68:色無き風の中で2
前回のざっくりあらすじ:またしてもオルガン馬車が立ち往生。
日を追うごとに風は冷たさを増し、草原は色を無くす。秋の陽光が照らす中、二台の馬車はいくつかの町や村を素通りし、街道を南下していった。グスタフは、一刻も早く皇都から離れようと、馬車を急がせていた。
焦燥しきったマルコムは、気持ちが落ち着くまでグスタフと共に御者台に座っていることなり、オルガン馬車の手綱はラチェットに任された。グスタフとジーナの頭が、マルコムの事でいっぱいな中、ニースは一日のほとんどの時間を、オルガン馬車の荷台に閉じこもって過ごした。ニースは、休憩時や食事の時ですら、皆の前に姿を見せなかった。その様子に、メグとセラは心配したが、ラチェットが様々な理由をつけてニースに静かな時間を作っていた。ラチェットはニースの事が心配だったが、あまりに思い悩むニースに尋ねる事が出来ず、きっかけを掴めるまでは優しく見守る事に決めていた。
オルガン馬車の荷台で、一人静かにオルガンを見つめているニースに、ラチェットは度々、窺うように声をかけた。最初は元気のない受け答えだったものの、日を追う毎に少しずつニースの反応は良くなっていった。その日ラチェットは、いよいよニースの抱える悩みに切りこもうと、手綱を握りながらメガネをくいと上げた。
「ニース。ちょっといいかな」
膝を抱えて座っていたニースは、ラチェットの声を聞いて、御者台と繋がる小窓のそばへ身を寄せた。
「はい、ラチェットさん。なんですか?」
ニースは、澄んだ黒い瞳をオルガンへ向けたまま、馬車の外板を挟んで、ラチェットと背中合わせに座った。ラチェットの穏やかな声が、ニースの耳に届いた。
「あのさ。ニースに、ちょっと聞きたいことがあるんだけど……皇都で何があったんだい?」
ニースは自分の視界が、どす黒いモヤモヤに覆われて濁っていくように感じた。ニースが答えに詰まっていると、ラチェットは、さらに言葉を継いだ。
「嫌なら答えなくてもいいんだけどさ。誰かに喋った方が、気持ちが楽になることってあると思うんだ。僕で良ければ、いつでも聞くよ。もちろん、誰にも話したりはしない」
ニースは俯き、きゅっと口を結んだ。じっと考え込むニースの言葉を、ラチェットは待った。石畳を叩く蹄の音と、転がる車輪の音だけが、二人を包んでいた。
しばらくしてニースは、ふぅと大きく息を吐き、顔を上げた。
「ぼく……歌の力がなくても、楽しく歌えればそれだけで幸せだって、ずっと思ってたんです」
小さな声で静かに語り出したニースの言葉を、ラチェットは聞き逃さないように耳を澄まし、相槌を打った。
「うん」
「ぼくは、父さま……伯爵さまに剣を向けられた時は、訳がわからなくて、ただ怖かった。でも、おじいちゃん達と出会って、ラチェットさん達と出会って、どんどん歌うことが楽しくなりました」
「うん。僕もニースの歌が好きだよ」
「ありがとうございます、ラチェットさん」
ラチェットは前を向いたままだが、ニースが微かに笑ったのを感じた。ニースは、切なげに言葉を継いだ。
「でもぼくは、楽しく歌うだけじゃ、満足出来なくなりました。皇都で、パクスさまやルイサさまたちが、たくさん褒めてくれたのに、それだけじゃ、物足りなく感じたんです」
「……そう」
「ぼく、変わっちゃったんです。いつの間にか、欲張りになったみたいで……。今は歌の力を取り戻したいって、思うようになりました」
「そうか」
ニースの目は、じっとオルガンに向けられていたが、その目はオルガンを見てはいなかった。
「ぼく、羨ましいんです。……セラが、歌の力を持っていたことが」
ニースの思いがけない言葉に、ラチェットは思わず振り返りそうになった。しかし努めて冷静に、穏やかに相槌を返した。
「……そう、なんだね」
ニースは、ぎゅっと手を握りしめた。
「ルイサさまが毒で倒れた時……ぼく、皇国の偉い人に言われたんです」
震えるニースの声に、ラチェットは嫌な予感がした。
「なにを?」
「“調子外れ”のぼくが、ルイサさまの代わりに毒を飲めば良かったって……」
「……!」
ラチェットは振り返り、ニースに目を向けた。座っているニースの小さな体は、小窓越しには頭のてっぺんしか見えなかった。しかし、たったそれだけでも、深く傷ついた心を抱え、必死に辛さを我慢していることが見て取れた。
「それは……」
ニースは、くるりと振り向き、ラチェットと目を合わせた。
「ラチェットさん、前を向いてください」
ニースの顔は、ひどく寂しそうで、ラチェットは胸が締め付けられる思いがした。
「ニース……」
「ぼく、そんなことないって、わかってます。でも、聞いてもらえますか」
「あ、ああ……。もちろん」
ラチェットは頷き、静かに前を向きなおした。ニースは座り直すと、ゆっくり胸の内を話していった。
「ぼくはきっと、色んなことを知れたから、楽しく歌うだけじゃ、満足出来なくなって……欲張りになったんだと思います。皇国に来て、歌の力でたくさんのことが出来ることを知りました。歌い手がどれだけ望まれているのかも、よく分かりました」
ラチェットは、小さく唇を噛んだ。
――僕が音楽院のことなんて話さなければ、ニースはあの小さな町で、ただ幸せに歌いながら暮らしていただろうに……。
ラチェットは、ニースが旅に出たことで体験した出来事に責任を感じた。
「ごめん……僕が、旅に誘ったりしたから……」
ニースは、首を横に振った。
「ラチェットさんが謝る必要はないです。辛いことも色々あったけれど……ぼくは、旅に出て良かったと思っていますから。火石のランプは面白いし、氷石の冷房は気持ちよかった。劇場の色んな仕掛けは、すごく楽しかったです。ベンやルイサさまたちと出会うこともできました。アマービレ王国にいたままじゃ、知ることが出来ないことばかりでした」
ニースは、柔らかな笑みを浮かべた。
「だからぼくは、旅に誘ってくれたラチェットさんたちに、感謝しています。ありがとうございます」
ニースの言葉にラチェットは、くしゃりと泣きそうに顔を歪めた。ニースは、穏やかに言葉を続けた。
「ラチェットさんには、本当に感謝してるんです。“調子外れ”を治せることを教えてもらいましたから。だから、今のぼくには歌の力はないけれど、セラのことを羨む必要なんて、ないはずなんです。それなのに……」
ニースは口ごもり、目を伏せた。ラチェットは押し黙ったまま、ニースの次の言葉を待った。秋空に浮かぶ雲が太陽を隠し、あたりにふっと影がさした。
「セラと一緒に歌えるようになって、ぼくは嬉しかった……。楽しかったです。けれど、そのせいでセラに辛い思いもさせてしまいました。セラは、歌の力を望んでいるわけじゃないって、ぼくは分かってます」
「……そうだね」
ラチェットは、切なげに顔を歪めた。ニースは、自嘲するように小さな笑みを浮かべた。
「でも、ぼくは羨ましかった。セラが歌って、パトリックさんの指輪が光ったことが。パクスさまが、セラに歌い手として皇国に残らないかと、お声をかけたことが……。ぼく、羨ましかったんです……」
ラチェットは、ニースに何と声をかけていいのか、分からなかった。ニースは、ぐっと奥歯を噛みしめ、絞り出すように声を出した。
「ぼくに、ちゃんと歌の力があったなら。父さまは、ぼくに剣を向けなかった。ペリフローニシの町で、宿屋のご主人を助けることも出来た。ベンに無理をさせることもなかったし、ルイサさまの身代わりになんて、言われることもなかった。パクスさまから、歌い手として誘われることも出来た……。セラの歌で綺麗に光った指輪は、本当なら、ぼくが輝かせることが出来たはずだった……」
一気に胸の内を吐き出したニースは、はぁと大きく息を吐いた。
「ぼくは、本当に嫌な子です……。すごく……すごく、醜くて、汚い……」
ニースの目から大粒の涙が、ぽろり、ぽろりとこぼれ落ちた。ニースはぎゅっと膝を抱え、顔を埋めた。ラチェットは、静かに泣くニースの声を背中に感じた。
――こんな時、なんて言ってあげたらいいのか……。
慰める言葉を、ラチェットは探し続けたが、答えは見つからなかった。ニースの嗚咽が、ラチェットの背に響き続ける。吹き付ける秋風が、ラチェットには、やけに侘しく感じられた。
秋空に夕日が差す頃、ニースはようやく泣き止んだ。ラチェットは何も言わなかったが、ニースは心の内を晒したことで、ほんの少し気持ちが楽になっていた。
「ラチェットさん、聞いてくれてありがとうございました」
小さく呟いたニースの言葉に、ラチェットは気まずそうに頬をかいた。
「いや。僕は本当に聞いただけで……。何も気の利いたことが言えなくて、ごめんね」
ニースは、ふるふると頭を振った。
「いいえ。聞いてもらえただけで、すごく楽になりました。話してよかったです」
力なく笑うニースを背中に感じ、ラチェットは切なげに顔を歪めた。
「それなら、よかった……かな」
ニースは水を飲み、ふぅと息を吐くと、小窓から顔を出した。
「ラチェットさん。ぼく今夜は、ちゃんと外に出ようと思います」
「大丈夫なのかい? 急に無理はしなくても……」
「大丈夫です。まだセラとは、笑って話せないかもしれないけど……。いつまでも落ち込んでいても、仕方ないですから」
ラチェットは、ふっと微笑みを浮かべると、ニースに振り返った。
「わかった。でも、決して無理はしないこと。さっきニースが話してくれた気持ちは、何も変なことじゃないと、僕は思う。あまり自分を責めちゃダメだよ。きっとそのうち時間が解決してくれる……としか、僕には言えないけどね」
「はい。わかりました」
ニースは噛みしめるように頷くと、またオルガンの見張りに戻った。ラチェットはニースの背をじっと見つめたが、前を向き直した。
――こんなことしか言えないなんて、情けないなぁ。僕に何か出来たらいいんだけど……。
ラチェットは考えがまとまらないまま、馬車を走らせていった。




