29:ラース山脈2
前回のざっくりあらすじ:ラース山脈の話を聞いて、ニースは気絶した。
*物語の進行上、一部にセンシティブな表現が含まれます。ご注意下さい*
ニースが気を失ったため、馬車列から離れてしまったオルガン馬車だったが、追いつくのには、さほど時間はかからなかった。グスタフたちは、少し開けた平らな場所で、馬車を止めて休んでいた。
「すみません、遅れてしまって」
御者台から降りてきたラチェットに、グスタフは笑った。
「私たちも、今休み始めたところだ」
グスタフは道の先を指し示した。道の傍らには、打ち払った枝が積まれていた。
滅多に人の通らない稜線へ続く山道は、整備されていない。大きな岩がゴロゴロあり、道幅は山の上に進むほど狭く、ギリギリ一台の馬車が通れる程度しかない。
低木の茂みが道に枝を伸ばしている箇所もあり、車輪が引っかかると、枝を打ち払って進まなければならなかった。
積まれた枝を見て、ラチェットは苦笑した。
「これは大変でしたね」
「まあな。だが、馬にもいい休憩だよ」
「そうですね。この子たちも休ませないと」
狭く険しい道を、馬は重い車体を引いて登っている。一行は、度々馬車を止めて休憩を取る必要があった。
ラチェットがオルガン馬車から馬を外し、休ませる。ニースも手伝おうとしたが、ラチェットに断られた。その様子に、マルコムが首を傾げた。
「何かあったのか?」
「えっと……。ぼく、さっき気を失っちゃって」
「は⁉︎ 具合でも悪いのか?」
驚くマルコムたちに、ラチェットが気まずそうに話した。
「僕がニースを怖がらせてしまったので。ニース、ちゃんと休んでね」
「はい。ありがとうございます」
ニースはグスタフたちと共に、ゴツゴツした岩に腰掛けた。ジーナが気遣い、水筒を渡した。
「ニースくん、大丈夫なのー?」
「はい。大丈夫です」
「そおー? 具合悪い時はすぐに言ってねー」
「ありがとうございます。でも、本当に大丈夫ですから」
元気そうなニースの姿に、グスタフたちは胸を撫で下ろした。馬を休ませるのを手伝いながら、メグが大きなため息を吐いた。
「でも本当に、無理は禁物ね。山を登るのがこんなに辛いなんて、思わなかったわ」
メグのぼやきに、案内役兼護衛として雇われた中年の男、アントニーが笑った。
「はは。これだけ大きな馬車がこの道を通るなんてことは、滅多にないですからね。俺たちも話を聞いた時はびっくりしましたよ」
アントニーは、息子のグレゴリーと共に、一座の山脈越えのため雇われた。二人は普段、クフロトラブラで猟師として働いているが、たまにいる山脈越えをする物好きな旅人たちの案内役を、代々請け負っている家系だった。
アントニーは槍と弓が上手く、グレゴリーは弓が得意だ。二人とも馬車を動かせるため、今回の案内役には適任だった。
一座が借りている二台の幌馬車も、アントニー親子所有の馬車だ。二人は皇国へ着いたら、交易で使えそうな品をいくつか仕入れて、馬車を持ち帰る予定だった。
弓の確認をしていたグレゴリーが、感心した様子でオルガン馬車に目を向けた。
「しかし、まさかあんなデカイ馬車が、この山道を楽に通れるとはなぁ」
一行の馬車の中で、最も重そうなオルガン馬車だが、意外にも四台の馬車の中で一番楽に山道を登っていた。
大きな不思議な車輪は、道に突き出ている岩を物ともせず踏み越えていき、オルガン馬車を引く二頭の馬も、ほかの馬に比べて疲労が少ないように見えた。
「ああ。それはたぶんこの馬車が、発掘品だからだと思いますよ」
ラチェットが馬に水をやりながら、気怠げに答えを返した。ラチェットにとっては、馬車よりも中身のオルガンの方が大切なようで、馬車にあまり興味はなさそうだった。
対してニースは、普通の馬車とオルガン馬車の違いに驚いていた。
「ぼくもびっくりしました。あんなに大きな岩を乗り越えていたのに、オルガンはそんなに揺れませんでしたし」
「それは僕も助かったよ。こんな道で揺らしたら、オルガンが壊れるからね」
ラチェットは大きく頷くと、冗談混じりに肩をすくめた。
「ニースはぼんやりしちゃって、オルガンを見ていてくれないし。僕は本当に冷や冷やしたよ」
ラチェットの言葉は責めるものではなかったが、ニースは申し訳なく感じて俯いた。
「すみません、ラチェットさん」
その様子に、メグがラチェットを睨んだ。
「ちょっと、ラチェット。ニースにそんな言い方ないじゃない。元はと言えば、あなたがニースを怖がらせたから、ニースは気を失ったんでしょ」
メグは手頃な木に馬の手綱をくくりつけると、うなだれるニースに近づき、後ろからそっと抱きしめた。
「可哀想なニース。ラチェットの事なんかほっといて、私と前の馬車にいましょうよ」
「でも……」
「め、メグ⁉︎」
メグの豊かな膨らみが、ニースの頭を包む。まだ小さなニースは何とも思わなかったが、ラチェットは慌てて、声を上げた。
「ごめん、メグ! 頼むから、ニースから離れて!」
「い・や・よ! そんなにニースにオルガンを見張らせたいわけ?」
「違う! そうじゃない! いや、そうなんだけど、そうじゃないんだ!」
ラチェットは訳の分からないことを言いながら、メグをニースから引き離すと、ニースの両手をしっかり掴み、謝った。
「ニース、ごめん。本当にごめん。もうしないから。怖い話はしないから。だから許してください……」
ラチェットは跪き、悲壮感溢れる声でニースに懇願した。必死に謝るラチェットに、ニースは戸惑いながらも小さく頷いた。
そんな二人を見て、メグは渋々ラチェットを許した。馬に餌を与えていたマルコムが、顔をニヤニヤさせてラチェットに尋ねた。
「それで? 一体何の話をして、ニースに気を失わせたんだ?」
ラチェットは、マルコムの顔を見ると、言い辛そうに頬をかいた。
「いや、その……ラース山脈が、大地の裂け目の上を通ってるって話で……」
「は? それだけのことで?」
からかう気満々だったマルコムは、ラチェットの返事を聞いて唖然とした。マルコムの言葉にニースは、ムッとして立ち上がった。
「だって、怖いんですよ! 大地の裂け目は地獄への通り道で、鬼が出てきて、バクって食べられちゃうんです!」
身振り手振りを交え、大真面目で言うニースの姿に、皆、声を上げて笑った。納得いかないニースは、口を尖らせ小さく呟いた。
「なんでみんな笑うのかな……」
そんなニースの姿を見て、グレゴリーは水筒の水を一口飲むと、優しく語りかけた。
「ニースくん。それって、あれだろう? 町で言われているお伽話を聞いたんだろう?」
グレゴリーの言葉に、ニースはこくりと頷いた。グレゴリーは肩をすくめ、話を続けた。
「あれはね、あくまでもおはなしだよ。小さな子どもたちが、山や森に入り込まないように、大人が作った作り話なのさ」
「……作り話ですか?」
アントニーも、グレゴリーの話に合わせるように、落ち着いた声でニースに話した。
「そう、グレゴリーの言う通りだよ。だから、別に鬼が出てきてニースくんを食べたりはしない。安心しなさい」
ニースは、しばらく首を傾げて考えたが、ゆっくり頷き、ラチェットに頭を下げた。
「ラチェットさん、ごめんなさい。ぼく、てっきり鬼が来ちゃうと思って……」
ラチェットも、ニースに謝った。
「いや、いいんだよ。僕もごめんね。走る馬車の上で話すことじゃなかったかもしれない」
仲直りする二人を見て、メグはにっこりと笑った。しかしグスタフが、はははと笑って爆弾を落とした。
「まぁ、鬼は出なくても、足を滑らせて大地の裂け目に落ちたら死ぬし、熊や狼は出るから、下手すると食われてしまうがな」
「熊に食われ……⁉︎」
グスタフの言葉を聞いて、再び気を失うニースをラチェットが抱きとめた。メグとジーナが、抗議の声を上げながらグスタフを叩く。マルコムとアントニー親子がため息を吐く中で、グスタフの悲鳴がこだましていった。
びゅうと強い風が、遮るもののない山肌を吹き抜ける。ラース山脈の稜線へたどり着いた四台の馬車は、速度を上げて走り出した。
オルガン馬車の御者台の上で、どこまでも続く山並みを見つめ、ニースは感嘆の声を漏らした。
「うわあ……! すごいですね! あんなに遠くまで見えるんだ」
ここまでの山道と違い、稜線を通る道には、大きな岩は少なかった。背の高い木はほとんどなく、低木もまばらにしか生えていない。
春の草が小さく芽吹く山肌には、砂礫を含んだ黒っぽい土が山の峰を結ぶように、細い道を描く。山頂付近には万年雪が残るが、比較的標高の低い場所ではすでに雪は解け、所々に小さな小川のように水の流れを作っていた。
キラキラと瞳を輝かせるニースに、手綱を握るラチェットは笑った。
「そうだね。こんなに気持ちいいとは思わなかったよ。風は冷たいけど、意外と暖かいものだね」
「そうですね」
春とはいえ、標高の高い山の上だ。まだ空気は冷たく、風が吹くとより寒さを感じる。それでも、日中は春の陽射しがぽかぽかと照らすので、比較的暖かさはあった。
雄大な景色に時折見惚れながら、ニースたちは皇国を目指し、進んでいった。
一行は夕暮れ前に野宿をし、長い旅の中で、寒さに体温を奪われないように気をつけた。日の出ているうちに出来る限り距離を進み、夜は早めに眠る。そんな日々を、ニースたちは何日も過ごした。
そうして二十日ほどかけて、ラース山脈を通る道の半ばまでやって来た一行の前に、「地獄への通り道」とニースが言った言葉そのもののような道が立ちはだかった。
馬車を止め、全員が馬車から降りて、死と隣り合わせの恐ろしい道を眺める。メグが小さな悲鳴を上げて、顔を覆った。
「うそでしょ……本気でここを通るの?」
それまでの山道も、細くはあった。稜線には切り立った崖のような部分も所々にあり、少し遠くへ目を向ければ、大穴に繋がる大地の裂け目が見え、真っ暗で底の見えない暗闇が口を開けているのもわかった。しかし、それでもまだ良い方だった。
小さな峠を越えて、これから進む道を視界に入れることが出来た一行の目の前には、ナイフのように薄く尖った山の背を、綱渡りでもするかのような狭い道が、細く長く続いていた。
馬車の車輪の幅とギリギリ同じぐらいの、狭い道の下に広がる、深く暗い裂け目の底は見えない。眩い日の光が照らすのは、草木の生えない急崖の上部だけだ。
一歩足を踏み外したら。馬車が少しでも脱輪したら。一気に大地の裂け目へと飲み込まれてしまう、身もすくむような細道が、一行を待ち受けていたのだった。
想像を絶する危険な道に、メグだけでなく、グスタフ、マルコム、ラチェットも愕然としていた。皆を宥めるように、アントニーが笑いかけた。
「まあ、みなさんの馬車のように、ここまで大きな馬車で通ったことは、正直今までありません。ですが、慎重に通れば大丈夫なはずです」
アントニーの言葉に、メグは金切り声を上げた。
「はずって……。いま、はずって言ったわよね⁉︎」
「うわっ、危ない! メグ、ダメだって!」
アントニーに掴みかかろうとするメグを、ラチェットが必死に止めた。
一行が立っている場所は、目の前に広がる絶望的な狭い道ほどではないが、それでも取っ組み合いが出来るほど広い道でもないのだ。
しかし必死なメグとは対照的に、アントニー親子は気にするそぶりもなく、のんびりと答えた。
「今から出発すれば、日暮れ前にはこの難所を抜けられるはずです」
「まあ、ここが一番の難所だから。お嬢さんも諦めなって」
アントニー親子の言葉に、メグは、がくりと膝をついた。ラチェットがメグの背を支え、宥めるように声をかける。
そんな二人を横目に、マルコムがニースの肩に手を置いた。
「ニース、大丈夫か?」
マルコムの言葉に、ニースは答えられなかった。
ニースは、カタカタと小刻みに震えて、目の焦点が合っておらず、今にも口から泡を吹いて倒れそうなほど、恐怖に震えていた。
ニースの重症度は、一座の誰よりも酷かった。小さなニースの、あまりの怖がりように、アントニー親子は困ったように顔を見合わせた。
一行は仕方なく来た道を少し戻り、対策を考えることにした。背の高い木が比較的多く、風の吹き込みにくい開けた場所に、グスタフたちは馬車を止めた。
御者台から降りると、グスタフは、はぁとため息を吐いた。
「あんな道、どうやって通れば……」
アントニーが、気遣いながら語りかけた。
「朝一番に出発して、ゆっくり進みましょうか」
「親父。そこまでしなくても、昼前に出るぐらいで、充分間に合うんじゃないか?」
「いや、それは無理だろう」
グレゴリーも会話に混ざり、三人は難所を越える方法を真剣に話し始めた。
グスタフたちが相談している間、ニースたちは野宿の準備を始めた。馬を休ませると、ニースは暗い表情のまま倒木に腰を下ろした。
戦々恐々とする一座の中で、ただ一人動じなかったジーナが、張り切って袖をまくった。
「少し早いけどー。夕食の支度を始めちゃいましょうかー」
ジーナは場を和ますように、料理の腕を振るい始めた。火を起こすと聞いてニースは少し元気を取り戻し、手伝った。
ニースが火を起こすと、ジーナは何本も炭を加え、火を移していった。ニースは何を作るのかと興味を抱いた。
「ジーナさん、なんでそんなに炭を使うんですか?」
「うふふー。ちょっと美味しいのを、作っちゃおうと思ってねー」
ジーナは笑いながら答えると、マルコムに小さな穴を掘らせた。
「マルコムー。鍋が入るぐらいにしてねー」
ジーナは楽しそうに、小麦粉に膨らし粉とバター、少しの水を練り混ぜる。そこへさらに、刻んだチーズと蜂蜜漬けの果物を、蜂蜜ごと混ぜた。
ジーナは、ニースのように真っ黒な分厚い鍋に、薄く油を敷いて、底に丸く切った蝋引き紙を敷く。そして、先ほど練った生地を流し込み、蓋をした。
マルコムが掘った穴の底に火のついた炭を入れ、その上に蓋をした鍋を乗せると、さらに蓋の上にも炭を乗せた。
ぼんやりと様子を見ていたメグが、身を乗り出した。
「あ、お母さんのとっておきじゃない」
メグは知っているようで、口元をゆるめた。ニースは、きっとものすごく美味しいものが出来るんだろうと思った。
続いてジーナは、ラチェットに野菜を切るよう指示を出した。
「せっかくだからー。少し奮発しましょうねー」
ジーナは新しい鍋に油をひいて熱し、ラチェットが泣きながら刻んだ玉ねぎや根菜を軽く炒める。そして、水と豆、瓶詰めのトマト、ハーブを共に加え、火にかけた。
そこへ、アントニー親子との相談を終えたグスタフが、ウキウキした様子でやってきた。
「お、いいトマトの香りだ。蜂蜜の匂いもするな。ジーナのとっておきかな?」
嬉しそうなグスタフに、残念そうにジーナは肩を落とした。
「そうよー。でも今日は、お肉がないのよねー。干し肉を入れてもいいんだけどー。これにはやっぱり、新鮮なお肉の方が美味しいからー」
するとその時、突然木々の葉が大きく揺れた。一行が目を向けると、大きな熊が茂みの中から顔を出した。熊は、料理の香りにつられて、やってきたのだった。




