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短編集(2000-5000)

自由と尊厳

作者: 紫花子

寒い夜の話です。


「ね、君、そう、ちょうど、そこの君だよ、ね、ね、ね」


 電車を降りると夜だった。いつものことだ。

 そこからはロータリーでバスに乗って、帰るだけだ。


 しかし、今わたしは立ち止まって、駅と駅ビルを繋ぐ歩道橋から、そのバスが発車するのを見送ろうとしている。


 今は冬なので、制服のスカートと靴下の間の素足が、とても、とても寒いのだが、目の前の男はそんなこと考えているはずもない。


 元々、恐ろしく気の利かない男なのだ。


「……久しぶり、ね」


 皮肉を込めたつもりだったけれど、男は「そうだなぁ。久しぶり、うん、久しぶりだなぁ」と何故か嬉しそうに、変哲のないわたしの言葉を噛みしめるように何度も繰り返した。


 二人の横を、人が、どんどん、どんどん流れていく。

 ロータリーへ。或いは、改札の方へ。


 わたし達だけが、そこで、世の中の流れを拒否するように残り続ける。


 まもなく人の往来が無くなって、男が口を開いた。


「なぁ、君」


 この男はちょっと、ちょっと、か、わかんないけど、幾らか、変わっていて、いや、正確にいうと、変わってしまって、わたしのことを名前ではなく「君」と呼ぶ。


 わたしが男を名前で呼ばないのは昔からだし、別に全然不自然じゃないのだけれど、でも、この男は、それこそ昔は名前でわたしを呼んでいたのだ。


 なのに、離れてしまってから、離れると決めてしまってから、「君」と呼ぶようになった。


 もしかして、わたしの名前を忘れてしまったのだろうか。

 まさか、と思いつつも、十分ありあえる。


 だって、本当に、変わってしまったのだ、この男は。



「大きくなったねぇ、うん」


「……成長期は、もうおわったよ」


「いや、そうじゃなくて、大人っぽくなった。なんというか、色っぽくなった。すこしだけ。よかった

じゃないか」


 わたしは口をあんぐり開けて、なんと言うべきか迷って、教科書を詰め込んだ制鞄の角で、男の弁慶を殴ってやった。


「あいたっ」


 ありえない。ありえない、ありえない!


 この男は、どれだけ頭がおかしくなれば、気が済むのだろう。


「ばかー!」


「痛い、痛いっ! ちょっと、落ち着け、妹よ」



 わたしにはかつて聡明で物静かな兄が居た。


 とびっきり頭もよくて、冗談も言えないようなまじめで、人のいうことを何でも聞いて、でもやさしくて、わたしの偉大なる自慢の兄だった。ルックスだってまあまあよかった。


 公立の小学校に通っていたけど、学校の先生に勧められて、塾に通うようになって、中学から県内で一番の進学校に行った。


 そこでもトップになって、男子校だったけど他校の女子からラブレターもバレンタインのチョコもいっぱい貰って、高2の時は推薦で生徒会長になって、そしてついには東大にも合格した。


 自慢の、自慢の兄だった。



 でも、兄は心なしかいつも窮屈そうで、それが確信になったのは兄が突然大学を辞めて、プーになってからだった。


 両親は怒って、泣いて、兄は必死に二人を宥めた。

 それからコンビニ店員のバイトとか図書館のバイトとかして、時間をつぶしていた。


 わたしはこの頃から大好きだった兄と話さなくなった。

 どう接していいか分からなかった。


 程なくして、わたしは兄の部屋で遺書を見つけた。


 しかも、一通じゃなかった。何通もあった。

 ひょっとしてラブレターに匹敵するかもしれないくらいの枚数がクラフトボックスの中に収められていた。


 最初の日付は兄が中学一年生のときで、最後の日付は大学に自主退学届を出した一週間前だった。


 わたしはその恐ろしいクラフトボックスをこわごわと抱きしめて、泣いた。


 聡明で物静かな兄の内なる苦しみを、初めて知ってショックだった。

 そのショックはとてつもない破壊力だった。


 或る日、わたしは偶々早起きして、二階の自分の部屋の窓から、真っ暗な夜明け前の町へ出ていく兄の姿を見送った。


 兄は一度振り返り、生真面目に頭を下げ、歩き出した。

 二度と振り返ることはなかった。


 はじめて自由を手にした兄を見て、わたしはようやく気付いた。


 わたしの、この憧れの視線が兄の首を絞め、兄の動きを封じ、兄の尊厳を踏みにじって、その優しさに付け込んでいたのだ。


 それ以来、男は一度も家に帰らず、わたしは高校生になって、そしてつい先ほど、再会を果たしたというわけだ。


 弁慶の泣き所を押さえながら座り込む男を、止まらなくなったわたしは制鞄も置いて、両こぶしでぽかぽかと殴った。


「痛い、痛いぞー」と言いながら、何故か男は嬉しくて、楽しくて仕方ないというふうに笑った。


「なに、わらっ、てんだ、ばかー」


「君は人を殴ると、泣く癖でもあるのか。実に愉快な性癖だなぁ、君っ!」


 確かにわたしは泣いていた。

 みっともなくぼろぼろと涙をこぼして、わらう男を殴っていた。


 吐き出した息は白かった。


 わたしは両手を下して、男の隣に崩れるように座って、助けを乞うように俯いて男の腕を掴んだ。


 あの日の背中とは比べ物にならないほど、たくましく、生命力に溢れた腕だった。


 かたかたと震える。

 寒い。


 本当に、本当に、寒いのだ。



「なぁ、見てごらん、君」


 兄が指さす先には、ロータリーの向こう、真っ暗な平野にきらきら光る色硝子の欠片をばらまいたような、なるほどなかなかに綺麗な田舎らしい夜景が広がっていた。


 冬の澄んだ空気に、鼻が、つんと痛い。


「綺麗だろう。寒いだろう。痛いだろう。何故だか、わかるか、妹よ」


「……なに、よ」


「それは、な、妹よ。我らがみな生きているからだっ!」


 わたしは息を呑みこんで、腕を掴む力を強めた。


 なんてことを言うんだ、この男は。


 頭上から「あいたたっ」という声が降ってくる。


 なんてこと、なんてこと、あぁ、なんてことを、この、男は。

 また、ぱらぱらと涙がおちた。



「では、兄はもう行くぞ、妹よ」


「え、どこへ。家には、」


「帰らんし、帰れん。俺はまだ少し、外の空気を吸っていたい。いやはや、家族は嫌いではないがね。勿論、君もだぞ、妹よ」


 ゆるりとわたしの腕を解き、男は立ち上がった。

 背が高い。


 やさしい笑顔だった。


 わたしの大好きな、大好きな、聡明で、少々騒がしい、でもやさしい、ただ一人の兄だった。


「では、さらばだ、妹よ。縁があれば、また会おう」


 片手をあげ、あっさりと、行ってしまう。


 嘘でしょう?

 でも背中は遠ざかっていく。夜の闇に、消えていく。



「おにいちゃあん……っ!」



 いかないで、と言おうとしても、声が出なかった。

 わたしの喉からは出たのは、か細い悲痛なそれだけだった。


 それでも兄の人影がゆっくりと振り向き、右手を上げて、大きく手を振った。


 電車のアナウンスやバスのエンジン音に混じって、山彦のようにうっすらと声が聞こえる。


「また会えるさ。この世でただ一人の、俺の妹よ。また会える、俺たちは。生きていればなー!」


 兄の声が、ずっと耳に残って、反響する。


 おかしくって、今まで品行方正だった分だけ、この上なく迷惑で心配な存在となってしまった兄は、この暗い世界をどうやって生きていくつもりなのだろう。


 些細なことにげらげらと笑い、いかにも楽しそうに、生きて、いくつもりなのだろうか。


 どうか、そうであってほしい。


 世の中の辛い事なんて全部どこかに置いてきてしまったような顔をして、ばかみたいに、芝居がかった笑い方をして、誰よりも楽しそうにしていてほしい。

 たとえ、それが兄の下手くそな演技だとしても。


 あぁ、寒い。本当に寒い夜だ。


 このタカラ平原も、夜が明けて、朝になれば、もう少し、暖かくなるだろうか。



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