10:羊の気持ち1
前回のざっくりあらすじ:マーサは初めて、ニースの歌を聞いた。
ニースの歌を聞いて以来、マーサは家へ来る度に、歌をねだるようになった。ニースは照れくさく感じたものの、快く引き受け、何度も歌った。
そうして冬を過ごすうちに、ニースの心に残っていた、歌を誰かに聞かれる恐怖感は、徐々に解けて消えていった。
冷たい雪が、暖かな日の光に溶け始める。冬の終わりのある日、マシュー家では何度目かの小さな演奏会が開かれた。
高く澄んだ歌声に、暖炉の前に座るマシューとマーサ、足元に伏せるシェリーも、気持ち良さそうに耳を傾ける。ニースの歌が終わると、マシューとマーサは大きな拍手を送った。
「素敵だったわ! 今日もニースの歌は最高ね!」
マーサに褒められ、ニースは、はにかみながらも、ぺこりとお辞儀をした。マーサは椅子から立ち上がり、ぎゅうとニースを抱きしめた。
「ニースの歌をずっと聞いていたいけど、いい加減仕事をしなきゃならないわねぇ」
名残惜しそうにマーサは言うと、ニースの頭をくしゃりと撫でた。
「お昼を食べたら、また聞かせてくれる?」
「うん。もちろん、いいよ」
ニースは元気よく答えると、マシューに目を向けた。
「おじいちゃん。ぼく、羊のお世話してくるね!」
「ああ。頼む」
ニースはシェリーを連れて家を出る。小さな一人と一匹の背を見送り、マシューは頬を緩めた。
「マーサ。お前さんは、すっかりニースの虜だな」
マーサは、お茶のカップを片付けながら笑った。
「何を言ってるのよ、マシュー。あなただってそうでしょう」
「まあな」
マシューは微笑み頷くと、家の窓を薄く開けた。まだ冷たさの残る春風に乗って、羊舎からニースの歌声が響く。生まれたばかりの子羊が、楽しげにメェと鳴いた。幸せそうな声を聞いて、マシューは目を細めた。
「わしやお前さんだけじゃなく、羊もすっかり虜だよ」
「シェリーもね。働き者のレディを忘れちゃダメよ」
「うっかりしてた。違いないな」
マーサはカップを洗いながら、言葉を継いだ。
「それにね。ニースの歌は鳥にも人気みたいよ」
「鳥?」
「庭に鳩が住み着いてるの、気付いてない?」
「知らんかったな。鳩がいるのか」
「ええ。真っ白で綺麗な鳩だから、雪に紛れて分からなかったのね。きっとあの鳩も、ニースを好きになったんだと思うわ」
「なら、後で巣箱を作ってやるか」
「ふふ。そうしてあげるといいわ」
マシューは外套を手に、台所に立つマーサの背に声をかけた。
「わしは納屋の雪を下ろしてくる。窓は開けとくよ」
マーサは手を止め、微笑んだ。
「あら、ありがとう。歌を聞いてると、仕事が捗るのよね。これで何の力もないっていうんだから、本当にびっくりよ」
「はは。そうだな」
マシューは笑い、家を出る。日の光を浴びて、マシューは胸が温かくなるのを感じた。
――歌というのは、すごいもんだな。力なんかなくても、自然と元気が出てくるようだ。ニースが歌を好きになった気持ちも、よく分かる。歌えるようになって、本当に良かった。
マシューは嬉しさを滲ませて、軽い足取りで納屋へ向かう。雪下ろしは重労働だが、マシューの心はやる気に満ち溢れていた。
冬を越した渡り鳥が、北の大陸へと帰って行く。ニースの歌は、歌い手から教わった石歌だけでなく、鳥のさえずりのように即興で歌うものも多い。冬の終わりを告げる鳥の声と、ニースの歌に耳を澄ませ、マシューは雪を下ろしていった。
淡い緑に、色とりどりの小さな花が揺れる。本格的な春を迎え、牧場は色を変えた。芽を出したばかりの新鮮な草を、羊たちは嬉しげに食む。
春は、羊飼いにとって大事な収穫の季節だ。マシューは、毛刈りの準備を始めた。
「ニース。順番に出してくれ」
「はい、おじいちゃん」
ニースは、柵の中に集めた羊を仕切りで区切り、一頭だけ外に出した。マシューは羊を捕まえると、手際よくハサミで毛を刈り始めた。
ニースは初めて見る毛刈りを、興味津々で見つめた。
「すごく大きなハサミなんだね。嫌がるかと思ったけど、気持ち良さそう」
羊は意外にも、穏やかに身を任せていた。ニースの呟きに、マシューは朗らかに答えた。
「ああ、そうだな。羊も暑かったんだろう」
「そっか。自分で脱げないもんね。涼しくなるから、大人しいんだ」
ニースは感心していたが、毛刈りが終わりに近づいてくると、羊はもぞもぞと体を動かし始めた。
ニースは居ても立っても居られず、声を上げた。
「まだ終わってないのに。動いちゃダメだよ。怪我しちゃうよ」
「羊に言っても仕方ない。少し離れていなさい」
マシューは羊を器用に押さえ込み、手早く刈り上げていく。分厚い毛を脱いだ羊は、マシューが手を離すと、やっとかと言わんばかりに走り去っていった。
ニースは、ぽかんとして羊を見送った。
「おじいちゃん。羊って毛がなくなるとヤギになるの?」
「はは。確かに似てるが、ヤギにはならんよ」
マシューは刈り取った毛を、布の上に広げた。
「ニース。この毛に大きなゴミが付いてるだろう」
「うん。付いてるね」
「手で取れる分は、ここで取ってほしいんだ」
「綺麗にするんだね。その後はどうするの?」
「洗って干すんだ。だから、丁寧にな」
「分かった!」
ニースは丁寧に汚れを取り始める。マシューは毛刈りを続けていくが、羊を押さえ込みながらの作業は重労働だ。一日で終わるはずもなく、マシューは数頭の毛刈りを終えると、ふぅと息を吐いた。
「今日はここまでだな」
「もうおしまいなの?」
「ああ。なかなか骨が折れるんだ」
肩を回すマシューを見て、ニースは立ち上がった。
「ぼくが代わりにやる?」
「はは。そうだなぁ。ニースに頼みたいのは山々だが、もっと大きくなってからじゃないとな」
「そっか……」
しゅんと肩を落としたニースの頭を、マシューはくしゃりと撫でた。
「落ち込まなくていい。ニースが来てくれて、すごく助かってるんだ」
「本当に?」
「ああ。本当だ。何かしたいなら、そうだな……肩でも叩いてくれるか?」
「うん! いいよ!」
ニースは張り切って引き受けた。ニースは小さな手で、マシューの大きな肩を叩く。マシューは嬉しげに目を細めたが、ニースの胸中は複雑なままだった。
――もっとおじいちゃんの役に立ちたいのに。早く大人になりたいな。
幼いニースに出来る事など限られている。ニースは少しでもマシューのためになればと、懸命に肩を叩いた。
羊の毛刈りは、何日にも渡って続けられた。ニースはゴミ取りに精を出しながら、歌を口ずさんだ。ニースの歌に耳を傾け、マシューは毛刈りに勤しむ。マシューは手を動かすうちに、ふとある事に気が付いた。
――ん? こいつは、ずいぶん大人しいな。
いつもなら毛刈りに飽きた羊が暴れ出す頃合いだが、この時は大人しいままだった。不思議に思いながら、マシューは毛刈りを続けていく。羊は気持ち良さそうに目を閉じ、毛刈りが終わるまで、マシューに身を任せていた。
――これはもしや……。ニースの歌を聞いてるから、じっとしてるのか。
マシューは、注意深く羊を見ながら毛を刈っていった。ニースの歌のあるなしで、羊の動きは目に見えて変わった。中には、毛刈りが終わっても歌に夢中で、動かない羊がいたほどだった。
――こいつはすごいな。羊も人間と同じようになるのか。
マシューは感心して、ニースに目を向けた。
「ニース。今度からわしが毛刈りをしている間、歌を歌っていてくれるか」
「いいよ。でも、どうして?」
「羊も、お前さんの歌が好きみたいでな。お前さんの歌を聴いている間は、おとなしく毛を刈られてくれるみたいなんだ」
マシューの言葉を聞いて、ニースは嬉しさに顔を綻ばせた。
――ぼくの歌を、羊も好きになってくれたんだ! ぼくも、おじいちゃんの役に立てる!
ニースは、大喜びで答えた。
「分かった! ぼく、羊さんたちが喜んでくれそうな歌を、いっぱい歌うね!」
ニースは毛刈りの間、マシューと羊のために歌を歌った。嬉しさを乗せて、のびのびと歌うニースの声にマシューは微笑みを浮かべた。
ニースが歌うようになってから、毛刈りの効率は格段に上がった。予定より早く毛刈りを終え、マシューはニースと共に、羊毛を綺麗に洗った。
出来上がった原毛は、フェルトや毛糸へ加工する人々に出荷される。マーサももちろん、マシューから仕入れた羊毛を使い、フェルトを作る。
例年と同じ手法で育てた羊の毛だが、今年の羊毛を買い取った人々は衝撃を受けた。ニースがやって来て初めての出荷となった羊毛は、今まで見た事のないほど、上質の出来だった。
品質の良さに最初に気づいたのはマーサだった。マーサは、大慌てでマシューの家へ来ると、納屋で作業をするマシューに詰め寄り、どこに羊毛を卸したかを問いただした。
「いや、マーサ。どこに売ったかって、いつものところに決まっているだろう。毎年のことなんだから」
「何が毎年のことよ! 今年のは全然違うのよ、気付かなかったの?」
口から泡を飛ばす勢いで、まくし立てるマーサに、マシューは家へと戻りながら、首を傾げた。
「そんなに今年のは良くなかったか? いつもと変わりなく育てたんだが……。もしかして家を空けたのがまずかったか?」
「何言ってんのよ。その逆よ、逆! びっくりするぐらい質がいいのよ。こんな良い毛はなかなかないわ、最高級品質よ!」
マーサは歩きながら、ばんばんとマシューの腕を叩いた。信じられない気持ちと、叩かれた腕の痛みに、マシューは顔をしかめた。
――何をバカな……。
マーサは、嬉しげに問いかけた。
「一体、今年は何をしたの?」
「何って、何もしとらんよ」
「そんなこと言って。餌でも変えたんじゃないの? みんな秘密を知りたがるわよ」
「そう言われてもな。違いなんざ……」
マシューは言いかけて、はっとした。
「もしかして……ニースが羊に歌を聞かせたからか?」
例年との違いといえば、ニースの存在が大きな違いだ。マシューの言葉に、マーサは目を輝かせた。
「きっとそうだわ。ニースの歌を聞いてると、若返ったみたいにウキウキしてくるし。恋をすると肌艶も良くなるんだから、歌を楽しんだ羊の毛が良くなっても、おかしくないわね」
「恋とか言う歳でもあるまいに……」
マシューは苦笑いを浮かべたが、そんな事もあるかと頷いた。
「まあしかし、悩んでばかりいると髪にも良くないと聞くからな。羊たちもきっと似たようなものなんだろう」
「マシュー。あなた本当は今まで一人で辛かったのね。だからあなたいつも帽子を被って……」
「マーサ。人の頭について、とやかく言わんでくれ。それにわしは、まだ禿げておらんわ」
二人は賑やかに意見を交わしながら、裏口の扉を開けた。相槌でも打つように、庭先に住み着いた鳩の、くるっぽーという声が響いた。
マシューとマーサは家へ入ると、テーブルに向かい合って座った。羊毛を買い取った者たちから問われるであろう、品質が上がる秘密について、どう対応していくかを、二人は真剣に話し合った。




