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すれちがい喫茶シリーズ

すれちがい喫茶へようこそ1 ー切れない絆ー

作者: 前野 巫琴

神出鬼没の不思議な喫茶店のお話。

 私がそのちいさな喫茶店を見つけたのは、ほんの偶然だった。

 ある日、今日はいつもより早く仕事が終わった私は、夕暮れ時のまだ明るい帰り道を上下真っ黒のスーツ姿で人ごみに紛れて歩いていた。人ごみと言ってもまだ世のサラリーマンが行き交う時間帯ではない。ほとんどはスーパー帰りの主婦たちといったところだろうか。

 そう考えれば、私の服装も浮いているように見えなくもない。

 特に大変なことがあった訳でもないのだが、身体的にも精神的にも疲れたような気がして少々うつむきがちにふらふらと帰り道を歩いていた時だった。ふとその店が目に入ったのは。

 一人暮らしをしているマンションからさほど距離もない、閑静な住宅街の中に紛れる簡素な雑居ビル。私もこの土地に住みついてから数年経つが、ほぼテナント募集状態になっているビルとしか認識していなかった。そのビルの地下に続く短い螺旋状の階段の手すりに、黒く塗られた木材に不思議と目を引かれる白い文字で書かれた看板が掛けられていた。


すれちがい喫茶「黒栖(くろす)」 営業中


 はて、こんなところに喫茶店なんかあっただろうかと思いながらも、興味本位で階段下を覗いてみると、灰色のコンクリート壁に似合わぬ真っ黒のアンティークなドアがちらりと見えた。

 時計を見ると、まだ四時過ぎ。最近仕事で疲れっぱなしだし、少しくらいゆっくりしてもいいかと自分へのプレゼントを許した結果、私はその店に入ることにした。螺旋階段を下りてドアを押すと、ちりん、と控えめな音がして、ブラインドが閉められた窓から漏れる暖かな光と居心地がよさそうな店内が一望できた。どことなく違和感はあったが、案外広く見える店内の黒に統一された椅子とテーブルは整えられ、磨かれ、それを特定することはできなかった。お客は誰もいない。

 風鈴にも似た涼しげなベルの音に気がついたのか、カウンターでカップを磨いていた初老の男性がゆっくりとやってくる。

「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ。」

 白髪に白い髭の紳士的な彼が、ここのマスターだろうか。

 私は少し悩んで、夕暮れの日差しが差し込む窓際の角席を選んだ。光が反射する黒いテーブルの上には小さな花瓶に鮮やかな牡丹が飾られている。

「ようこそ、すれちがい喫茶『黒栖』へ。桜井(さくらい)美和子(みわこ)様。」

「え、どうして私の名前……。初対面ですよね? 」

 風のようにさらりと私の名前を言ったマスターを、私は凝視した。

 しかし彼のような初老の男性は大勢いるし、見覚えがない。

「ええ、初対面ですが、私は来店されるお客様の顔を見ただけで、お名前がわかるのです。それに、桜井様が来店されることは事前からわかっていたものでして。」

 眉一つ動かさずに言ったマスターだが、顔を見ただけでその人の名前が分かるとか、私がこの店に来ることをあらかじめ知っていたとなると、なんだか怪しい。私の視線に気がつかないのか、彼はメニューを差し出した。


 すれちがい喫茶「黒栖」 メニュー

・ すれちがいセット《妖》

・ すれちがいセット《魔》

・ すれちがいセット《神》

・ すれちがいセット《歴》

・ すれちがいセット《過去》

・ すれちがいセット《未来》


★ スペシャルすれちがいセット《黒栖》


※すべてのセットにお好きなコーヒーとショートケーキがつきます。


 私は思わずメニューを二回ほど見てしまった。それほどこのメニューは不思議だった。セットしかないのは見逃すとして、下に書いてある《妖》とか《魔》とかは一体何なのか。

 私は今度こそ遠慮なく、マスターに説明を促すように視線をぶつけた。

 彼はその視線に気がついたようだが、これまた眉一つ動かさずに言う。

「これは失礼致しました。桜井様にはこの店についての説明をしておりませんでしたね。当店は少々変わった喫茶店でございまして、色々なお客様がご来店されます。我々人間だけではありません。妖界、魔界、神界、歴史界、過去、未来。あらゆる世界のお客様がいらっしゃいます。当店はあらゆる世界に全く同じ店舗がございまして、どこから入ってもここに繋がるよう、いわばハニカムのような仕組みになっているのです。もちろん窓も、一つ一つ違う世界の風景が映るようになっております。」

 そこまでの説明を聞いて、私は不意にあっと声を出した。私がこの店に入って感じていた違和感――。それは、短いながらも螺旋階段を下りて確かに私は地下にある店に入ったはずなのに、店内にはあるはずのない(・・・・・・・)窓があったからなのである。

 刑事になったつもりで私はブラインドの隙間から半信半疑に外を覗いてみた。すると、夕暮れに照らされて橙色に染まる高いビルが何本も見え、下には模型のように小さい街並みと空をかける無数のカプセルやタイヤのない車のような得体の知れない物体がせわしなく駆けていた。

「桜井様がご覧になっているのは、地上二〇〇階建てビルの九八階にある、すれちがい喫茶『黒栖』三〇世紀支店からの景色でございます。ちなみに隣は魔界第三階層支店、その隣は妖界第六階層支店の風景になっております。」

 だんだんとこの喫茶店が普通ではないことが身をもって感じられてきて、背筋が冷えてきた。さっき見た景色が遠い未来の景色だなんて、すぐには信じられない話であり、耳を疑いたくなる。

 マスターの説明は続く。

「それに、当店はティータイムを楽しんでいただくだけでなく、他の世界の方々とすれちがう、つまり交流するのもお楽しみいただけるようになっております。セットに《妖》や《魔》などと書いてあるのは、その世界の誰かとすれちがうことができるという意味でございます。ただ、誰とすれちがうかはご指定いただけませんので、ご了承くださいませ。」

 私は再度メニューを凝視した。確かに怪しい店には違いないが、異世界の人たちと交流してみるのも悪くないかもしれないと思い始めている自分がいる。

 マスターはこうも付け足した。

「少々お値段は張りますがスペシャルセットをご注文されると、予約という形で日時と人物を指定していただき、その日にすれちがうことができます。こちらは桜井様がすれちがいたい方を指定していただけます。桜井様もあるお客様がスペシャルセットであなたをご指定されましたので、当店に入ることができたのでございます。以上が当店の説明になりますが、何か? 」

 私は声を出す代わりに、首を横に振る。

 ちょうどその時、ベルの音が鳴って新たなお客が来店してきた。妖怪か神様かと胸が高鳴ったが、はたしてそれは人間の女性であった。彼女はマスターに親しげに挨拶を済ませると、私の方へ近づいてきた。

「向かいの席、いい? 」

 どこか見覚えのある女性は、生まれたばかりの小さな赤ちゃんを抱いていた。この人が私を指定した人物なのだろうか。その割に、私はなんとなく見覚えがあるくらいではっきりとした面識はない。

 彼女はマスターを呼んで二人分のアメリカンコーヒーと二十世紀梨(にじゅっせいきなし)のショートケーキを頼み、ついでに店内に流れるBGMのリクエストもした。それは偶然なのか、私が好きな讃美歌だった。

 まもなく、店内に穏やかな前奏が流れ始める。

「びっくりしたでしょ? ここの喫茶店、ちょっと変わっているから。でも闇金とか危ないのが関わっていないことは保証するわ。それにこの喫茶店はあなたにとっても居心地悪くはないと思うけど。」

 彼女は柔らかい笑みを浮かべながら、ぐっすりと眠っている子をそっと撫でた。

「あの、すれちがいの相手に私を指定したのは、あなたですか?」

 私は彼女の笑みと赤ちゃんの寝顔に少し緊張が解けたので、聞いてみた。

 すると、彼女はちょっと悪戯っぽい子供の顔になる。

「そうよ。初めての娘が産まれたから、なんとなく昔の私に会ってみたくてね。いつも仕事仕事で気がいっぱいの、八年前の(・・・・)私に。」

 思わず大きく目を見開いた私を見て、彼女がクスクスと笑った。

 一方私は驚きを隠せない。どこか見覚えがあったものの、まさか自分の前にいるのが未来の自分だとは。この喫茶店が普通ではないことはマスターの説明で理解していたつもりだったが、現実で実感するのはこれが初めてである。しかし、それなら彼女がアメリカンコーヒーと二十世紀梨のショートケーキを頼み、私の好みと同じ讃美歌をリクエストしたのもわかる。相手は未来の私で、好きなものも好きな音楽も同じなのだから。

「もうわかったでしょ? 私は八年未来の桜井美和子。結婚したから桜井は旧姓だけどね。」

 まもなく頼んだものが運ばれてきて、コーヒーのほろ苦い香りと二十世紀梨のフレッシュな香りに誘われて、私たちの会話に花が咲き始めた。

 どうやら未来の私は結婚して仕事を辞め、今の街を離れ、初めての娘も産まれ、幸せに生活しているらしい。私も何か話のタネになりそうなことを探すが、彼女に見透かされた通り、仕事仕事でいっぱいの私は仕事に行って帰ってきて寝て……の繰り返しで何も話題がない。そもそも彼女にとって目新しい話題などあるはずはないのだが。

 いつの間にか店内の音楽は交響組曲に変わっていた。

 私の心情に気がついていたのか彼女は言った。

「未来の私が言うのもなんだけど、少しゆっくりした方がいいと思うよ。休暇取って温泉行くとか、森林浴行くとか。仕事好きなのはわかるけど、根詰め過ぎるのもよくないわ。」

 確かに、最近の私は頑張りすぎていたかもしれない。今の仕事は私の夢であったし、ある人の夢でもあった。自らたくさんの仕事を受け持って、残業も惜しまず遅くまで社に残って一生懸命こなしていたが、休暇を取ったのはいつだっただろうか。そう考えると仕事に就いてから二年、まともに休んだ記憶がない。

 それをある意味過去に体験している彼女は、気を利かせて助言してくれたのである。

 近々休みを取って、どこかへ行こう。

 私はこっそり心の中にメモをした。

 突然彼女はカップに残ったコーヒーを飲み干すと、少しぐずりだした娘を抱いて立ち上がった。

「そろそろ帰って夕食の支度をしなきゃ。今日はありがとう、久しぶりに楽しかったわ。なんだか、何もかも知り尽くしている親友と会っているようだった。」

 それは私も同感だ。時計を見ると一時間弱ではあったが、本当に楽しい時間だった。これほどの充実感を味わったのは、ご無沙汰だった気がする。

 私もカップを空けると、バッグを持って立ち上がる。

「私も帰るわ。お言葉通り、家に帰ってゆっくりする。」

 レジカウンターで私は半分のお金を払おうとしたが、彼女はいいと言って取り合わなかった。結局彼女は私の分も含めて会計をし、黒いドアノブに手をかける。それを押す前に私に振り返った。

「言い忘れてた。忘れないでよ、お姉ちゃんのこと。」

 突然言われた私はそのまま固まってしまった。

 そんな私を知ってか知らずか、彼女は少し寂しそうな笑みを残すとドアを押して去っていった。

 店内に一人残された私はしばらくその場につっ立っていたが、ふとあることを思い出し、来店したときのようにカウンターでカップを拭いていたマスターに尋ねた。

「あの、例のスペシャルセットって本当に誰でもすれちがえるんですか? もし、その人がこの世にいなくても? 」

 ピカピカに磨かれたカップを棚に戻したマスターは、優しい笑みを浮かべて言った。

「ええ、もちろん。」

 その答えを聞いた私はすぐにでもそのスペシャルセットを予約しようと口を開いたが、何となく言うまでには至らず、そうですか、と返事をするにとどめて黒いドアノブを押す。

「ありがとうございました。」

 マスターの声を背に外へ出ると、入るときに下りた螺旋階段があって、その先には宵闇に支配されかけた帰り道が見えた。

 悪くない一日だった。


 *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *


それから私は仕事が早く終わった時、決まってあの喫茶店に通っている。最初こそ怪しいと思っていたが、何度か来るうちに私にとって心地よい空間になっていた。

あるときはすれちがいセット《妖》を頼んだ。すれちがったのは女のろくろ首。「うらめしや〜」なんて言って首を伸ばして驚かしてきたときは、本当に胆が冷えた。

またあるときはすれちがいセット《神》を頼んだ。すれちがったのはギリシャ神話から来たという全宇宙を統べた天空神、ウラノス。姿についてはあえて言わないでおく。それより、偉大な神とすれちがってとんでもない失言をしないか正直心配だったがその割に彼は優しかった。だが、頼んでいたのがガラガラヘビのショートケーキだったことに、少々引いた私であった。

また別のときはすれちがいセット《歴》を頼んだ。すれちがったのは戦国時代の暴れ武将、織田信長。アンティーク調の喫茶店には全く合わない鎧をガチャガチャとさせながらやってきたが、その挙句コーヒーではなく日本酒、名物のショートケーキではなく酒のつまみを注文して、饒舌になり、酔い潰れた結果、マスターによって帰されたらしい。

どれもくせ者たちだったがそれなりに楽しかったし、普通の趣味とは違う、なんというのだろうか、いつもとは違った体験、珍体験ができたような気分だった。

今さらではあるが、本当に不思議な喫茶店である。


 *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *


そして昨日、私は喫茶店に行きスペシャルセットの予約をした。

「明日の三時ですね? お相手はいかが致しましょう? 」

マスターは電話帳の何倍もある分厚い本をめくりながら言った。

 私は少しためらったが、まっすぐ彼を見て答える。

桜井(さくらい)永和子(とわこ)でお願いします。」

 マスターは老眼鏡をずり上げながら顔写真付きの薄い紙をめくっていく。そしてさ行のあるページを開いた。

「享年二〇歳、四月生まれの大学二年生、桜井(さくらい)永和子(とわこ)様。この方で間違いございませんか? 」

 私は写真を見る。特徴のある大きな目、顔立ち、優しい笑み。

 あの当時と変わらない、姉の写真だった。

「ええ、間違いありません。」

「ご予約、承りました。明日の三時にお待ちしております。」

 少し緊張した予約を終えた私は帰宅してやることを済ませると、明日に備えてベッドに体を預ける。だがなかなか眠れなくて、ふと窓に目を向けると開け放たれた窓からの風でカーテンが揺れている。

 一瞬。そこに人影が浮かび上がった。

「お姉ちゃん! 」

 しかし体を起こせば、蜃気楼のように揺らめくカーテンの向こうには白い月が淡く浮かぶばかり。

 またか。私はまた幻を見てしまったようだ。この風景を見ると、ある人がそこにいるように錯覚してしまうのは、これが最初ではない。

 それには、今も忘れられない、私が「あのこと」と表現してきた出来事があったからだ。


姉が不慮の交通事故で亡くなったのは私がまだ高校生のとき。

それから一か月少し経ったある日のこと。私は不思議なことに、姉と会うことになる。

その日も私の部屋、いや私と姉の部屋は窓が開けっ放しで涼しい風が吹き込んでいた。

「びっくりしたでしょ? みーは無防備になるとすぐ口開けたままになるから。ほら、今も開いてる。」

居間から戻ってくると、窓辺に腰掛け、私のことを「みー」と呼んで私の口を指さし、クスクスと微笑を漏らす変わらない姉の姿があった。

 対照的に私は驚きを隠せなかった。それに今思えば心霊現象だったのだ。だが私は目の前にいるのが幽霊とはいえ、「元・家族」ということでどこかホッとした安心感があったのを覚えている。

 突然逝ってしまった姉に語りたいこと、言いたいことがたくさんあったはずなのに、そのときはまったく言葉にできなかった。

 そればかりか結局何をしにわざわざやってきたのかと、ついぶっきらぼうな言葉で言ってしまったが、誰よりも大好きな姉にそんな態度をとってしまったことを今でも悔やんでいる。

「私はいい姉じゃなかったと思うけど、みーのこと心配してたんだ。みーは私にとってすごくいい妹だったし。だから最後に、大好きなみーにさよならが言いたかった。」

 姉の目元には心なしかうっすらと涙が滲んでいるように見えたが、それを打ち消すかのように笑った。

 何か嫌な予感がして、私は「お姉ちゃん、私も……」と途中まで言いかけたのだが、それをさえぎるように姉の声がした。


「バイバイ、みー。」


 私が最後に聞いた、姉の声。

 私が本当に伝えたかった言葉は、言えなかった。


 引き出しに鍵をかけてしまいこんでいた出来事を思い出してしまった私の頬に、一筋の涙が伝う。悲しい気持ちを抱えたままうとうとしてそのまま眠りについてしまったようで朝を迎えた。無論寝起きは最悪。あくびをかみ殺しながら仕事をするというオチがあったのだが、今バッグを抱えてヒールが脱げそうになりながらも必死に走っているのにはまた別の理由がある。愚痴になってしまうのだが、私を仕事詰めの鉄の女だと思っている上司が急に仕事を押し付けてきたのだ。ただでさえ気持ちは軽やかではなかったのに、おかげで早めの二時に早退するはずが、社を出たのは二時半。家まではどう急いでも三十分はかかるので、こうして最寄り駅から走っているのだ。

 普段でさえ約束の時間は嫌でも守っている私だが、今日は特別に特別で、いなくなってからずっと会いたいと思っていた姉と会えるのだ。姉も私に似て時間には厳しい。約束時間を過ぎてしまって帰られてしまっては元も子もない。

 時計を見るとあと五分少々で三時。

 途中で足をひねったがそれでも無我夢中に走り続けた結果、一分前に黒いアンティークなドアの前に着いた。全力で走ったのは本当にいつ以来だろうか。慣れないことをした節々と痛めた足首から鈍い痛みを感じる。

 とりあえずマスターに氷でも貰うか、と考えながら私はドアを押した。もう聞きなれたベルの音がして、暗めの店内からコーヒーの香ばしい匂いが溢れてきた。

「いらっしゃいませ、桜井様。」

 入口に近いレジでお客――黒い燕尾服とマントを身につけた美しい青年の吸血鬼(ヴァンパイア)――の会計対応をしていたマスターが私に声をかけた。

 レシートを発行してそれを受け取った吸血鬼も私に気づいたのか、瞳が異様に鋭く光ったので、私の頭の中に危険のランプが点滅した。そういうときは決まってからまれる確率が高い。私はマスターにだけ軽く会釈をするとその場を離れようとした。が、一歩遅かったようで、肩を軽くつかまれると背筋が凍りついて動けなくなった。

「これはとても美味しそうなお嬢さんだね。これから僕と一緒にお茶でもどうだい? 」

 彼は美青年ではあったが、はにかんだ時に見えた鋭い八重歯が異様な不気味さを醸し出しているのは私だけでなく誰もがわかる。しかも吸血鬼が人間をお茶に誘うときは決まって彼ら独特の欲求不満だということだから気を付けたほうがいいと、いつだかマスターに言われた気もする。

 私は手を払いのけたかったのだが、人間ではないこともあって恐怖が身に染みてきて、全身から血の気が引いていく。どうしようかと必死に頭の中で考えていたのだが、近くにいたマスターより早く助け船を出したのは、あの人だった。

「ちょっと!! 妹に不用意に絡むのはやめてもらえます? 」

 横からスッと細い腕が伸びてきて、私の肩から吸血鬼の手が押しのけられた。横を見ると、思い出にある優しい顔立ちではなく非難と怒りの混じった目で吸血鬼を睨む、姉の姿があった。

 時には男より女のほうが強いというが、今はそういう状況なのだろう。姉の剣幕に押され、吸血鬼の彼は少々勢いをなくしている。

 追い打ちをかけるように、マスターが横から口をはさんだ。

「ドラクレア公爵、店内での強引な勧誘はお断りさせていただいていると前々から申しておりますよね? お守りいただけないようならば、当店の入店をお断りさせていただきますが? 」

 二人に責められ、かわいそうなほどに縮こまった彼は震える声で一言、「じょ、冗談だよ。失敬。」と言ってそそくさと去って行った。

 店内は騒動ですっかり冷めたような雰囲気になってしまったが、マスターが気分転換にとBGMをノリのいいジャズに変えると、また和やかなものに戻る。相変わらず客は妖怪だったり歴史上の人物だったり神様だったりと、いい意味でも悪い意味でも十人十色であった。

 それから私は先に来ていた姉と一緒に、窓側の二人掛け席に落ち着いている。しかし姉は幾分か不機嫌であるよう。

「まったく、呼び出しておいて遅刻はないんじゃない? 今日はみーのおごりだからね、お・ご・り。」

 黙って話を聞いていたところ、どうやら私に落ち度があったらしい。さっきの騒動もあったのだが、姉が言うには私が店内に入ってきた時点で既に三時を回っていて、二分の遅刻だったようだ。よくよく腕時計を見ると、この店の時計より三分遅れていた。

 あんなに走ったのに遅刻だったのか、と心の中でぼやいたりしてみたが、決して口には出さなかった。先ほども説明したとおり、姉は時間に厳しいので聞かれたら今以上の大目玉をくらうのは目に見えてわかっていたからだ。

 姉の、私に対する説教とも愚痴ともとれる話を聞かされているうちに、頼んでおいた私の二十世紀梨のショートケーキとアメリカンコーヒー、姉の好物である菴羅(マンゴー)のショートケーキと砂糖多めのカフェオレが運ばれてきた。

「それにしてもびっくりしちゃったわよ。見かけない店があったから入ってみたら、神様はいるし妖怪はいるし、揚句の果てに戦国武将と吸血鬼よ? 私普段はとろくて鈍いほうなんだけど、今日ばかりはマスターに説明してもらっても理解できなかったわね。」

 姉はケーキの上にのっていた一切れの大きな菴羅をほおばりながら言う。自分が人よりとろくて鈍いことを一応は理解していたのかと、私は苦笑いであったがそれもまた心の中。顔には一切出さない。

「それは私も同感。私なんかふらーっと入ってみたらマスターは私が来ることを知ってるし、その日に未来の私と会っちゃうし。ほんと不思議な喫茶店だけど、何回か来てみて私ね、この雰囲気嫌いじゃないんだ。さっきみたいにからまれたりもするけど。お姉ちゃんもそうでしょ? 」

 私が心地よい香ばしい匂いを放つアメリカンコーヒーを一口含んで言うと、姉も首を縦に振った。

「まあね。雰囲気は好きだけど、みーはさっきみたいな人には気を付けたほうがいいよ。私に似て、かわいいところあるんだから。」

 少し笑って自信ありげに言った姉に、私は今度こそ本気の苦笑いを浮かべながらショートケーキをすくってつぶやく。

「お姉ちゃん、自意識過剰。」

 その途端に姉はまた不機嫌な顔になって頬をふくらますと、テーブルの上に飾ってある紅色の牡丹の花をつつきながら子供のように拗ねている。

 それがおかしくて、私は思わず笑ってしまった。それにつられて姉も笑った。

 ケーキも半分になってきたころ、コーヒーのおかわりを頼んだ姉が言った。

「それで? なんで高いお金払ってまで呼び出したのが私なの? 」

 肘をついてロングボブの黒髪を流れるように揺らした姉は、私に似た大きな瞳で見つめる。その眼を見た私は途端に、あのとき見た姉の瞳を思い起こし、とっさに目をそらした。

 気持ちを見透かすような、真剣な目。

 あのときのように、また心の中を読まれてしまうのではないかと少し焦っている自分がいる。無意識に窓の外に視線をやる。

 この席の窓に映っているのは、たぶん中世ヨーロッパの街並み。

 ロココ調のドレスや燕尾服に身を包んだ人々がせわしなく行き交う通りにすれちがい喫茶「黒栖」の支店はあるらしい。

「ちょっと! 私の話聞いてる? 」

 姉の声が飛んできて、私ははっと我に返った。

 相変わらず姉の視線は変わらない。

 私が何も言わないのをくみ取ったのか、今度は姉のほうが話し始めた。

「あのこと、覚えてるでしょ? 私がいなくなってどうしてもみーに会いたくて最後に家の部屋で会えた、あのときのこと。」

 忘れない。忘れられるはずがない。

 あのときから私はずっと心の中に何か物足りないような気持ちでいっぱいだったのだから。

 これから先、ぽっかりと空いてしまった穴をどうやって埋めればいいのか。どうしたら悲しい気持ちを忘れて生きていけるのか。そんなことをずっと考えながら過ごしていたら、気付けばもう社会人になっていた。高校生活も大学生活も、なにが楽しかったのかまったく覚えていない。もしかしたら周りが持っていた喜怒哀楽の感情を、私は姉とともに失っていたのかもしれない。

「さよならが言えたあのとき、私はもうみーには会わないって決めていたの。私はもうこの世にいない人で、みーはこれからこの世界で生きていく人。遠くから見守っていることはあっても、またこうして話すことなんてないと思ってた。」

 コーヒーに視線を落とした姉は、少しさびしそうだった。

「本当は会いたかったのにね。もう一度桜井永和子として命をもらって、みーと一緒にいつもの日常に戻れたらいいのに、って何回も思った。でもそれは無理で、毎日機械的な日常を繰り返してるみーを見てね、昔よりあんまり笑わなくなったみーを見ていてね、本当にもう一度だけ、会いたいと思った。そうしたら、この店を見つけたの。」

 私は目頭が熱くなるのを感じた。私も姉を失ったときからずっと、悲しみに埋もれながら同じことを心の片隅で思い続けていたのだから。

 姉も、私も、お互いにもう一度会いたいと思っていた。もう一度だけでいいからと強く願っていたのだ。

 今になって思うが、その思いの強さが互いをこの喫茶店に引き寄せたのではないだろうか。

「私もずっとだよ、ずっと。あのときがお姉ちゃんと会えるのが最後だってわかっていた。でも心のどこかでまた会いたいって、こうしてゆっくり話がしたいって、強く思っていた。あとね、ずっと言いたかったの……。」

 そのあとの言葉は続かない。その感情を抑えられないまま、目からは熱いものが溢れては黒いテーブルに落ちていった。

 悲しい涙ではない。あのときのような初めて大切な人を失った絶望の涙ではなかった。

 もう一度、会えて嬉しい。 

 歓喜の気持ちとともに、あのとき言えなかった言葉を紡ぐ。


「大好きだよ、お姉ちゃん。」


 涙と一緒に笑顔がこぼれた。

 姉は少し恥ずかしそうに顔を赤らめてうつむいた。やがて顔を上げたその頬は、しっとりと涙で濡れていた。

「わかってるわよ、そんなこと。みーはたった一人の自慢の妹。私だって、大好きよ。」

 きっと姉も同じ気持ち。私たちは溢れんばかりの涙を溜めた目と満開の笑顔で見つめ合った。

「きっと神様が私たちをもう一度会わせてくれたんだね、きっと。」

 自分の手で私の目じりをぬぐってくれた姉は、優しい声音で慰めるように言った。

「違うよ、私たちを会わせてくれたのは、マスターだもの。感謝しなければね、すれちがい喫茶に。」

 この店に入ることがなければ、こんなことは起きなかったのだ。

 泣いたのがバレバレである赤い目でカウンターのマスターを見ると、彼は優しく私たちの再会を見守ってくれていた。

 ふと視線を落とすと姉のケーキはすでになくなっていて、私の一口残しておいたケーキの皿もいつの間にか空になっていることに気が付く。

「あ! ちょっとお姉ちゃん、私のケーキ食べたでしょう!! 」

 私がテーブルに思いっきり両手をついて怒鳴ると、姉はにやりと笑って「さあ帰ろ、帰ろ! 」と言って身支度を整える。

 姉に対する許せない気持ちを抱えながら、私はレジで少々高めのお金を払った。

「今度から、待ち合わせはすれちがい喫茶でね。」

 当の本人はそう言葉を残すと私に背を向けて出ていった。

 私もまた、ドアを引く。

「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしています。」

 マスターの声を横目に私は外へ出て、短い螺旋階段を上る。

 悲しい気持ちはもうない。「あのこと」をしまってある引き出しに鍵をかけるのも、もうやめた。

 だってまた、私たちは会えるから。

 夕暮れの帰り道を歩き始めた私の背中を、白い文字で書かれた黒い看板が優しく見送ってくれているような気がした。


 *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *


 すれちがい喫茶「黒栖」。

 あなたもゆったりとティータイムを楽しんでみてはいかが?

 ふとした体験が、あなたの人生を変えるかもしれない。


 FIN.






こんにちは。作者の前野巫琴です。

『すれちがい喫茶へようこそ』を読んでいただき、ありがとうございます。


今回は神出鬼没の不思議な喫茶店のお話でした。

執筆当時はテーマが決められていて、私は「ショートケーキ」「ブラック」だったものでして。

真っ先に浮かんだのが喫茶店でした。

すれちがい喫茶「黒栖」の由来ですが、とあるゲーム機ですね。今は誰もが知っているあれです、あれ。「黒栖」は単純にcrossの当て字です。

とっても私情ですが、喫茶店って一人で入ってみたくありませんか?

私はないのですが、一人で入る勇気が出たら大人への一歩かなと思っています。

すれちがい喫茶も興味ありますね。ちょっと楽しそう。


『すれちがい喫茶へようこそ』ですが、シリーズものにする予定ですのでお楽しみに。

気長に、と書き加えておきます。

これにてあとがきを締めさせていただきます。ありがとうございました。


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[良い点] 「出会い喫茶」ではなく、「すれちがい喫茶」と云う命名が何か私達が日常的に待ち合わせて会える感覚と違い良かったです。 人には大なり小なり、やり直したい後悔があり、「こんなお店が有ればいいな」…
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