30:ラース山脈3
前回のざっくりあらすじ:ラース山脈最大の難所を目前に、熊があらわれた。
*物語の進行上、一部にセンシティブ、及び、過激、残酷、暴力的表現や描写が含まれます。ご注意下さい*
目の前に突然現れた熊に、一行は反応出来なかった。それは熊も同じだったようで、ほんの束の間、互いに目を合わせ固まった。
……最初に動いたのは熊だった。
「グアァァ!」
熊は、目の前にいる人間たちの中で一番小さなニースを鋭い目で捉えると、唸り声を上げ走り出した。
「ひっ……!」
大きな声に、メグとニースはびくりと身を震わせた。
「メグ!」「危ない!」
恐怖に固まる二人を庇うように、ラチェットとジーナが熊との間に立ち塞がる。
グレゴリーが素早く弓矢を取り出し、グスタフは馬の鞭を手にする。マルコムは咄嗟に、近くにあったラチェットのナイフを手に取り、立ち上がった。
アントニーが槍を手に、皆の前へ走り出た。
「させるか!」
槍を突き出そうとしたアントニーに、熊は腕を振り上げた。
「グァウッ!」
熊の振るう爪を、アントニーは槍先で受けたが、そのあまりの勢いに弾き飛ばされた。
「ぐっ!」
飛ばされたアントニーに、グスタフとマルコムが巻き込まれ、三人は重なるように倒れた。
アントニーを援護するためにグレゴリーが放った矢は、身をよじった熊をすり抜けてしまった。
一瞬の攻防でアントニーたちを退けた熊は、そのままジーナとラチェットに向かい、即座に大きな腕を振り上げた。
ニースには、その一瞬がとても長い時間のように感じられた。
――どうしよう、どうしよう!
ニースの脳裏に、伯爵に斬りかかられた時のことが蘇った。当時は、アンヘルの護衛だったダミアンが助けてくれたが、ダミアンは今、ここにはいない。
これから起こるであろう出来事が、ニースの意識に一瞬のうちに思い浮かんだ。それは、丸腰のジーナとラチェットが、たやすく熊に切り裂かれてしまう光景だった。
「あぁぁぁぁぁ!」
考えるより先に、突き動かされるようにニースは動いていた。ニースは叫びながら、腰に下げていた木剣を抜き、一足飛びに熊に向けて突き出した。
「ガッ⁉︎」
突然現れたニースに、熊は驚いた。熊のふるった爪はニースの木剣を切り裂きながら、地面を抉る。ニースが咄嗟に突き出した木剣で、熊の勢いは削がれ、爪が描く軌跡を変えたのだった。
「ぐぅっ……!」
マルコから餞別にもらった木剣は、見事にその役目を終えた。ニースは、木剣が折れる勢いで吹き飛ばされたが、辛うじて膝をつくと、熊を睨み、大声で叫んだ。
「来るなぁぁぁぁ!」
その迫力に怖気付いたのだろうか。それとも、自分の攻撃を小さな人間に防がれたからだろうか。熊は一瞬、ニースを見つめ、動きを止めた。
その瞬間、グレゴリーの矢が、ニースの右頬をすり抜けた。
「グァアアッ!」
熊の大きな叫び声が上がる。熊の左目には深々と矢が刺さっていた。
熊は痛みに身をよじるが、傷をつけたグレゴリーに反撃しようと再び腕を振り上げた。しかし、そこへアントニーの槍が突き出され、熊の心臓を一気に貫いた。
熊には何が起こったのかわからなかっただろう。熊はそのまま立ち尽くし、アントニーが槍を引き抜くと、胸から血を吹き出して、後ろへ倒れた。
焚き火の炎が揺らめき、湧いた鍋から湯気が上がる。つい先ほどまで命のやり取りをしていたはずの藪の中には、食欲を誘ういい香りが漂い始めた。
「新鮮なお肉が来て良かったわねー」
鍋をかき混ぜながら、のんびりと言うジーナに、メグが鼻をすすった。
「もしかしてそれ、さっきの熊なの?」
「そうよー」
熊との死闘のあと、一行の緊張の糸はぷつりと切れた。ニースは呆然としたまま立ち尽くし、メグは怖かったと泣きじゃくった。ラチェットは腰を抜かし、グスタフとマルコムは役に立たなかった自分を責めた。
そんな中で、アントニー親子が慣れた手つきで熊をさばくと、ジーナは陽気に熊肉の調理を始めた。ジーナにとって熊の襲撃は、肉屋が注文の品を届けてくれたようなものだった。
鼻をくすぐる美味しそうな香りに、ラチェットが顔を上げた。
「ジーナさん。なんでそんなに元気なんですか?」
「無事だったんだものー。いつまでも落ち込んでたって、仕方ないでしょー」
ジーナの言葉に、グスタフとマルコムが苦笑いを浮かべた。
「確かに、ジーナの言う通りだな」
「落ち込んでるよりは、美味いものを食った方がいい」
「そうよー。熊肉のトマト煮込み、もうすぐ出来上がるから、待っててねー」
匂いに胃袋を刺激されて、アントニー親子が、ぐぅと大きな音を鳴らした。空はまだまだ明るいが、一行は、そのまま夕食を取る事となった。
出来上がったばかりのトマト煮込みを、ジーナは次々に皿に盛る。緊張が解けて、一気に空腹を感じたグスタフたちは、我先にと皿を手にし、食べ始めた。
しかしニースは、受け取った皿を、ぼんやりと見つめるだけだ。メグが心配そうに、声をかけた。
「ニース、大丈夫?」
ニースは、未だ戦いの衝撃から立ち直れていなかった。ニースが初めて剣を取った戦いの相手が、熊だった。相対した相手が、目の前に肉となって出てきても、生き残った実感が湧かないのは、仕方のない事だった。
マルコムとラチェットが、宥めるように語りかけた。
「ニース。怖かったかもしれないが、お手柄だったぞ。元気を出せ」
「そうだよ。ニースがあの時、熊の爪を防いでくれなかったら、僕とジーナさんはきっと死んでた」
ラチェットの言葉に、ニースは、ぷるりと身を震わせた。
――そうだ……。あの時もしかしたら、ぼくたちは死んでたかもしれないんだ……。
震えるニースに、ジーナがそっと近寄り頭を優しく撫でた。
「ありがとうねー。ニースくーん」
ニースは、こぼれ落ちそうな涙をぐっと堪え、震える手で肉を口に運んだ。
先ほどまで、ニースと向かい合っていた熊の肉が、トマトの酸味と共に口の中に広がる。ぽろり、ぽろりと、ニースの目から涙がこぼれた。それは、生きている事を噛み締めたニースの、安堵の涙だった。
ニースが食べ終えるまで、ジーナはそっと、頭を撫で続けた。
遠くまで続く山の稜線に、徐々に太陽が近付く。ニースが気持ちとお腹を落ち着かせる頃には、たくさんあった鍋の中身は、ほとんど空になっていた。
「いやぁ、まさか奥さんがこんなに料理上手だったとは。いや、今まで頂いた飯も、もちろん美味しかったですけどね」
「本当、美味いですよ! もうひとつお代わりもらえますかね?」
ニースのおかげで、無事に務めを果たせたアントニー親子は、ジーナのとっておきトマト煮込みをお代わりしていた。
もちろん、グスタフたちもお代わりしていたが、ニースがびっくりするほど、アントニー親子は食べ続けていた。
「こんな上手い熊肉料理がこの世にあったとはなぁ」
ジーナの料理の腕をしきりに褒めるグレゴリーに、マルコムが笑った。
「これは、トマト煮込みって言ってな。俺とジーナの故郷の名物なんだ。今日はパンで食べているが、パスタにも米にも、何にでも合うぞ」
「私とマルコムは、幼なじみなのよー。アマービレ王国には、色んな国の料理が輸入されてるからー。たぶん王都辺りなら、食べれるんじゃないかしらー」
話を聞いたグレゴリーは、あんなに食べたというのに、まだ食べたそうに瞳を輝かせた。
「親父。そのうち家族みんなで、王都に食べに行こうぜ」
「そうだな。あいつらにも食べさせてやらないと」
熊の襲撃で、一度はどうなるかと思った一行だが、ジーナの料理にすっかり癒されていた。メグがワクワクを抑えきれない様子で、ジーナに問いかけた。
「ねぇ、お母さん。もうそろそろ、あれもいい頃合いじゃない?」
「そうねー。もう粗熱も取れた頃よねー」
ジーナが、小麦粉の生地を入れて焼いていた分厚い鍋の蓋を取ると、中からふんわりと甘い香りが漂った。グレゴリーの瞳が、キラリと光った。
「うわ、これまた美味そうな匂いが!」
よだれをすするグレゴリーに、グスタフは、ほくほくの笑顔で頷いた。
「もちろん美味いぞ。ジーナの得意料理なんだ」
ジーナは、鍋肌に沿うようにナイフを差し込み、ぐるりと回すと、再び蓋をかぶせて鍋ごとひっくり返す。そっと鍋を取り外し、蝋引き紙をめくると、中からしっとり小麦色に焼けた美味しそうな焼き菓子が出てきた。
ニースは思わず歓声を上げた。
「うわぁ! これって……!」
「ケーキよー」
ニースは、伯爵家にいた時にケーキを食べたことがあった。誕生日の日には立派なケーキが出たものだが、クフロトラブラでは見ることも叶わなかった。
ジーナのケーキは、伯爵家で食べたものとは違い、クリームはついていない。しかしケーキからは、バターと蜂蜜の香りがふんわりと漂い、早く食べたいと、ニースの口の中が騒ぎ出した。
ケーキは瞬く間に一行の胃袋へと消えた。チーズの塩気と濃厚な風味に混ざり合う、蜂蜜と果物の甘さ。そして、しっとりとしたケーキの口当たりは、頬がとろけて落ちそうな美味しさだった。
「いやぁ、本当に美味い! 親父、この仕事受けて正解だったなぁ!」
「そうだなぁ!」
「……そんなに泣かなくてもー」
グレゴリーはあまりの美味しさに泣いていた。もちろん、アントニーも泣いていた。アントニー親子にとって、ケーキは生まれて初めて見る料理だった。
泣きながら食べ続ける二人の横で、ニースは頬を緩めた。
「でもジーナさん。本当に美味しいですよ!」
「そうおー? それなら良かったわー」
ケーキで男泣きする二人に、ジーナは引きつった笑みを浮かべていたが、ニースが喜んで食べる姿を見て、にっこり笑った。
一夜明けて。覚悟を決めた一行は、朝日が昇るのと同時に動き出した。日の光が、細く長い山並みを照らす。ナイフの刃先を辿るような細道を、亀が歩くような、のっそりとした速度で、四台の馬車は進んだ。
御者台に、ニースの姿はない。ニースは渋々ながらも、メグと共にオルガン馬車の中にいた。
「ここなら、外が見えないから安心ね!」
「メグ、ぼくはやっぱり怖いよ……」
二人は、地獄への通り道を見ると腰が抜けてしまうということで、オルガン馬車の中に乗せられていた。
グスタフたちは御者台には上がらず、直接馬を引いて歩いた。馬が怖がってしまうので、なだめながら歩く必要があるのだ。
脱輪しても困るので、少し離れた後方をジーナが歩き、車輪の動きを注意深く見守る。ほんのわずかなズレも命取りになるため、一行は慎重に慎重を重ね、少しずつ確実に進んでいった。
「グスタフー! 少し左に寄ってー!」
僅かでも横にずれれば、大声でジーナが知らせる。
オルガン馬車の中から外は見えないが、注意を促すジーナの声は聞こえる。その度に、ニースはびくりと震え、メグが泣きそうになりながらもニースをなだめた。
念には念を入れ、ゆっくりと一行はラース山脈一番の難所を乗り切った。
「着いた……」
長く続いた細い道を渡りきり、ようやく開けた場所へたどり着くと、グスタフたちは崩れ落ちるようにへたり込んだ。朝日と共に出発したはずだが、すでに空には夕焼け雲が浮かんでいた。
「ねぇ、着いたなら開けてくれない⁉︎」
メグの非難の声がオルガン馬車の中から響いたが、大人たちが一息着くまで、二人が表に出されることはなかった。
その後の旅は順調だった。難所と共に国境線も超え、ルテノー大陸へと入った一行は、特に危険な目に遭う事もなく、何日も馬車を走らせた。
眩い日差しを浴びて、四台の馬車が稜線を走る。御者台に座り、オルガンの見張りをするニースは、頬を撫でる風に、ふわりと笑みを浮かべた。
「だいぶ暖かくなってきましたね」
青空を吹き抜ける風は、冷たさより温もりを感じられた。ニースの言葉に、ラチェットは頷いた。
「そうだね。たぶん皇国の町や村は、もうすぐ初夏だと思うよ」
まばらな低木しかなかった木々は、標高が下がるにつれて、徐々に高さと密度を増していた。一行の目に入る木や草の葉は、芽吹いたばかりの若草色から濃い緑色へと変わっており、葉の大きさも量も増えた。
柔らかな日差しは鋭さを増し、アートル大陸で春だったはずの季節は、ルテノー大陸では初夏になっていた。
ラチェットの言葉に、ニースは水筒を手にして笑った。
「雪がなくなる前に山を抜けれて、良かったです。……あ、なくなっちゃった」
クフロトラブラで積んだ水は、とっくに使い切り、一座は万年雪を溶かして凌いでいた。
水を飲み干したニースの言葉に、ラチェットは微笑んだ。
「万年雪なんて、なかなか飲めないしね。貴重な体験だったよ」
「ここから先も、まだ雪があるといいんですけど」
「もう水の心配は、たぶんいらないよ。……ほら、あれを見て」
ラチェットが指し示した先には、木々の間にキラキラと光るものが見えた。グスタフも気付いたようで、馬車はゆっくり止まった。不思議に思い、近付いたニースは、光の正体に目を輝かせた。
「川ですね!」
ニースの前には、澄んだ小川が流れていた。近くには岩場があり、その隙間から雪解け水が湧き水となって流れ出ていたのだった。
歓声を上げたニースの声に、メグが嬉しげに笑った。
「さすがに水浴びは出来なさそうだけど。遠慮なく顔は洗えそうね」
馬車から空の樽を下ろしながら、ジーナが微笑んだ。
「下の方で洗ってねー。上で水を汲んじゃうからー」
「分かってるわ」
グスタフたちが馬に新鮮な水を飲ませる。嬉しげないななきを、馬が上げた。
川に喜ぶニースたちの傍らで、アントニー親子が弓を手にした。その姿に、ニースは、びくりと身を震わせた。
「アントニーさん。何かいるんですか?」
不安を滲ませたニースの声に、アントニーは、ニッと笑った。
「ああ。夕食がな」
「夕食? また熊ですか⁉︎」
震えるニースの口に、グレゴリーが指を当てた。
「静かに。待ってりゃ分かる」
ニースは、こくりと頷きを返した。二人は微笑むと、近くの茂みへ入っていった。ニースが不安を感じながら待っていると、二人は仕留めた獣と山菜を手に帰ってきた。
「大猟、大猟!」
「いやあ、この季節はやっぱりいいな」
積荷の食料もほとんど食べ尽くした一行にとって、鳥や兎、山菜はご馳走だ。二人の戦果を見て、ジーナが満面の笑みを浮かべた。
「あらー。美味しそうねー。今日はここで野宿しちゃうー?」
ジーナの提案に、グスタフたちは大喜びで頷いた。ニースは、熊ではなかった事に、ほっと安堵の息を漏らした。




