5:新しい家族1
前回のざっくりあらすじ:伯爵家に、リンドの父マシューがやって来た。
*物語の進行上、一部にセンシティブな表現が含まれます。ご注意下さい*
そよ風に吹かれて、木漏れ日が窓越しに揺れる。庭の片隅にある小さな離れで、ニースとマシューは初めて出会った。マシューは、予想以上に真っ黒なニースの姿に驚いたものの、顔には出さずに微笑んだ。
「お前さんがニースか」
ニースは緊張しながらも、ぺこりとお辞儀をした。
「はい。ぼくがニースです。はじめまして」
「わしはマシューだ。リンドの父親だよ」
「はい。聞きました」
ニースが丁寧に話すと、マシューは目を細めた。
「話に聞いてた通りだ。ニースは良い子だな。だが、そんなに畏まらんでいい。これから一緒に暮らすんだからな」
「……そうなんですか?」
ぽかんとしてニースが問いかけると、マシューはリンドに苦笑いを向けた。
「リンド。話してないのか?」
リンドは、気まずそうに答えた。
「色々忙しくてね。あまり詳しくは話せてないの。ごめんなさい」
マシューは、ふむと頷き、ニースに微笑みを向けた。
「いいかい、ニース。よく聞いておくれ」
「はい」
「旅の準備が終わったら、お前さんは、わしの住む町に行くんだ。だから、そんなに丁寧に話さんでいい。もっと気楽に喋ってくれ」
「気楽に?」
「ああ。わしは羊飼いをしててな。お貴族様の話し方は苦手なんだ。肩が凝るからな」
ニースは少し考え、頷いた。
「わかったよ、マシュー。……これでいい?」
間違っていないかと、ニースは心配に感じ問いかけた。マシューは安心させるように、にっこり笑った。
「ああ。上出来だ」
マシューは、ニースの黒髪をくしゃりと撫でた。大きなマシューの手は、ニースには、とても温かく感じられた。
――マシューは、リンドみたいに優しそう。
何も分からないままのニースだったが、悪い人ではないと感じ、小さく笑みを浮かべた。
貴族であるニース・ドニディオ・アレクサンドロフの葬儀は大々的に行われた。
葬儀には、誕生日パーティに参加していた貴族をはじめ、伯爵領の領民達も参列した。皆、幼いニースの早すぎる死を悼んだ。
公爵夫人の首飾りが反応しなかったのは、天の導きの命が消えかかっていたからだと、社交界に噂が広がった。噂を広めたのはもちろん、ニースの父ゲオルグだ。葬儀に参列した人々に、それとなく噂の種を振り撒いたのだ。
ニースの死に疑問を抱く者は誰もおらず、ニースが歌の力を持たない“調子外れ”ではないかという噂話も、あっという間に消えた。幼い天の導きの死は、人々の記憶の片隅に追いやられた。
偽の葬儀から数日後。朝靄の漂う静かな町を、一台の荷馬車がゆっくり走る。荷馬車に乗ったニースは、荷物の隙間にすっぽりと収まるように座り込み、流れ行く街並みを眺めていた。
御者台で手綱を握るマシューが、ちらりとニースに振り返った。
「あまりキョロキョロ周りを見んようにな。顔を見られたら大変だ」
野太いが優しいマシューの声に、ニースは、ふわりと微笑んだ。
「大丈夫だよ、マシュー。ちゃんと気をつけるよ」
ニースは帽子を被り直し、その上から被るフードを、より深く引き下げた。ずれた伊達眼鏡も掛け直し、厚手の大きな黒いローブも、しっかりと体に巻きつける。
柔らかな肌も、可愛らしい瞳も、短く切り揃えられた髪も。ニースが軽く下を向いてしまえば、どこからどう見てもニースの黒は分からない。マシューは満足げに頷いた。
「それならいい」
ニカッと歯を見せて笑うと、マシューは手綱を握り直した。
――まずは町を安全に出なければならん。ニースが荷台にいるとバレたら、幽霊騒ぎになってしまう。
まだ朝日が昇りきらない街並みは、うっすら夜の闇を残し静まりかえっていた。人々が動き出す前に町を出ようと、マシューは馬の足を速めた。
石畳の上を走る荷馬車は、ガタガタと揺れる。ニースは、霞んでいく住み慣れた屋敷を眺め、ぎゅうと膝を抱えた。
――よくわからないけど……。ぼくは、死んじゃったんだよね。
ニースは、自分の葬儀が行われた事を聞かされていた。生きていると知られてはいけないため、旅の間も決して人前に姿を見せてはならないと、教えられたのだ。
――父さまを怒らせちゃったから、ぼくは罰を受けなきゃいけないんだ。
リンドもマシューも、死んだ事にされた詳しい理由を、ニースに伝えていなかった。まだ幼いニースには、難しいだろうと考えたのだ。しかしニースは、自分の失敗が原因なのだと、薄々感じていた。
ニースの乗る馬車は、薄汚れた幌で覆われた小さな荷馬車だ。伯爵家の立派な馬車とは、全く違う。ニースの着る服や靴も、今まで着ていたような立派な物ではない。真新しいながらも、庶民が着るような簡素な物だ。
ニースは、自分の置かれる環境が変わった事で、なぜ町を出るのかを、感覚的に理解していた。
――父さま、兄さま、姉さま。みんな、元気でね。リンド……また会えるよね?
ひんやりとした朝の空気がニースを包む。ニースは寂しさを堪えるように目を伏せた。手綱を握るマシューは、ニースを変化を感じて振り返った。
顔も手も足も。全てを覆い隠したニースだが、マシューの目には、ニースが泣いているように見えた。
――ニースが安心して帰ってこれる居場所を作ってやらんと。まだまだ人生始まったばかりの子どもに、しんみりした顔は似合わない。
二人が目指すクフロトラブラの町は、自然豊かな場所だ。恐ろしい目にあったニースの心を少しでも早く癒そうと、マシューは荷馬車を走らせた。
アレクサンドロフの町に別れを告げて、荷馬車は街道を走り出す。空には大きな太陽が、ニースを励ますように顔を出していた。
数多の星が輝く空に、二つの月が昇る。旅を始めてから最初の夜は、まだ伯爵領内だったこともあり、二人は野宿を選んだ。
街道沿いには旅人が野宿出来るよう、開けた場所が所々に設けられている。日の落ちる前に火を起こし、寝支度をするのが普通だが、荷馬車にはニースがいる。マシューは日が落ちてから、先客のいない広場を選び、荷馬車を止めた。
「ニース。今夜はここで寝るからな」
「うん。わかった」
「火を起こすから、薪の袋を取ってくれんか」
「まきってなに?」
首を傾げたニースに、マシューは、はっとした。
「そうか。ニースは知らんよな」
「知らないとおかしいものなの?」
不安げなニースに、マシューは優しい笑みを浮かべた。
「何もおかしくなんかない。お前さんの暮らしは変わるんだ。これから覚えていけばいい」
ニースはこれまで、貴族として暮らしてきた。ニースにとって、庶民の知る常識は知らない事だらけだ。マシューはニースに、様々な事を丁寧に教えた。
マシューとの野宿は、ニースが体験してきたものとは全く違っていた。
ニースはまず、焚き火に驚いた。伯爵家では、火石や雷石を使った発掘品を使っており、野宿であっても、火を起こすことはなかったからだ。
火打ち石も見たことのないニースは、マシューが焚き火を起こす姿に興味津々だった。火起こしをやらせてほしいとねだるニースを、マシューは微笑ましく思った。
焚き火を起こしたら、小さな鍋に水を入れ、火にかける。木の実や干し肉など、保存の利く具が少ししか浮いていないスープと、硬いパンが夕食だ。ニースは粗末な食事でも、ひとつも文句を言わず、むしろ珍しいと楽しんだ。
庶民の野宿では椅子などあるはずもなく、近くの手頃な岩や草の上に直接腰を下ろす。これもニースには新鮮な事だった。寝る時はローブや毛布にくるまって地面に転がるだけだ。マシューにいたっては、焚き火が消えないように気を配りながら座って眠るのだ。
ニースが夕食を食べ終えると、マシューは明日も早いからと、すぐ寝るよう促した。ニースは毛布にくるまり寝転んだが、初めての庶民の野宿に興奮し、なかなか寝付けなかった。
静かな夜に、焚き火の爆ぜる小さな音だけが響く。横になっても目を開けたままのニースを見て、硬い地面が寝床だからかと、マシューは心配に感じた。
「ニース、眠れないか?」
ニースは、もそりと起き上がり、マシューの顔をじっと見つめた。
「うん。ぼく、なんだか楽しくて寝付けないんだ。ねえマシュー、何かお話してくれない?」
思ってもみなかったニースの言葉を聞いて、マシューは胸が温かくなるのを感じた。
――辛いかと思ったが、楽しいのか。わしとの時間が……。
マシューは照れくささを誤魔化すように髭をいじり、微笑んだ。
「ニース。ひとつ言っておくが、もうお前さんは、わしの孫だ。マシューと名前で呼ぶのではなく、おじいちゃんと呼んでくれんかね」
ニースは目をまん丸に開いて、ぱちりと瞬きをした。まさかマシューが、自分のおじいちゃんになるなんてと、驚いたのだ。
マシューはニースの顔を見て、ニースがまだよく分かっていない事に気がついた。
――そうか。きちんとまだ話していなかったな。はっきり言わなければならん。
ほぅと息を吐くと、マシューは優しい眼差しでニースを見つめた。
「ニース、これから言うことをよく聞いておくれ」
マシューはニースに教えた。ニースが死んだとされたことの意味を。
アレクサンドロフ伯爵家の三男は死んだ。つまり、ニースはもう伯爵家の人間ではない。伯爵はもう父親ではなく、ニースと仲の悪かった兄姉とも、もう赤の他人だ。
ひとりぼっちになってしまったニースを、リンドが引き取った。公的にはニースは、リンドが拾って養子にした孤児だ。これから先は、ニースは貴族ではなく、ただの庶民となる。
アマービレ王国で苗字と中間名を持つのは、王族と貴族だけだ。宿の記帳などで名前以外が必要となった際、庶民は苗字代わりに、住んでいる、もしくは出身の町の名前を書く。
つまりニースは、もし苗字を名乗るとしたら「ニース・クフロトラブラ」となる。同じ町で同じ名前の人がいたとすると、「町外れの羊飼いマシューの孫のニース・クフロトラブラ」と名乗るのだ。町の中の家の位置と、自分か保護者の仕事が分かればいい。手紙もこれで届くので、庶民にとって、どこの誰かはこの程度分かれば充分だった。
マシューの話を聞くニースの顔は、真剣そのものだった。マシューが話し終えると、ニースは、じっと焚き火を見つめた。
――そっか。ぼくはもう、父さまの子じゃない。ぼくは本当に、死んじゃったんだ。
揺れる炎は、柔らかな温もりでニースを包む。ニースの胸には、寂しさや悲しさが湧き上がったが、同時に不思議と納得も出来た。
――マシューは、おじいちゃんって呼んでって言った。ぼくを本当にちゃんと、家族にしてくれるんだ。ぼくの新しい家族は、マシューなんだ。
ニースは焚き火を見つめながら、しっかりとした声で呟いた。
「そうすると、ぼくはもう貴族じゃなくて、普通のただのニースなんだね」
パチパチと焚き火の爆ぜる音が、二人を包む。マシューは、ゆっくり頷きを返した。
「ああ、そうだ」
ニースはマシューの返事を聞くと、焚き火から視線を外し、空を見上げた。淡く光る二つ並んだ月は、いつもよりずっと高く、遠かった。ニースは、手の届かない夜空の輝きに、心の中で語りかけた。
――父さま、兄さま、姉さま。今までありがとう。そして……さよなら。ぼく。
ニースは目を瞑り、深呼吸をひとつすると、心配そうに見つめるマシューに微笑んだ。
「わかったよ、おじいちゃん」
ニースの言葉に、マシューは驚き、息を呑んだ。マシューは、ニースがこんなにも自分の境遇を素直に受け入れるとは、思っていなかった。
――泣き喚いてもいいぐらいだが……。
ゆらゆらと揺れる炎が二人を照らす。ニースの目に滲んだ涙が、きらりと光った。マシューは、ニースが頑張ろうとしているのだと気付いた。
――ほんの数日前に出会ったばかりだ。わしにはまだ甘えられなくても、仕方ないか。
健気なニースを愛おしく感じ、マシューは安心させるように、柔らかな笑みを浮かべた。ニースは、ころんと横になると、毛布にすっぽり入り込み、目を閉じた。
「おやすみなさい、おじいちゃん。これからよろしくね」
マシューにぎりぎり聞こえる、小さな声で呟くと、ニースはすぐに寝息を立て始めた。
初めての庶民の旅はニースの体にはきつく、疲れも溜まっていた。ニースは、まだ五歳になったばかりの子どもだ。張り詰めていた緊張の糸がほぐれ、ニースの意識は深い眠りに吸い込まれた。
マシューは温かな湯を飲み、ふぅと息を吐いた。
――小さな体で、粗末な荷馬車に揺られてきたんだ。体も疲れているだろう。ここから先は、可愛い孫との二人旅だ。ニースの負担にならないように、旅をしなければな。
寝息を立てるニースに、マシューは微笑んだ。
「おやすみ、ニース。いい夢を」
マシューはニースを起こさないよう、小さな声で優しく囁くと、焚き火にそっと薪をくべた。