153:それぞれの理由1
前回のざっくりあらすじ:ニースとセラは、音楽院の校舎の説明を受けた。
太陽が空高く上る頃、全ての説明を聞き終えたニースとセラは、お腹を空かせながら事務室へと戻った。しかしそこにラチェットの姿はなく、シーラが戸惑いを誤魔化すように、二人に笑いかけた。
「まだ入学手続きが終わってないみたいですね」
「手続きって、大変なんですね」
「ラチェットさん、いつ終わるのかな……」
二人のガッカリする気持ちを代弁するように、セラのお腹が、ぐぅと鳴った。シーラは、二人を安心させるように微笑んだ。
「二人とも、私と一緒に音楽院のお昼を食べてみない? ご馳走するわ」
お腹の音に恥ずかしそうに俯いていたセラが、瞳を輝かせた。
「いいんですか!? どんなご飯なのか気になります!」
ニースは申し訳なく感じて、あたりを見回すも、ラチェットが戻ってくる気配はない。仕方なくニースも頷きを返した。
「すみません。お願いします」
「気にしなくて大丈夫よ。これから長い付き合いになるのだし、あなたたちと仲良くなりたいから。行きましょう」
シーラは二人を、事務室そばの喫茶店へ誘った。ニースとセラが、シーラに言われた通りに席に着いて待っていると、シーラがトレイを持ってやってきた。
「これはね、ラップっていう料理なの。アルモニアのお昼ご飯の定番なのよ」
ラップは、薄いパンでハムや野菜がくるくると巻かれており、忙しい時でも片手で摘めるサンドイッチのようだと、ニースは感じた。
セラは、しっかりと飲み込んでから微笑んだ。
「すごく美味しいです! こっちの飲み物はなんですか?」
「これはスムージーよ。氷を砕いて混ぜてあるから、夏にぴったりなの。ストローでかき混ぜながら飲んでね」
ニースはシーラの真似をして、木製のストローでかき混ぜてから飲んだ。大きめのストローの穴から、とろりとした冷たさと共に、果実の甘みが広がった。
「本当に冷たい! でも、美味しいです!」
「ふふ。良かったわ」
二人がすっかり満足して、シーラと共に事務室に戻ると、困ったように顔をしかめたラチェットが待っていた。
「ラチェットさん!」
ニースが心配に感じて駆け寄ると、ラチェットは疲れた様子で微笑んだ。
「ああ、二人とも。どうだった?」
「シーラさんが丁寧に説明してくれたので、安心できました」
ニースに続いて駆け寄ってきたセラも、満面の笑みで答えた。
「すごく楽しかったです! それから、これ!」
セラに紙袋を差し出されたラチェットは、不思議そうに受け取った。
「これはなんだい?」
「ラップっていう食べ物です! ラチェットさんにもって、シーラさんが!」
セラに話を向けられたシーラは、ほんのり頬を染めて笑いかけた。
「お疲れかと思いましたので。良かったら昼食にどうぞ。ニースくんとセラちゃんにも食べてもらいましたから」
ラチェットは中を覗くと、丁寧に頭を下げた。
「わざわざすみません。ありがとうございます」
「いえ……」
照れたように目を逸らしたシーラを気にする事なく、ラチェットは、ニースとセラの頭をくしゃりと撫で、扉を開けた。
「それじゃあ行こうか、二人とも」
「はい。……シーラさん、ありがとうございました」
「シーラさん、またね!」
「ええ。またね、二人とも」
ニースとセラは、シーラに挨拶をすると、ラチェットの後を追った。
三人は、ちょうどやって来た乗合馬車に乗り、真っ直ぐ町へと戻った。楽しかったと話しかけるセラに相槌を打ちながらも、ニースは表情が優れないラチェットの事が気がかりだった。
――ラチェットさん、疲れてるのかな。入学手続きが、こんなに大変なものだったなんて……。
三人を乗せた馬車は、ゆっくりと坂道を下っていった。
ホテルへ戻ると、ラチェットは大きなため息を吐いて、紙袋をテーブルへと置いた。そのまま椅子に座って、顔をしかめたまま動かないラチェットに、ニースは紅茶を入れたが反応はなかった。
疲れているにしても、あまりにラチェットの様子がおかしいので、ニースは心配になった。
――ラチェットさん、本当に疲れてるだけだよね? 何か思いつめてるみたいにも見えるけど……。困ったことがあったわけじゃないよね?
問いかけようかニースが悩んでいると、メグが訪ねてきた。
「あの……。ラチェット、帰ってる?」
扉を開けたニースは、セラの姿がないことに首を傾げた。
「うん、いるよ。セラは?」
「疲れたみたいだけど、よっぽど楽しかったのね。セラは笑いながら寝てるわ」
ふふふと笑うメグにニースは微笑んだが、メグを中へ通すか迷った。
「あのね、メグ。ラチェットさんはいるんだけど、疲れてるみたいなんだ」
「そうなの?」
メグはニースの頭越しにラチェットの様子を見た。ラチェットは、メグの来訪に気付いてもいないようで、頭を抱えて、じっとして動かなかった。
メグが来たというのに、顔すら上げないラチェットの様子は、あまりに異常だった。メグは、悲しそうに顔を歪めた。
「ラチェットがああなのは、たぶん私のせいなの。だから、少し部屋に入れてくれる?」
「メグのせい?」
ニースは首を傾げながらも、メグを部屋に入れた。メグは、ゆっくりラチェットに歩み寄った。
「ラチェット……」
メグは申し訳なさそうに顔を歪め、静かに隣に座った。
「まだ怒ってるのよね。ごめんなさい。私が悪かったわ」
メグがラチェットの腕にそっと手を添えると、ラチェットは、はっとして顔を上げた。
「メグ……。いや、別にメグが謝ることはないよ」
気まずそうな二人の会話に、ニースはどうしたらいいかと戸惑った。
――二人の話を聞いちゃいけない気がするけど、ぼくが部屋を出たら、またラチェットさんが危なくなっちゃうし……。
おろおろするニースに、ラチェットが気づき、微笑んだ。
「ニース、大丈夫だよ。一緒に座ろう」
ニースが戸惑いながら席に着くと、入れ替わるようにラチェットが立ち上がり、メグのために紅茶を入れ始めた。
メグはテーブルに置かれた紙袋に気づき、問いかけた。
「ねえ、ニース。この紙袋はなに?」
「それはラチェットさんにって、シーラさんがくれたんだよ」
メグの眉が、ぴくりと動いた。
「シーラって……女性の名前よね?」
「え? うん。そうだよ。音楽院で、ぼくたちの入学試験をしてくれた人だよ」
メグは紙袋に手を伸ばし、中を見た。
「これって……」
「ラップっていう食べ物なんだって。お昼にどうぞって。ぼくたちもご馳走になったんだ」
紅茶を入れたカップを、ラチェットがメグの前に置くと、メグは、じろりとラチェットを睨み、立ち上がった。
「なによこれ。どういうことなの!? 私のことを避けるし、キスもしてくれないと思ったら、ほかに女の子がいるなんて!」
ラチェットは驚いてメグを見た。
「え? なんの話?」
「とぼけないでよ! 今の話聞こえてなかったの!? このお弁当の話よ!」
ぐいと紙袋をラチェットに押し付けるメグを見て、ニースは慌てて言葉を挟んだ。
「メグ! それは喫茶店でぼくたちが美味しいって言ったから、シーラさんが気を利かせてくれただけで……」
メグはニースの事も睨んだ。
「なんで気を利かせる必要があるのよ! 昨日の今日でお弁当を渡すなんて、あり得ないでしょ!?」
ラチェットは紙袋を脇に避けて、メグを宥めようと語りかけた。
「メグ、落ち着いて。そういうんじゃないから」
しかしメグの怒りは収まらなかった。
「何がよ! そういうって、どういうことなのよ!?」
「メグ!」
メグの肩を掴もうとするラチェットの手を、メグは払いのけた。
「もういいわ! その人と仲良くすればいいでしょ!」
部屋を出ようとするメグを、ラチェットは必死に止めるがメグは出て行ってしまった。そのままラチェットが追いかけていくのを、ニースは唖然として見ていた。
「メグも、やきもちを妬いたのかな……。あんなに怒るなんて……」
あまりのメグの激怒ぶりに、ニースの頭から、ラチェットの様子がおかしかったことなど、すっかり抜け落ちた。ニースは、セラをメグのように怒らせないよう、行動に気をつけようと、強く誓った。
ラチェットとメグは、その後も喧嘩したままで、微妙な距離感を保っていた。ニースは、気まずい二人から距離を置くように、入学準備を始めた。
始業式は一ヶ月半後だが、入寮日は一ヶ月後となる。ニースは、小切手の使い方を覚え、セラ、マルコムと共に学費の納入に向かい、必要な品を買い揃えた。
そうして日中を過ごしつつ、夜はセラと舞台に立つ日々をニースは送った。
常日頃、たくさんの音楽に触れているアルモニアの人々も、音楽としての歌は初めて聞くもので、その美しさに酔いしれた。瞬く間に人気となった一座の公演には、多くの人が詰めかけていた。
そうして一週間が過ぎた頃、公演後にホテルへ戻ろうとしたニースは、控え室に観客からもらった差し入れを、忘れている事に気がついた。劇場には、片付けのためラチェットが一人きりで残っていたが、気がつくかは分からない。
ニースは手を繋いでいたセラに、取りに戻ることを伝えた。
「ごめん、セラ。メグたちと先に帰ってて。たぶんもらったもの、お菓子だと思うんだ」
「一人で大丈夫? 一緒に行くよ?」
「まだ劇場から近いし、帰りはラチェットさんと一緒に帰るから大丈夫だよ」
「分かった。気をつけてね」
ニースが劇場に戻ると、一人で残っていたはずのラチェットが、誰かと話す声が廊下に響いていた。
「困ります。何度来られても、僕にその気はありません」
「そこを何とか……」
ニースは話す相手の声に聞き覚えがあった。
――この声って……シーラさん?
真剣な声音に、ニースが思わず柱の陰から覗き見ると、シーラが何度も頭を下げて、ラチェットが険しい顔で断る姿が見えた。
――何してるんだろう?
声をかけようか、かけまいか。ニースが悩んでいると、肩を誰かに叩かれた。
「……!?」
「しっ!」
驚いて叫びかけたニースの口を手で塞いだのは、怒りに顔を歪めたメグだった。困ったような顔をしたセラが隣におり、ニースは危険を感じた。
――これ、絶対危ない! でも、ぼくも下手したら殺される……!
鬼気迫るメグの顔に、ニースは何も出来なかった。
ニースたちが陰で聞いていることなど露知らず、シーラはラチェットに頭を下げ続けた。
「お願いします! 受け入れて頂けませんか」
「出来ません。確かに魅力的ではありますが、僕にその気はありません」
「そんなことを言わずに、チャンスをください! 少しの間、試して頂くだけでもいいんです!」
二人の会話を聞いたメグの目が鋭くなり、ニースは小さく震えた。
ラチェットは、毅然とした態度で断り続けていた。
「嫌です。ほかにいくらでもいるでしょう。僕じゃない人を選んでください」
「そんな! あなたじゃないと、ダメなんです!」
「シーラさん。そんなことはないですよ。他の人でもいいはずです」
「いいえ! あなたはご自分の価値を分かってらっしゃらない! あなたほどの方は、ほかにいないんです!」
メグが、ギリリと奥歯を噛み締める音が聞こえ、ニースは顔を青ざめた。
ラチェットは困りきった様子で、はぁとため息を吐いた。
「そうは言われましても、僕は一座を抜ける気はないんですよ」
「そんなの、勿体なさ過ぎます!」
いつまでもラチェットに食い下がるシーラの様子を見て、我慢の限界を迎えたメグは、飛び出した。
「ちょっとあんた! ラチェットが嫌がってるでしょ!? いい加減諦めなさいよ!」
「メグ!?」「え!?」
驚き唖然とするラチェットとシーラの間に、メグは割って入ると、ラチェットの手を取った。
「ラチェット、ごめんなさい。あなたが言ってたこと、本当だったのね」
「メグ……?」
ぽかんとするラチェットを無視して、メグはくるりとシーラに振り向き、鋭く睨んだ。
「ラチェットの恋人は、私なの! 突然横から入ってこないでよ! だいたい、一座にいるのが勿体ないって、何なのよ!」
「え、ええと……」
たじろぐシーラに見せつけるかのように、メグはラチェットの首に手を回した。
「私たちの間に入れる隙なんてないんだから!」
メグは吐き捨てるようにシーラに言葉をぶつけると、ラチェットの頭をぐいと引き下げた。
「ちょ……!?」
驚くラチェットの唇に、メグはしっかりと唇を重ねた。突然の出来事に、シーラが、ぽかんと口を開けた。
呆然と見ていたニースは、首を傾げた。
「セラ……メグは何をしてるの?」
セラは顔を真っ赤にして、手で顔を覆っており、答えなかった。
――これって、もしかして何か恥ずかしいことなんだ……。
二人を見てはいけないのだと察したニースは、床を見つめた。
無理やりキスをしたメグは、目を白黒させて固まるラチェットを、なかなか離さなかった。ようやくメグが唇を離すと、ラチェットはフラフラして壁に寄りかかった。
メグは、どうだと言わんばかりに、シーラに胸を張った。
「私が恋人だって、これで分かったでしょ!? これでも、まだラチェットに言い寄るつもり? 泥棒猫は、とっとと消えなさい!」
「え……」
唖然として立ちすくんだままのシーラに苛立ち、メグはさらに眉を吊り上げた。
「まだ分かんないの!? だから……」
「メグ、待って」
さらに言い募ろうとするメグに、恥ずかしさで真っ赤になった顔を両手で覆っていたラチェットが、声をあげた。
「違うんだよ、メグ。シーラさんは、僕を音楽院に勧誘しようとしてただけなんだよ……」
「え……」
気まずそうに振り向いたメグに、ラチェットは苦笑いを浮かべた。ニースは何が起きてるのか、全く理解出来なかった。




