2:伯爵家の天の導き2
前回のざっくりあらすじ:主人公ニースが生まれた。
*物語の進行上、一部にセンシティブ、及び、過激な表現が含まれます。ご注意下さい*
二つの月が、鬱蒼とした森を照らす。アレクサンドロフ伯爵家の狩場である森のほとりには、いくつも天幕が張られていた。ランプの炎が揺れる小さな天幕の中で、アントンは泣きじゃくっていた。
「なんで父さまは、ニースのことばかり……!」
アンヘルは、涙をこぼすアントンの背を優しく撫でた。
「仕方ないよ。ニースは歌い手なんだから」
この世界の文明は、石と歌の力がなければ成り立たない。歌い手の重要性は、アントンもよく分かっていた。
しかし、優しかった父親が急に冷たくなり、自分たちに無関心になったのだ。アントンにとってゲオルグの変貌ぶりは、我慢の限界を超えていた。
「でもだからって、こんなのはあんまりです! 兄さまは、なんで平気なんですか! ぼくはもう嫌だ!」
声を上げて泣くアントンの背を、アンヘルは静かにさすり続けた。
――アントンの気持ちは分かる。いくら歌い手だからって、父様はやり過ぎだ……。
空に浮かぶ二つの月が、雲に覆い隠されていく。アンヘルたちの心に、暗い影が広がっていった。
幼いニースは、兄たちの心の内を知る事なく、元気に成長していった。言葉を喋れるようになったニースに、ゲオルグは教育係として、家庭教師と歌い手をつけた。歌い手は、目と髪の色が黒く、肌は白い老年の女性だった。
歌の授業は、ピアノが置かれた防音室で行われた。歌い手は時折、石を使った小さな発掘品を持ち込んだ。ニースは大好きな父の期待に応えようと、熱心に練習に取り組んだ。
穏やかな風が、窓越しに見える庭の緑を揺らす。二歳のニースは、赤と青の石が入れられた小さなガラスの小箱を前に、歌っていた。
ニースはこの日初めて、教えられた歌を正しく歌う事が出来たが、思っていた結果が出ずに、顔を歪めた。
「せんせい。どうして、ぼくのうたで火がつかないんですか? うたを、まちがえてますか?」
困ったような顔をして問いかけたニースに、歌い手は優しく微笑んだ。
「いいえ。素晴らしい歌でしたよ。ニース様はまだ幼いですから、反応しなくてもいいんです。これは、石に歌を届けるイメージを掴んで頂くために、お持ちしてるだけですから。石歌が体に馴染んで、自然に歌えるようになれば、ちゃんと火が付くようになります」
石の力を発現させる歌は、「石歌」と呼ばれていた。料理や湯沸かしなどには、火石を使い、熱を生み出して利用する。ニースが火を付けようとしていたのは、これを使ったライターだった。
丁寧に教える歌い手に、ニースは興味深げに尋ねた。
「それは、ランプもですか?」
伯爵家の明かりの多くは火を使ったランプだが、それとは別に、雷石を使ったランプが数個あった。雷石は電気を起こし、明かりや古代文明の機械を稼働させるのだ。
ニースの質問に、歌い手は微笑んで答えた。
「ええ。ランプもです。歌の力が安定するまでは、仕方ないんですよ」
「そうですか……」
残念そうに、しゅんと肩を落とすニースに、歌い手は励ますように笑いかけた。
「今のニース様でも、歌石なら反応しますよ」
ニースはライターの中に透けて見える、青い小さな石を見つめた。
「うたのいしは、いしのうたを、おぼえさせるだけじゃ、ないんですか?」
歌石は、石歌を記憶する事が出来る特殊な石だ。歌石に歌を記憶させておけば、その力で火石や雷石など様々な石の力を引き出す事が出来る。そのためライターにも、火石と共に歌石が組み込まれていた。
歌石に入れられる歌はひとつであり、出力を変えるためにはその都度歌石に新たな歌を覚えさせなければならない。また、定期的に歌石に歌を記憶させないと、長く使うことは出来ない。
歌い手による手入れが必要ではあるが、火石のライターや雷石のランプなどを、一般の人々が使うために、歌石は必ず必要な石だった。
歌い手は穏やかに、ニースに答えた。
「歌石にも、歌石歌という石歌があります。歌の力が未熟でも、必ず反応する歌ですが、その反応を見るのは難しいんです」
歌石の反応は、火石や雷石と違い、目視で確認し難いものだ。歌石の反応は、特殊な方法で細工を施すことで、初めて見えるものだった。
ニースは、真剣な眼差しで話を聞いた。歌い手は、にっこり笑った。
「歌石の反応を見れる品は、大変貴重なものです。ですが、いつかニース様は、その貴重な品を目にすることがあるでしょう。今日は、歌石歌を覚えましょうか」
「はい!」
歌い手は、知り得る歌を全てニースに教えていった。ニースは歌が大好きになり、さまざまな場所で歌いたがった。
しかし屋敷には古代文明の機械や、発明品を動かすための石がそこかしこにある。うっかり間違えて強力な天の導きの歌に反応しては、どんなことが起こるかわからないと、ニースの歌は必ず防音室で行うよう、キツく躾けられた。
ニースは言いつけを守り、防音室以外では決して歌わなかった。幸運にもニースの歌を聴いた者たちは口を揃えて、さすが天の導きだと褒め称えた。
ニースの澄んだ歌声は、幼いながらも聴いた者の記憶に残る美声だった。まだニースは幼いため、歌の力を確かめる事は出来なかったが、間違いなく力が強いはずだと、人々は口々に囁いた。
ニースが歌を覚え始めた事で、ゲオルグはますますニースを可愛がるようになった。その様子に、アンヘルたちはより一層複雑な気持ちを抱いた。
しかしまだ幼いニースには、そんな事は分からない。三歳になったニースは、大好きな兄達の後を、追いかけて歩いた。
「兄さま、兄さま!」
アントンとイリナはニースを疎ましく思い、無視するようになっていたが、アンヘルだけは違った。十三歳になったアンヘルは、胸の騒めきを感じながらも、自分を慕うニースを無視出来なかった。
「なに?」
「これ、あげます!」
「この花を?」
「そうです! おはなです!」
まだ幼いニースには、何の罪もない。アンヘルは胸が締め付けられるような思いで、小さな手から花を受け取った。
「……ありがとう」
「きょうも、けんのおけいこですか?」
「そうだよ」
「兄さま、がんばってください!」
キラキラと笑うニースの笑顔は、可愛らしいものだった。
――こうやってニースが笑うから、父様は……。
アンヘルは込み上がる辛さをかき消そうと、必死に笑みを浮かべた。
「うん。頑張るよ。ありがとう」
「はい!」
ニースは、嬉しそうに駆けていく。アンヘルは小さな背中を見送ると、ニースからもらった花を従僕に渡した。
「これを部屋に飾っておいて」
「かしこまりました」
アンヘルは努めて、平常心を保とうとした。しかしそんなアンヘルの努力は、その日のうちに吹き飛ぶ事となった。
剣の練習に向かったアンヘルは、腕の骨を折る怪我をした。護衛たちとの打ち合い稽古の最中に転び、腕を捻ったのだ。アンヘルにとって初めての大怪我であり、フェーベは顔を青ざめて医者を呼んだ。
「アンヘル。痛みますか?」
「少し、落ち着いて来ました」
涙を滲ませながらも、精一杯虚勢を張ったアンヘルは、恐る恐る問いかけた。
「あの……母様」
「何ですか?」
「父様は、僕の怪我をご存知ないのですか?」
アンヘルの言葉に、フェーベは顔を歪めた。
「いいえ。知ってますよ」
フェーベの表情を見て、アンヘルはゲオルグが来ない理由を悟った。
「父様は、またニースの所へ行ってるのですね」
「忙しいのですよ。気にしないで」
労わるようなフェーベに、アンヘルは複雑な表情を浮かべた。
パラパラと、冷たい雨が窓を叩く。夕食の時間となり、左腕を包帯で固定したアンヘルは食堂へ向かった。
食堂では、ゲオルグが席についていた。しかしゲオルグは、食事を食べてはいなかった。ゲオルグは、めそめそと泣くニースを抱きかかえ、あやしていた。
「父様……ニースをどうして抱いてるのですか?」
唖然として問いかけたアンヘルに、ゲオルグは目も向けずに答えた。
「ニースが膝を擦りむいたからだ。ニース、まだ痛むか?」
「膝を擦りむいた……?」
雷鳴が鳴り、ニースの泣き声が響く。アンヘルの胸の中で、何かが弾けた。
アンヘルは踵を返し、静かに部屋へ戻った。部屋の片隅には、ニースからもらった花が小さな花瓶に入れられていた。
――僕は骨を折ったんだ! それなのに……!
込み上がる怒りを叩きつけるように、アンヘルは花瓶を投げつけた。ガシャリと大きな音を立てて、花瓶は割れた。床に落ちた小さな花を、アンヘルは何度も踏みつけた。
――なんで、なんで……!
アンヘルは、ニースが産まれる前までは、ゲオルグの愛情と期待を一身に受けて来た。ニースに全てを奪われたように感じ、アンヘルの寂しさや悲しさは、恨みや妬みに変わっていた。
心配して追いかけてきたフェーベが、声を上げた。
「アンヘル! 何をしてるのですか!」
「母様……」
アンヘルの目に、涙がじわりと滲んだ。
「なぜ母様は、何も言ってくださらないのですか!」
「アンヘル……」
「父様は、ニースのことばかりだ! 僕は、僕は跡継ぎなのに……!」
行き場のない怒りを、アンヘルはフェーベにぶつけた。フェーベは切なげに、アンヘルの右手を取った。
「アンヘル。あなたも分かっているでしょう。ニースは特別なのです」
「ですが、ですが……! だからといって父様が、ここまでニースにこだわる理由が、僕には分かりません!」
アンヘルの青い目から、涙が溢れた。フェーベは優しく、アンヘルの手を撫でた。
「仕方ないのですよ。ニースは天の導きなのだから」
「てんのみちびき……?」
「歌い手の証が黒い色であることは、知ってますね?」
「……はい」
静かに話すフェーベの言葉に、アンヘルは頷いた。
この世界の人々は、肌の色は多種多様で髪や目の色も様々だ。どこの土地にも様々な色の人が住むため、体の色での差別はない。しかし、黒い色は貴重な存在だ。歌の力を持つ者しか、体に黒を持たないのだ。
鼻をすするアンヘルに、フェーベは丁寧に話した。
「天の導きは、世界でも数えるほどしかいません。ニースのように、髪も目も肌も黒い者が、天の導きなのですよ」
歌い手の黒は、目、髪、肌に現れる。黒い箇所が多いほど、歌の力が強いと言われていた。
目や髪が黒い歌い手はそれなりに数がいるが、肌まで黒い歌い手は滅多にいない。目も髪も肌も黒い者が、天の導きと呼ばれる特別な歌い手だった。ニースは世界に十人もいない程、貴重で絶大な歌の力を持つ存在なのだ。
フェーベは言い聞かせるように、語りかけた。
「これは、アンヘル。あなたのためでもあるのですよ」
フェーベにとって、アンヘルを蔑ろにされるのは屈辱的な事だ。しかしニースが将来、アンヘルたちへもたらす富を考えれば、ゲオルグの変貌ぶりは仕方ない事だとも感じていた。
ニースをきっかけに、王家と繋がりを持つ事が出来れば、アレクサンドロフ家は公爵の地位も狙えるからだ。
アンヘルを見つめるフェーベは、ひどく寂しそうな目をしていた。アンヘルは俯き、涙を堪えた。
――母様も辛いんだ。ニースが……ニースが天の導きだから、こんなことに。
窓を叩く雨音が、激しさを増す。アンヘルの瞳の奥に、暗い炎がゆらりと揺れた。
怪我をした日を境に、アンヘルはニースに辛く当たるようになった。しかし幼いニースには、アンヘルの変化は分からなかった。
怪我のため、稽古をしばらく休む事になったアンヘルは、静かに本を読む日が続いた。庭でくつろぐアンヘルに、ニースは、いつものように話しかけた。
「兄さま、なんのご本を、よんでいるのですか?」
ニースがいくら話しかけても、アンヘルは何も言わない。
「兄さま……」
ニースは、自分がいないかのように扱われることに深く傷ついた。アンヘルに無視される度、ニースはリンドの元へ駆けて行き、大声で泣いた。
「坊っちゃま。大丈夫ですよ」
「でも、兄さまが、兄さまが……」
リンドが慰めても、ニースは泣き続ける。リンドは心を痛めたが、宥める事しか出来なかった。
ニースはやがて、アンヘルたちに話しかけるのをやめた。ニースは窓辺から、楽しそうに笑い合う兄姉を、ただ見つめて過ごすようになった。
――ぼくはどうして、きらわれちゃったのかな。何をまちがえちゃったのかな。
寂しさに膝を抱えるニースの耳に、鳥のさえずりが聞こえた。
――とりさんの声? お歌みたいだ……。
鳥は一羽でも、悠々と空を舞う。ニースは楽しげな鳥の姿を目で追った。
――とりさんは、ひとりぼっちでも歌ってて、たのしそう……。
ニースは、きゅっと手を握りしめて防音室へ向かい、鳥のさえずりのように、歌を歌った。
――歌ってるとたのしいな。とりさんみたいに、ぼくもいつか、お空をとべるかな。
どんなに悲しくても寂しくても、ニースは歌えば楽しい気分になった。一時悲しい思いをしても、歌う事でニースは笑顔を取り戻すようになった。
リンドは、ニースを励ますように歌声を褒めた。
「まあ、坊っちゃま。とても綺麗なお声ですね」
「ほんとう?」
「ええ。本当ですよ。リンドが嘘を言ったことがありましたか?」
「ううん。リンドは、いつもほんとうのことしか言わないよ!」
「そうでしょう。坊っちゃまのお声は、とても美しいのですよ。今度ルポルたちにも、ぜひ聞かせて下さいな」
「うん!」
ニースはリンドに褒められると、心が弾んだ。歌う事が大好きになったニースは、時折、乳兄弟であるリンドの子どもたちにも、歌を聞かせた。リンドの子どもたちは、アンヘルたちの代わりに、ニースの遊び相手になっていった。
元気を取り戻したニースは、頻繁に防音室で歌うようになった。練習に励むニースを、ゲオルグはさらに可愛がった。
「また練習をしていたのか。偉いぞ、ニース」
「はい、父さま。ぼくは、お歌がだいすきです!」
「そうか。歌が好きか。それは素晴らしいな」
ニースは、たくさんの石歌を覚えながら、鳥のように歌う事も覚えた。大好きな父と優しい乳母たちの元で、ニースは悲しみ以上に大きな幸せを感じ、成長していった。ニースの歌声には、喜びが溢れていた。
そうして月日は流れ……ニースは五歳の誕生日を迎えた。