7:新しい家族3
前回のざっくりあらすじ:ニースは、マシューの家に到着した。
*物語の進行上、一部にセンシティブな表現が含まれます。ご注意下さい*
牧場に、夜の帳が下りる。マーサは日が暮れる前に、夕食にと簡単なスープを作って帰っていった。昼に具沢山のシチューをお代わりして食べていたニースには、そのスープとパンだけで充分すぎる夕食だった。
食事を終えて一息つくと、マシューは微笑みを浮かべ、ニースに語りかけた。
「ニース。お前さんは歌というものが大好きだったと、リンドから聞いた。わしは歌い手様のことはよくわからんが、お前さんが歌をやりたい時には、この家や牧場でやってもいいぞ」
ニースは五歳の誕生日から、一度も歌を歌っていなかった。なぜ突然、マシューがそんな事を話し出したのか、ニースは理解出来なかった。
ぽかんとしたニースに、マシューは穏やかに言葉を継いだ。
「伯爵様の家と違って、ここには歌い手様の力でどうこうする珍しいもんは何もない。いくらでも好きにやっていいんだ。ただ、お前さんの秘密がバレると大変だ。町の連中にとやかく言われんよう、家の近くだけでやってくれ」
マシューは、ニースが喜ぶだろうと思いながら話した。しかしニースは戸惑い、顔を歪めた。ニースの浮かない顔を見て、何かおかしなことでも言ってしまったかとマシューは首を傾げた。
マシューは歌を歌うということが、どんなことなのか知らなかった。この世界で道具として存在している歌は、庶民には触れる機会のない特殊なものだ。
マシューは、リンドから歌い手について説明を聞いていたが、実際に歌い手を見た事はない。もちろん歌も聞いたことはなかった。
「すまんな、ニース。わしは歌というものを、見たことがないんだ。何か変なことを言ったなら、教えてくれるか?」
マシューの問いかけにニースは頭を振った。
「ううん。別に変じゃないよ。ただ……」
ニースは申し訳なく思いながら、ゆっくり言葉を継いだ。
「あのね、おじいちゃん……。ぼく、いまちょっと、歌を歌うのが怖いんだ」
誕生日以来、ニースは歌を歌わなくなっていた。誰かに歌うなと言われたわけでも、隠れる必要があったからでもない。悲しい時や辛い時には、いつも歌に助けられてきたニースだが、どんなに泣いても歌おうとは思わなかった。ニースは恐怖で、歌えなくなっていた。
目線を落とし、寂しそうに言ったニースの言葉を聞いて、マシューは、はっとした。ニースが伯爵家を追い出される原因となった事件を、マシューは思い出したのだった。
「ニース。やりたくないなら別に無理はしなくていい。たくさん悲しいことがあったんだ。やりたくなったら、やったらいい。歌というものを嫌いになったわけではないんだろう?」
マシューのいたわるような優しい声を聞き、ニースはゆっくりと頷いた。そして、目に涙を滲ませ、答えた。
「うん。ぼくね、歌うのは好きだったんだ。大好きだったんだ。でもね、誕生日にみんなの前で失敗しちゃったの。緊張したけど、ぼくは上手に歌えたと思ったんだ」
じっと見つめるマシューに、ニースは押し込めていた気持ちを、ぽつり、ぽつりと話した。
「いつも父さ……伯爵さまが、ぼくの歌をほめてくれた。綺麗な歌声だねって言ってもらえると、とっても嬉しかった。ぼく、その時と同じように歌ったんだ。でもね、でもね……」
ニースは言葉を詰まらせ、俯いた。ニースの目から、涙が、ぽたりぽたりと、こぼれ落ちた。マシューは立ち上がり、ニースの頭をわしゃわしゃと撫でた。
――好きだった歌を、これほどまでに怖いと感じているとは……。
マシューは、ニースが話の途中で「父さま」と言いかけた言葉を「伯爵さま」と言い換えたのを聞いて、胸を痛めた。それと同時に、ニースが父である伯爵から、たくさんの愛情を受けていたのだと感じた。
そして、歌のことは分からないが、それだけニースを愛した伯爵に殺されかけた事が、幼い心をどれだけ傷つけたかと思うと切なくなった。
――いつかニースが、悲しみを乗り越えて歌というものを出来る日がきっと来るはずだ。そうでなけりゃ、悲しすぎる。
マシューは何も言わなかった。ただニースのそばにいて、静かに泣き続けるニースを、優しく撫で続けた。たったそれだけのことが、ニースにはとても温かく感じられた。
山陰から、眩い朝日が顔を出す。たくさん泣いたニースだが、爽やかな山の空気に、すっきりと目を覚ました。ニースは、部屋のカーテンを開ける。一面に広がる緑豊かな景色に、ニースは笑みを浮かべた。
――今日から、ここがぼくの家だ。昨日はおじいちゃんに心配かけちゃったから、これから頑張らなくちゃ。
気合いを入れてニースが一階へ降りると、マシューはすでに朝食の準備を終えていた。
「おじいちゃん、おはよう!」
「おはよう、ニース。顔を洗っておいで」
「うん!」
マシューの家は町外れにあるが、幸い水道は通っている。ニースは台所へ向かい、蛇口をひねった。
アマービレ王国では、水道は一般的なものではない。多くの町では井戸や川から水を汲んで使う。しかしクフロトラブラがあるのは、山の麓だ。山の湧き水から取水された水は、傾斜を利用して町の家々全てに通っていた。
町には上水道だけでなく、下水道も整備されている。汚水は、町より標高の低い場所に集められ、堆肥にして使われるのだ。
顔を洗えば、食事の時間だ。ニースは朝食の席で、家や羊飼いの仕事を手伝いたいと願い出た。マシューは、嬉しげに笑った。
「手伝ってくれるか。それなら、まずは家の仕事からだな。そいつに慣れてから、羊飼いの仕事を教えよう。家の仕事は、そうだな……。掃除を頼んでいいか?」
洗濯と料理は、幼いニースには力が足りない。マシューに仕事を任せてもらえると聞いて、ニースは笑顔で頷いた。
「うん! 教えてくれれば、頑張るよ。でも、おじいちゃん」
「なんだ?」
「火起こしも、ぼくがやっていい?」
ニースは火打ち石での火起こしを気に入り、旅の中で覚えていた。マシューの家には、暖炉だけでなく、煮炊きをするための竃がある。ニースの言葉に、マシューは頷いた。
「構わんぞ。だが、火起こしの役は早起きだ。出来るか?」
「うん! ぼく、早く起きるようにするよ!」
瞳を輝かせたニースに、マシューは笑った。
ニースはマシューから掃除の仕方を教わり、熱心に家の仕事に取り組み始めた。だが、ニースに家の仕事を教えたのは、マシューだけではなかった。マシューの家には、度々マーサが訪れていた。
一人暮らしが長いとは言え、マシューは男だ。そしてニースはまだまだ幼い。そんな二人が暮らす家は、どんなに頑張ってもマーサから見ればアラが見えた。
マーサは埃が残っていると言って掃除をし、保存してある食材が傷んで来ていると言って料理をする。マーサが家にやってくると、いつも大掃除のようだった。
ニースは、賑やかなマーサを大好きになった。
「野菜はよく土を落として、洗ってね。剥いた皮も使えるんだよ」
「そうなんだ。わかったよ、マーサおばさん」
マーサの仕事を見ながら、ニースは少しずつ家の仕事に慣れていった。
ニースが家の仕事に慣れると、マシューは羊飼いの仕事も教え始めた。
まだ幼いニースの仕事は、広い牧場の中で羊たちを放牧に適した場所へと連れて行き、はぐれるものがいないように見張ることだった。
「ニース。分からん時は、シェリーに任せてな」
「シェリーに?」
「シェリーはお前さんの先輩だからな」
ニースが羊飼いの仕事をする時は、いつも牧羊犬シェリーと一緒だった。シェリーは先輩として、ニースのことをしっかり助けた。
牧場のすぐそばには森があったが、その境は頑丈な柵で隔てられていた。幼いニースは、森の動物たちが時折茂みから顔を出すのを、柵の隙間から覗き見るのが好きになった。広い空には大きな翼を広げて悠々と鳥が飛ぶこともある。ニースは大自然の息吹を感じながら、羊飼いの仕事を身につけていった。
ニースがクフロトラブラに移り住んで、一ヶ月が過ぎた。秋の終わりを感じさせる風が、山の木々を揺らす。
毛の増えた羊たちと歩いていたニースは、森の中から美しい音色が響くのを聞いた。
――綺麗な声……。鳥の歌?
それは鳥の鳴き声だったが、ニースにはまるで歌を歌っているように聞こえた。
ラース山脈の北には、大海峡を挟んで、ラソプノ大陸という大きな大陸がある。北のラソプノ大陸の厳しい冬に比べれば、ニースのいるアートル大陸の冬は、ずっと過ごしやすい。そのため、冬が近づくと北から渡り鳥がやってくるのだ。
渡り鳥たちは森の中でナワバリを主張する。冬の間、自分たちが食べる食料を確保するために、秋のうちから活動するのだ。それが、ニースの聞いた鳥の歌だった。
鳥の声を聞いたニースは、伯爵家でのびのびと歌を歌っていた時のことを思い出した。
怖くて歌えなくなってしまったが、ニースは歌を歌うことが何よりも大好きだった。ニースは今も、歌を嫌いになったわけではない。ただ失敗が怖くて、歌えなくなっただけだ。
気持ちよく歌うような鳥の声を聞くうちに、ニースの胸の中で、歌いたいという気持ちが大きくなっていった。
ニースは周囲を見回した。
――ここなら、誰もいない。
森に近い放牧地には、牧羊犬のシェリーと羊がいるだけで、人の姿はない。
ニースは、誕生日パーティの時のことを思い返した。
――あの時はたくさんの人がいた。どうして失敗しちゃったのか、今もよくわからないけど……。
自分を愛していたはずの父が豹変した。ニースは、その出来事を思い出すと、今でも怖いと感じる。それでも、歌を歌いたいという気持ちが大きいのを感じた。
――周りに誰もいないし、羊やシェリーは文句を言わない。歌を失敗したって大丈夫……。
ニースは、きゅっと手を握り、自分に言い聞かせた。
ニースは、肩の力を抜いて大きく深呼吸をすると、数ヶ月ぶりに歌を歌った。久しぶりに聞いた自分の歌声は、以前と変わらない鈴のような澄んだ歌声だった。
――歌えてる……。ぼく、ちゃんと歌えてる……!
勇気を出して歌った事で、ニースの胸に溜まっていた恐怖心は、解けるように消えていった。歌を歌うと、体の芯から力が湧いてくるように、ニースは感じた。
――ぼくはやっぱり、歌が好きだ……!
ニースは歌いながら、心の底からそう思った。ニースの歌に応えるように、鳥が鳴く。ニースはまるで、生を受け産声をあげる赤子のように、のびのびと歌声を響かせた。
ニースが意を決して歌い始めた時、マシューは昼食のサンドイッチをニースへ届けようと、放牧地を歩いていた。風に乗ったニースの澄んだ歌声は、マシューの耳にも届いた。
「ずいぶん綺麗な鳥の声だ」
マシューは、歌を聞くのは初めてだ。聞いたことのない声に、珍しい鳥がどこかからやってきたのだと、マシューは思った。
どんな鳥なのかと考えながら足を進めると、羊たちの中で立ち上がり、のびのびと楽しそうに声を出すニースが見えた。
「これは、まさか……」
マシューは、この美しい澄んだ声がニースの声であると気がついた。そして、空へ向かって声を響かせるニースが、心から楽しんでいるように見えた。
まるで鳥の声のように。町に時折やってくる旅の一座が奏でる楽器のように。リズムにのって旋律を奏でるその声が、ニースの大好きな「歌」であると、マシューは悟った。
マシューは歩みを止めて、ニースの歌に耳を澄ませた。歌声は伸びやかで、極上の羊毛のように滑らかだった。ニースの歌を聴いていると、心がポカポカしてきて自分まで楽しくなるようだった。
――これが歌というものか。確かに、天上へと導いてくれるような、美しい声だ。天の導きとニースが言われるのも、頷ける……。
マシューはニースの歌を聞きながら、笑みを浮かべた。
歌い終えたニースは、シェリーが尻尾を振り、牧場の中を見ているのに気付いた。ニースは、シェリーの視線の先に目を向け、はっと息を飲んだ。
――どうしよう、おじいちゃんに聞かれてたかも……。
シェリーが見ていたのは、歩いてくるマシューだった。
今の自分の歌が失敗していたらどうしようか。マシューにまで嫌われてしまうのではないか。ニースの心は、先ほどまでの清々しい気持ちから一転して、暗い不安の色に覆われていった。
今にも泣き出しそうに、困った顔をして固まるニースの姿を見て、マシューは、はっとした。マシューは、ニースが自分に怒られるのではないかと不安に感じていることに、気付いたのだ。
――しまったな。どうしたら、わしの気持ちが伝わるか……。
マシューは、動揺を表に出さないように気をつけて笑みを浮かべた。そしてゆっくりと両手を体の前へ上げると、しっかりと気持ちを込めて拍手をした。
マシューに怒られると思っていたニースは、拍手をされて、ぽかんと口を開けた。ニースは何が起こったのか分からなかった。ニースはこれまで、歌で拍手を受けたことなどなかった。
父ゲオルグでさえ、ニースの歌を褒めることはあっても、拍手などしたことはなかった。ゲオルグにとって、ニースの歌は道具に過ぎず、拍手を送るという考えそのものがなかった。
これは歌への反応として、当たり前のことだった。この世界では、歌は石を使うための道具に過ぎず、娯楽の演奏と同じだと考える者はいなかった。
しかしマシューは違った。マシューはニースの歌を、素晴らしい楽器の演奏のように感じていた。そのためマシューは、自分が怒ってなどいない、むしろ感激したのだという気持ちを伝えるために、ニースに拍手を送ったのだ。
なぜ拍手されているのか理解出来ず、マシューの手を呆然と見つめていたニースは、マシューの顔に視線を移し、ようやくマシューの気持ちに気がついた。
マシューは満面の笑みを浮かべており、自分が拍手を受けるに値する感動を、マシューに伝えたのだとニースは理解した。
ニースは照れくさく、どこか恥ずかしいような気持ちになり、俯いた。
ニースの肌の色は黒いため、顔が赤くなっているかなど、マシューにはわからない。しかしニースが俯く仕草から、恐怖で俯いたのではなく、照れ隠しで俯いたことをマシューは感じ取った。
マシューは拍手をやめ、ふっと柔らかな笑みを浮かべると、ニースにサンドイッチの入った籠を見せた。
「ニース。腹が減ってるだろう。昼飯の時間だ」
マシューは一言も、ニースのことを褒めなかった。それでもニースは、ゲオルグに褒められた時以上に嬉しく感じた。
ニースはサンドイッチを食べ終えた後も、鼻歌を口ずさみながら羊の番をした。マシューがひと月前に願ったことが、無事に叶った瞬間だった。




