65:やりきれない想い2
前回のざっくりあらすじ:セラが歌の力を持つ事を自覚した。
*動物の喧嘩の描写が含まれます。ご注意下さい*
セラが落ち着きを取り戻し、冷めた紅茶を飲み干すと、扉をノックする音が響いた。
「ラチェット、私だ」
グスタフの声にラチェットは立ち上がり、扉を開けた。
「座長、お疲れ様でし……怪我をしたんですか!?」
グスタフは笑顔だったが、顔が腫れていた。グスタフの後ろから、恥ずかしそうにジーナが姿を現し、頬を膨らませたメグと、気落ちしたマルコムもその後ろに立っていた。
「全くもうっ。信じられないわ。あんな所でよくやれるわよね」
「メグちゃん、そんなに怒らないでー。お父さんとお母さんの仲が良いから、メグちゃんがいるのよー」
「見せつけるようなことはやめてくれよ……」
メグたちは話をしながら部屋に入ると、近場の椅子を引き寄せ、ニースたちとテーブルを囲んだ。グスタフは笑顔のまま、水で濡らした布で、頬を冷やして席についた。
「いや、すまないな。無事にあのじいさんにはお帰り頂いたよ」
グスタフの言葉に、ラチェットは、ほっと胸を撫で下ろした。
「ありがとうございました。……でも座長。その顔はどうしたんですか?」
メグが呆れたように、ため息を吐いた。
「それはね、お母さんのせいなのよ」
「ジーナさんの?」
ラチェットがジーナに目を向けると、ジーナは照れたように目を伏せた。
「だってー。グスタフったら、私がお引き取り願おうとしたら、カッコ良く入ってくるんだものー」
「お母さんが挑発に乗るからよ」
「あらー。メグちゃんだって、怒ってたじゃなーい」
「お母さんの言うとおり、私は確かに怒ったわ。でも、間に入ってきたお父さんを、そのまま思いきり殴らなくてもいいでしょ」
グスタフがロビーへ向かうと、ジーナがパトリックに腹を立てて殴りかかろうとしている所だった。パトリックは、ジーナたちが暴行容疑で捕まってしまえば、セラを簡単に手に入れられると考え、わざとジーナたちを挑発していた。それに勘付いたグスタフは、ジーナを守るために代わりに殴られたのだ。
「ごめんねー、グスタフー。勢い余って止められなかったのー」
「ジーナ。それはもういいんだ。さっきも言っただろう?」
幸せそうに微笑み合うグスタフとジーナを見て、マルコムが、げんなりした表情を浮かべた。
「俺が帰ってきたら、グスタフがジーナに愛の告白してるんだもんな……ほんと、お前たちはよくやるよ」
マルコムは晩餐会で疲れていたというのに、夜の間どこかへ出かけていた。朝になり、傷心で帰ってきたところ、ジーナを宥めるために、グスタフがありとあらゆる甘い言葉を連発しているところに出くわしたのだった。
「いや、まあ、すまなかったな。それでも、あのじいさんは大人しく帰ったんだ。良かったじゃないか」
「まあな。二人の小っ恥ずかしい話で、あのじじいが手をこまねいている間に、応援が来てくれたからな。大事にならなくて良かったよ」
グスタフとジーナの愛の劇場に加えて、宿の従業員たちが護衛を呼んできたので、大事になる前にパトリックは引き上げていた。グスタフは、苦笑いを浮かべて皆に告げた。
「まあ、そういうわけだから、またあのじいさんが来ないとも限らない。今日のうちに荷物をまとめて、明日には皇都を出るぞ」
皆が頷く中、俯いていたニースが顔を上げた。
「待ってください」
ニースに一気に視線が集まる。マルコムが、不思議そうに尋ねた。
「どうした、ニース」
「ぼくは、このまま皇都を出ちゃいけないと思います」
グスタフが怪訝な表情を浮かべた。
「どういうことだ?」
ニースは、セラの顔を見て、ゆっくりと口を開いた。
「セラは、どうしたいの? 本当にぼくたちと、旅に出ていいの?」
「……ニース?」
セラは、ニースが何を言おうとしているのか、わからない様子で首を傾げた。ニースは真剣な眼差しで、セラに話した。
「ぼくは……。ぼくが旅をしているのは、みんなと歌を歌いたいからだけど、ずっと旅をするわけじゃない。ぼくは、歌い手の学校に入って、歌の力を取り戻すんだ。でも、セラは違う。セラは、笑顔で生きるためにみんなとここまで来たよね」
「うん……」
戸惑うセラに、ニースは畳みかけるように言葉を継いだ。
「でも、セラには歌の力があることがわかった。歌い手っていうのは、すごく恵まれた仕事だと思うよ。パトリックさんは……いじわるな所もあるかもしれないけど、皇国の中でセラが歌い手として暮らす方法は、たくさんあると思う。このまま、皇国を離れて旅をしなくても、セラが幸せに暮らせる方法は、いくらでもあるんじゃないかな」
ニースは一気に話し終えると、気持ちを誤魔化すように冷めきった紅茶を一気に飲んだ。氷が入っているわけではないのに、ニースは心がパキパキと凍っていくような気がして、俯いた。ニースの話に、マルコムが切なげな表情で頷いた。
「確かに、ニースの言う通りだな。歌の力を持たないなら、音楽として歌ったり、俺たちと芸をして暮らすのもいいと思う。しかし歌の力があるなら、どうするのかは考えた方がいい」
マルコムの言葉に、皆押し黙った。セラは驚いてキョロキョロと頭を動かした。
「え、え……?」
メグが、申し訳なさそうに頭を下げた。
「セラ……。私、何も考えずに、あのおじいさんのこと追い返しちゃったけど……。ごめんなさい。確かに、あなたの気持ちを聞いてなかったわ」
「メグさん……」
グスタフとラチェットも、考えをまとめるように、ゆっくり頷いた。
「ああ。確かにそうだな……。だがな、セラ。まだ君は小さい。何も今から歌い手にならなくてもいいと私は思う。私たちと旅を続けている中で、歌い手として暮らしたくなったら抜けるのもひとつだ。少し、考えてみてほしい」
「皇都を出ても、まだしばらく皇国内を進むしね。ラメンタに戻るにしても、まずはニースを学校に送り届けてからじゃないと僕たちは戻れないから、それから決めてもいいと思うよ」
いつも明るいジーナだが、気遣わしげに穏やかな声でセラに声をかけた。
「もし、セラちゃんがすぐにラメンタに帰りたかったら、誰かに送ってもらえるように手配も出来るわ。旅の途中でも、気が変わったら、いつでも言ってくれて構わないの。でもね、もちろん私たちはセラちゃんのことが大好きだから、一緒にいられたら幸せよ。セラちゃんを置いていきたいわけじゃないわ。セラちゃんにとって一番幸せな未来を、私たちは応援したいだけなのよ」
セラは戸惑っていたが、グスタフたちの優しく寂しげな目に真心を感じ、頷いた。
「みなさん……わかりました。考えてみます」
グスタフが立ち上がり、手を、ぱんと叩いた。
「よし。とにかく、出発は明日だ。みんな、準備をしておいてくれ」
話し合いは終了となり、皆それぞれ荷物をまとめに部屋へ戻る。ニースは俯いたまま、黙って部屋へ戻っていった。
ニースは自分の部屋へ戻ると、扉に鍵をかけ、すぐに荷物をまとめた。ニースの荷物は、クフロトラブラを出た時と変わっていない。増えたのは舞台衣装ぐらいだが、衣装はジーナがまとめて管理している。買い替えた物はあるにせよ、買い足した物は何もなかった。ニースの旅の支度はあっという間に終わった。
ニースは、窓のそばの椅子に腰掛けると、ぼんやりと外を眺めた。
――ぼく、なんであんなこと言ったんだろう……。
ニースは、先ほどセラに言った自分の言葉を思い出していた。
――セラと一緒にいて、楽しいはずなのに……。セラは困ってた。考えてもいなかったんだ。それなのに、突き放すようなことを、ぼくは……。
ニースがセラに言った言葉は、セラを思ってのことだったが、ニースはいつもの自分の言葉ではないと感じていた。
ニースが見つめる窓の外で、二匹の野良猫が餌場をめぐり、喧嘩を始めた。ニースは、大きな肉塊を咥えている綺麗な赤茶猫がセラで、薄汚れた黒猫が自分のように思えた。
――ぼくはもしかして、セラにやきもちを妬いてる……?
黒猫は、怯える赤茶色の猫を威嚇し、必死に追い払おうとしていた。
――セラにやきもちを妬いて、一座から追い出そうとするなんて……。セラが望んだことじゃないのに。
ニースは、自分の心の中に嫉妬の気持ちが渦巻いている事を、はっきりと感じた。ニースが持つはずの、黒が意味する歌の力。歌石の美しい輝きが、ニースではなくセラの歌で現れた。本来持つべきはずの、自分にない力が、ニースには眩く見えて仕方なかった。
――歌の力なんか、なくたっていい。そう、思ってたはずなのに……。
ニースは、クフロトラブラの町を出た時、歌の力を取り戻したいとは考えていなかった。父だった伯爵に殺されそうになったものの、他に不自由はなかったからだ。しかし、一座と共に旅に出て、歌い手の歌が世界でどのように使われているのかを、ニースは知った。歌い手失踪事件で、たくさんの人々が困った事に陥っているのも分かった。助けたくとも、歌の力を持たない自分には何も出来ないのを、ニースは歯がゆく感じていた。これまで必要と感じていなかった歌の力を、自分が持たない事に悔しさを感じていたのだ。
――陛下や皇女さまは、ぼくの歌を褒めてくれた。おじいちゃんやマーサおばさんたちも。メグやラチェットさんたちだって……会ったばかりのベンだって、みんなぼくの歌を好きだと言ってくれた。それで良いはずじゃないか。
ニースは、皆の前で歌うのが好きだった。自分も楽しかったし、喜んでもらえる事が何より幸せだった。しかし今のニースの心には、深い傷がついていた。歌の力がないとわかってからの、フェローシャス伯やパトリックの態度の変化。泣き叫ぶ宿屋の主人の姿。官僚貴族からの心ない言葉……。楽しく歌う喜びや幸せだけでは、ニースの心の傷を癒すことは出来なくなっていた。
ニースの目に映る、睨み合っている二匹の猫に、もう一匹美しい毛並みの白猫が加わった。白猫は怯えていた赤茶猫を助け、威嚇していた黒猫に爪を立て、追い払った。ニースには、美しい白猫の姿が、生まれ育った伯爵家の家族の色に思えた。そして、傷を負って血を流しながら逃げた黒猫の姿が、自分と重なって見えた。
――もしぼくが、ちゃんと歌の力を持っていたら……。父さまや兄さまたちも、ぼくを嫌いにならなかったはずだ。みんなにだって、もっともっと、喜んでもらえたのかもしれない。傷つけられることも、追い出されることも、なかったのかもしれない……。
ニースの胸に、寂しさと、切なさと、悔しさとが入り乱れた。ニースの目から、ぽろり、ぽろりと涙がこぼれた。ニースはそのまま、椅子の上で膝を抱えてうずくまり、静かに泣いた。
ニースが目を開けると、日が傾き始めており、部屋の中に差し込んでいた暖かな日差しは消え去っていた。ニースはいつの間にか、椅子の上ですっかり眠っていたのだ。何もかけずに寝ていたので、ニースは肌寒さにぷるりと小さく震えた。ニースは浴槽に湯を張り、身を沈める。涙で濡れて乾いていた顔を湯で洗い、ふぅと大きく息を吐いた。心はまだ曇ったままだが、ニースは冷静さを取り戻した。
ニースの部屋の扉を、コンコンとノックする音が響いた。続けざまに誰かがガチャリとドアノブを回したが、ニースは扉に鍵をかけていたので、開かれることはなかった。
「ニース、いる?」
「いるよ。今お風呂なんだ。ちょっと待ってて」
ニースは、聞こえてきたメグの声に大きく返事をすると、急いで湯から上がり、着替えを済ませた。ニースの泣き腫らした顔の腫れは少し引いて、ぱっと見では気づかれない程度になっていた。
「お待たせ。どうしたの?」
ニースが扉を開くと、壁にもたれて待っていたメグが、ニヤリと笑みを浮かべた。
「お父さんがみんなを呼んでいるわ。特別なお客様がいらしたみたいよ」
ニースはメグの言葉に、ぴくりと頬を引きつらせた。一体これ以上何の特別があるというのか。温まったばかりのニースの背筋に、ひやりと冷たい汗が流れた。
「そんなに警戒しなくても大丈夫よ」
いたずらっぽく笑いながら歩き出すメグに、ニースは身を震わせ、黙ってついていった。




