聞いて、セラは楽譜に目を落とした。セラはニースと共に、ラチェットから楽譜の読み方を教わっていた。ラチェットは、真剣に楽譜を見つめるセラに微笑んだ。
「旋律が二つに分かれてるから、二人で歌わないと曲にならないんだ。セラちゃんには、この旋律で歌ってもらって、ニースにはこっちで歌ってもらおうと思ってる」
ラチェットは、曲の主旋律をセラに、副旋律をニースに割り振っていることを伝えた。セラは、戸惑いながら顔を上げた。
「でも、私は今は……」
ラチェットは、小さく頷きを返した。
「わかってるよ。セラちゃんも気づいてるんだよね? ニースの様子がおかしいこと」
セラは、きゅっと唇を結び、こくりと頷いた。ラチェットは、優しくセラに微笑んだ。
「実は僕はね、ニースから、その理由を聞いてるんだ」
「理由……。どうしてなんですか?」
縋るように問いかけたセラに、ラチェットは宥めるように答えた。
「それは教えてあげられないんだ。でもその代わりに、僕はこの作戦を考えたんだよ」
「作戦……?」
首を傾げたセラに、ラチェットはにっこりと笑みを浮かべ、言葉を継いだ。
「そう。セラちゃんとニースの仲直りの作戦だよ」
「仲直り……」
セラは、ラチェットの言葉を噛みしめるように呟くと、ほんのり笑った。
「これを歌えるようになったら、ニースと前みたいに仲良くなれますか?」
セラの言葉に、ラチェットはしっかりと頷いた。
「ああ。僕はそう思ってる。そのために、この曲を書いたんだ。歌詞はこれからメグと作るから、まずはセラちゃんの担当する旋律だけ、覚えておいてくれる?」
「はい。やってみます」
セラが明るい声で頷いたので、ラチェットは胸を撫で下ろした。調弦を終えたグスタフのバイオリンの音色が、ラチェットの耳に届いた。
「座長の準備も良さそうだね。僕はこれから歌詞を考えなくちゃならないから、覚える時は座長に手伝ってもらってね。座長には伝えてあるから」
「わかりました」
ラチェットが去ると、セラは早速グスタフの元へ向かった。優しいバイオリンの音色と共に歩くセラの足取りは、ほんの少しだけ軽くなっていた。




