4:伯爵家の天の導き4
前回のざっくりあらすじ:ニースは、父ゲオルグに殺されかけた。
*物語の進行上、一部にセンシティブな表現が含まれます。ご注意下さい*
薄暗い静かな部屋に、カーテンの隙間から光が射し込む。朝を告げる鳥のさえずりに、ニースは、ゆっくり目を開いた。
――あれ? ぼく……。
目を覚ましたニースは、ベッドの上にいた。ベッド脇では、一晩中付き添っていたのだろう、リンドが座って眠っていた。
ニースはリンドを起こさないように、そっと体を起こすと、部屋をぐるりと見回した。いつもの自分の部屋だが、どうやって寝に来たのか思い出せない。ニースは首を傾げ、何があったのかを思い出そうとした。
――昨日は、ぼくの誕生日だったはずだ。夜にパーティがあって……。
ふと、ニースは前夜の出来事を鮮明に思い出した。カタカタと小刻みに震える自分の肩を両手で掴み、震えを抑え込むように、ニースはうずくまった。
目を覚ましたリンドが、ニースの背に手を回す。ぎゅっとリンドに抱きしめられ、ニースは温かな香りに包まれた。
「坊っちゃま、大丈夫ですよ。もう大丈夫です」
優しいリンドの声を聞いて、ニースの目から、ぽろりぽろりと涙がこぼれた。
ニースの震えは、少しずつ収まっていった。リンドの柔らかな腕と温かな体温を感じ、ニースは自分が呼吸しているのを確かめた。気持ちが落ち着いてくると、ニースは改めて、何があったのかを思い返した。
――ぼく、失敗しちゃったんだ……。大事なパーティで、あれだけたくさんの人の前で、大失敗しちゃったんだ。だから、父さまが……。
ニースは、殺されてもおかしくないぐらいの、許されない失敗をしてしまったのだと感じた。
――父さまは、ぼくを許してくれる? それとも、また剣を向けるの……?
嫌われて避けられることは、これまで兄たちから受けて来たことだが、殺意を向けられたのは初めてだ。もしまた殺されそうになったら、どうしたらいいのか。考えても考えても、ニースには分からなかった。
不安に駆られたニースは、潤んだ瞳でリンドを見上げた。
「リンド……。ぼくはこれから、どうなるの……?」
「坊っちゃま……」
リンドはニースを、じっと見つめた。震える声で呟いたニースの顔は、色は違えど、クララとよく似た形だった。リンドの脳裏に、今際の際のクララと交わした、約束が過った。
リンドは使用人として働いていたクララの先輩であり、親友だった。クララはニースを出産する際、自分が子どもと共に生きられない事を感じて、生まれてくる子を頼むと、リンドに請い願っていた。
リンドは、クララに約束したのと同じ誓いの言葉を、強い決意を込めて告げた。
「大丈夫ですよ、坊っちゃま。このリンドが、どんな事があっても、絶対に、坊っちゃまをお守りいたします」
リンドの返事を聞いて、ニースは僅かに安堵の色を浮かべたが、すぐまた不安気な顔に戻った。
ニースは胸のしこりを解すように、ぽつり、ぽつりと声を絞り出した。
「リンドは、ぼくを嫌いにならないの? ぼく、歌を失敗しちゃったみたいなんだ。父さまは、もうぼくを許してくれないかもしれない。兄さまたちだって、ぼくのことが嫌いなのに……。それなのにリンドは、ぼくを嫌いにならないの?」
リンドは驚き、ニースの顔をそっと撫でた。ニースの小さな顔はリンドの片手にすっぽりと収まってしまいそうだった。
――坊っちゃまは、まだこんなに幼いのに、自分に起きたことを分かってらっしゃる。何も知らなかったら、これほど辛くはならなかったろうに……。
リンドは切なさを振り払うように、ハッキリと答えた。
「いいえ。リンドは決して、坊っちゃまを嫌いになりません。リンドはどんな時でも、何があっても坊っちゃまの味方です」
リンドは微笑んで言うと、ニースを抱く手に優しく力を込めた。ニースはリンドの言葉を噛みしめ、深く息を吐いた。
――リンドは嘘をつかない。いつだって、本当のことしか言わない……。
ニースは鼻をすすると、力なく笑みを浮かべた。
「なんだかぼく、お腹が空いちゃった。昨日のパーティでも、ほとんど食べられなかったんだ」
リンドはニースの心中を察し、優しい笑みを返した。
「まあ、それはいけません。坊っちゃまは育ち盛りなんですから、しっかり食べないと。坊っちゃまの大好きなパンケーキを、朝食にご用意いたしますね」
リンドはニースの頭を優しく撫で、部屋を出た。ぱたりと扉を閉めると、リンドは気持ちを落ち着けるように、目を伏せた。
――坊っちゃまは大丈夫。今はまだ辛い気持ちでいっぱいだろうけれど、頑張って立ち上がろうとしている。きっと立ち直れる。
リンドは顔を上げ、歩き出す。廊下には、煌めく朝日が溢れていた。お腹が空いたと訴えたニースは、笑みを浮かべながらも悲し気な顔をしていた。ニースを少しでも元気にしようと、リンドは張り切って厨房へ向かった。
夏の日差しに照らされる街道を、一頭の馬が駆け抜ける。馬の背に跨るのは、初老の男だ。老人の青い目に、石造りの市壁で囲まれたアレクサンドロフの町が映る。働き者なのだろう、手綱を握る薄橙色の手は、ゴツゴツと節くれだっていた。
老人は市門にたどり着くと、馬から降りた。老人の帽子から覗く、癖のある白髪が揺れる。門兵が歩み寄ると、老人は身分証である一枚の羊皮紙を見せた。
「クフロトラブラのマシューだ。町に入れてくれ」
「確かに、間違いないな」
門兵は身分証を確かめると、マシューと名乗った老人に問いかけた。
「ずいぶん遠くから来たようだが、商人でもなさそうだ。何しに来たんだ?」
「伯爵様に呼ばれたんだよ」
マシューの話を聞いて、兵士は眉根を寄せた。
マシューの髭は立派だが、身なりは庶民のものだった。馬を飛ばして来た割には綺麗に整えられているものの、所々ほつれた糸が見える。
年季が感じられる服を着たマシューは、とても伯爵家に呼ばれるようには、見えなかった。
「なぜお前のような者が、お館様に?」
マシューは、小さく笑って答えた。
「娘がな。伯爵様のお屋敷で働いてるんだ。リンドって言うんだが」
マシューの言葉に、門兵は、はっとして笑った。
「ああ! リンドさんのお父上でしたか!」
「知ってるのか?」
「もちろんですよ。ダミアンさんの奥様ですからね」
マシューは嬉しげに目を細めた。
「はは。そうか。確かダミアンは、護衛長だったな」
門兵は、切なげに眉根を寄せた。
「リンドさんも悲しんでました。早く行ってあげてください」
「ありがとう」
マシューは馬に跨り、町へ入る。伯爵家の屋敷を中心として広がるアレクサンドロフの町は、領主が住まうに相応しい大きな町だ。しかし不思議な事に、石畳の敷かれた道に人通りはほとんどない。マシューは馬を走らせ、屋敷へ向かった。
しんと静まり返った伯爵家の裏門を、マシューは叩く。下男に馬を預けたマシューの元へ、リンドが駆け寄った。
「父さん!」
「リンド。久しぶりだな」
リンドはマシューと抱き合うと、真剣な眼差しで口を開いた。
「急に呼んでごめんなさい。でも、他に頼れる人がいないの」
マシューは切なげに眉根を寄せ、頷いた。
「分かっている。手紙は読んだが、詳しく教えてもらえるか」
「もちろんよ。でも、ここじゃ話せないわ。付いてきて」
リンドはマシューを、自分の仕事場であるニースの部屋へ連れて行った。
大切に育てられてきたニースの部屋には、可愛らしい玩具や絵画、質の良い調度品が並ぶ。しかし部屋の主人であるニースの姿はない。マシューは座った事もない上等な椅子を勧められ、戸惑いながらも腰を下ろした。
「坊ちゃんは、どこにいるんだ?」
首を傾げたマシューに、リンドは茶を注ぎながら答えた。
「離れにいるわ。明日が、坊っちゃまの葬儀なの」
「そうか。それで……」
マシューは、はぁと息を吐いた。
「どうりで、町に人がいないわけだ」
「ええ。みんな、喪に服してるわ」
伯爵家の三男ニース・ドニディオ・アレクサンドロフは、誕生日パーティの後に倒れ、そのまま意識を取り戻すことなく数日後に亡くなった。
マシューは、差し出されたカップを見つめた。
「御家のためとはいえ……死んだことにしなければならないとは」
ニースは、本当に死んだわけではない。ニースの命を救うため、死を偽装されていた。
ゲオルグはパーティから一晩経っても、ニースを殺そうとした。それは、憎悪だけが理由ではなかった。ゲオルグは冷静さを取り戻していたが、伯爵家に“調子外れ”がいることで、一族の不利益になるのを防ごうとしたのだ。
歌い手の中でも最も力が強いとされる天の導きが、歌の力を持たなかった。この不名誉な事実が社交界に広まる前に、ゲオルグは出来る限り早く解決しようと考えた。
リンドは必死にゲオルグに頼み込み、かろうじてニースの命を救うことが出来た。ただしニースは、アレクサンドロフの名を捨てる事となった。それだけがニースを生かす方法だった。
マシューの言葉に、リンドは悲しげに俯いた。
「他に方法がないか頑張ったんだけどね。無理だったわ」
ニースは倒れて意識不明とされた後、屋敷の離れに隔離された。そこでは、リンド以外の人物と接触することを許されなかった。ニースの生存は、徹底して隠されていた。
使用人でこの事実を知るのは、リンドとリンドの夫ダミアン、執事など、限られた者だけだ。ニースは一人きりで、ひたすら本を読んで時間をつぶし、日々を過ごしていた。
肩を落とすリンドに、マシューは慰めるように語りかけた。
「大丈夫だ。坊ちゃんのことは、わしに任せろ。そのために呼んだんだろう?」
「ええ。王家に知られるわけにもいかないから。クフロトラブラなら、大丈夫だと思ったの」
アマービレ王国に、莫大な富をもたらすはずだった天の導きが死んだ。これが嘘だと知れたら、どんな罰を受けるか分からない。だが、“調子外れ”だという真実を、明かすわけにもいかない。ニースを隠して守るために、リンドはマシューを呼んでいた。
マシューの住むクフロトラブラは、アマービレ王国北東部の端にある。十年前に妻を亡くしたマシューは、山あいの小さな町で羊飼いをしながら、一人で暮らしていた。
伯爵領は王国南部にあり、王都は王国中央に広がる平野にある。クフロトラブラは人口も少ない小さな町で、伯爵領からも王都からも遠い。伯爵家で亡くなった天の導きのことを知る者など、クフロトラブラにはいないのだ。
王国の外れにある小さな町は、ニースの存在を隠すには、うってつけの場所だった。
マシューはカップに口をつけ、小さく微笑んだ。
「そうだな。クフロトラブラなら安心だ。最悪何かあったら、皇国に逃げればいい」
「そうね。そうならないことを祈るけど」
クフロトラブラの町のすぐ裏手には、ラース山脈という険しい山々がそびえ立つ。ラース山脈は、アマービレ王国のあるアートル大陸と、東のルテノー大陸とを繋いでいる。
二つの大陸の間は、大穴と大地の裂け目で分断されているが、ラース山脈だけが二つの大陸を繋いでいた。
山脈を越えた先のルテノー大陸は、隣国スピリトーゾ皇国だ。万が一、ニースの正体が露見し、再び命を狙われるような事になったら、皇国へ亡命すればいいとマシューは考えていた。
マシューはカップを置くと、静かに問いかけた。
「それで坊ちゃんは、これからどこの子になるんだ?」
アレクサンドロフの名を捨てるという事は、貴族ではなくなるという事だ。マシューの問いかけに、リンドは、ふふふと笑った。
「もちろん、私の子よ」
リンドは、伯爵家の三男ではなくなったニースを引き取っていた。
リンドの答えを聞いて、マシューは安心したように柔らかな笑みを浮かべた。
「そうか。それならもうニースは、わしの孫だな」
「ええ」
「賑やかになるな。お前も戻ってくるんだろう?」
嬉しげなマシューの言葉に、リンドは手を、きゅっと握りしめた。
「それが……。私は帰れないのよ」
リンドは家族と共に、ニースを連れて実家へ帰るつもりだった。しかし、ゲオルグはそれを良しとはしなかった。
リンドの夫ダミアンは屋敷の護衛長であり、嫡男アンヘルの護衛も担う。リンド自身も、乳母となる前から伯爵家の使用人だった。二人とも腕が良く優秀だったため、ゲオルグはニースのために有能なリンド夫妻を失うのを嫌がったのだ。リンドがニースのそばにいることは、叶わなかった。
リンドの話を聞き、マシューは顔を歪めた。
「いくら何でも、それは酷すぎやしないか。家から追い出した挙句に、お前からも引き離そうとするなんて」
リンドは悲しげに、頭を振った。
「これで済むなら充分よ。旦那様は坊っちゃまを、ご自分の手で殺そうとなさったんだから」
「何だって⁉︎」
愕然とするマシューに、リンドは誕生日パーティの夜に起きた出来事を話した。マシューは、ぐっと拳を握りしめた。
「何てことだ。血の繋がった子だろう!」
「父さん、落ち着いて」
「落ち着いていられるか! 何だってそんなことが出来る⁉︎」
怒気を上げるマシューに、リンドは言い聞かせるように語りかけた。
「仕方ないのよ。旦那様はただでさえ、クララを亡くしたことを悲しんでいた。坊っちゃまはクララに瓜二つなの。どうしたってクララを思い出すけど、天の導きだからと、悲しみを抑え込んできたの。でもそれが、違ったんだから」
マシューは奥歯を噛み締め、怒りを堪えた。
「天の導きとかいうのが、そんなに大事なのか」
「父さんには分からないと思うけど、歌の力はすごく便利なの。だから旦那様も他の貴族の方々も、みんな歌い手を欲しがるのよ」
「理解出来ん。何だその歌っていうのは……」
マシューは深いため息を吐くと、ゆっくり顔を上げた。
「わしに分かるのは、そんな悲しい目にあったニースを、誰かが守ってやらなきゃならんってことだけだ」
「父さん……」
「ニースのいる離れってのは、どこにあるんだ?」
立ち上がろうとするマシューを、リンドは慌てて止めた。
「父さん、待って。今すぐ行こうっていうの?」
「ニースはもう伯爵様の子じゃない。わしの孫だ。孫を傷つけた奴のところになんざ、置いておけるか」
吐き捨てるように言うマシューの手を、リンドは掴んだ。
「父さん、ありがとう。坊っちゃまのことを、大切に思ってくれて」
「リンド……?」
リンドの目には涙が滲んでいた。リンドは指で涙を拭うと、ふわりと微笑んだ。
「父さんに頼んで良かった。私、クララと約束したのよ。どんなことがあっても、あの子を必ず守るって」
「リンド……」
「坊っちゃまの葬儀は明日よ。そんなすぐには出発出来ないわ。旅の間も、決して見つかっちゃいけないの」
リンドの静かな話に、マシューは、ふぅと息を吐いた。
「準備が必要なんだな?」
「ええ。坊っちゃまも、辛いけど頑張ってるの。まずは、父さんを紹介するわ。いきなり知らない人と一緒じゃ、坊っちゃまも不安だろうから」
心配そうなリンドの手を、マシューは優しく包み込んだ。
「そうだな。いきなりこんな爺さんと一緒じゃ、ニースが可哀想だ」
冗談めいて言うマシューに、リンドは苦笑いを浮かべた。
「坊っちゃまは優しい子よ。そんなこと、気にしないわ」
「はは。そうか。仲良くなれるといいが」
「なれるわよ。私の自慢の父さんだもの」
「リンド……ありがとう」
マシューは柔らかな笑みを浮かべ、まだ見ぬニースを、必ず幸せに育ててやろうと、強く誓った。