86. 皇帝ヨハンの形代
――やあ、ヨハン。今日は一段と憂鬱そうだ――
「ロキ? 今は儀式の……。そうか、もう始まったのか」
皇帝ヨハン=シュトラウスを呼ぶ声に振り向くと、そこにはおぼろげに霞むゲニウス・ロキが立っていた。
儀式が始まり、これまでの肉体を離れたのだろう。
――無力さに打ちひしがれ、それでも民の幸福を望む。やはり君は『ヨハン』だね――
嘲るような、けれどどこか懐かしむようなロキの声。
不自由な肉の体から解放されても、帝都に『ヨハン』がいる限り、ゲニウス・ロキは古の契約に縛られ続ける。
「『再誕の儀』は好きになれぬが、今のお前は嫌いではない」
――力を使っても器が壊れる心配がないからかい?――
ゲニウス・ロキが力を使うほど、その仮初の肉体は損なわれ、寿命は短くなっていく。肉体が使い物にならなくなれば、新しい肉体として帝都の民が犠牲になる。
『再誕の儀』とはゲニウス・ロキが新たな肉体に宿る儀式で、儀式の間――、新しい肉体に定着するまでの間だけ、ゲニウス・ロキは本来の精霊の姿に戻れる。
「それもある。だが、ゲニウスは自由が似合うと思ったまでだ」
帝都に恵みをもたらすゲニウス・ロキと、契約の要である『ヨハン』。
これらは帝国に不可欠なものだ。分かり切ったことだというのに、弱音じみたセリフが出たのは、がんじがらめの状態に辟易していたからかもしれない。
――疲れてるね。そうだ、いい所に連れてってあげるよ――
「どこに連れて行くつもりだ?」
――誰より君を支えてくれている人、誰より君を理解している人の所さ――
ゲニウス・ロキのそんな誘いに乗ったのは、皇帝という重圧と孤独から一時でも逃れたい、心情を吐露したいという、誰しもが持つ弱さ故だったかもしれない。
――じゃあ、いこう――
ゲニウス・ロキがそう言った瞬間、皇帝ヨハン=シュトラウスの視界は暗転し、目を瞬いた次の瞬間には、薄暗くひんやりとした地下室に移動していた。
「……ここは?」
初めて来る場所だ。ひんやりと湿気た空気に独特のポーション臭が混じっている。この場所は、もしかして……。
――カタシロの保管施設だよ――
予想通りの解答に、薄暗がりに目を凝らす。
日々の暮らし、将来の不安。現状に対する不満に嫉妬や落胆。帝都中に渦巻く持って行き場のない不の感情を他罰的に押し付ける対象として、皇帝という象徴は最適だ。
絶対の権力者だから表立って糾弾することはなくとも、向けられる負の感情が積もればそれは呪いにも似た悪影響を及ぼす。
そういった悪しきもの、降り注ぐ災厄を肩代わりする形代は、ゲニウス・ロキの言う通り、誰より彼を支える存在だろう。
だが形代は人形だ。道具であり、心を向けることがあってはならない。
形代を案じて政をおろそかにしないために、正体を伏されていることは理解している。
けれど、ずっと興味はあった。形代に選ばれるのは、肉体的な適正に加え、精神性が近い者だと言われているから。皇帝ヨハン=シュトラウスの災厄を引き受ける形代は、誰より彼の理解者足りうる者だからだ。
(一体誰が……)
シュコー……シュコー……シュコー……。ピタ、ポタ、ピタ、ピタ……。
耳慣れない機材が稼働する音がする。
足元灯の並ぶ暗い廊下の先から、青白い光が漏れている。
(おそらくあの部屋だ。あそこに余の形代がいる)
その時の彼は、皇帝を冠するのには、余りに心が脆弱だった。
帝国のため、より大勢の民のため。少数の民を、そして自分の心さえ犠牲にすることができたなら、形代に会いたいだなどと思わなかっただろうに。
彼の災厄を身代わって、彼以上に苦しんでいる形代にすがろうなどと、思わなかったはずなのに。
光の漏れる部屋へと進む皇帝ヨハン=シュトラウス。彼にゲニウス・ロキの呟きは届いただろうか。
――君は抗えない。だって、君は無力で弱いから。だからこそ、君は『ヨハン』なのだから――
青白い光の漏れる部屋には、棺のような大きな水槽が置かれていて、その中に彼の形代が横たわっていた。
体から幾つも伸びる管が得体の知れない装置に繋がっている。管の間から見える肌は、魔術的な刻印だろうか刺青でびっしりと覆われている。使っている薬液はポーションの一種なのだろう、常に体のどこかが破れては瞬時に癒されているようだ。そのサイクルが余りに早いから、一点をじっと見ていなければ、薬液のどこかが一瞬赤く濁るようにしか見えない。
常時痛みに苛まれているのだろうに、すでに感覚はマヒしているのか、時折りビクビクと痙攣する以外に動く様子はない。
「ああぁっ!」
皇帝ヨハン=シュトラウスの口から、嗚咽のような悲鳴が漏れる。
見なければ良かったと、会いたいと思うのではなかったと、形代を前に彼は思った。
想定外の先帝の崩御。
先帝の形代――、迷宮都市の錬金術家アグウィナス家から選ばれた形代は、稀に見る出来の良さで、普通では耐えられない損傷にも、まるで心がないかのように耐えていた。
その形代が崩壊したのが3年前の冬。前例を見ない急激な崩壊だったという。
形代を失った先帝はたやすく狂い、その資格を失った。
その時に、他の候補者に先んじて、シュトラウスだけが形代が準備できたその理由。
彼の形代は急ごしらえで、肉体面では形代としての適正は低い。けれど、それらを考慮に入れてもその他の相性が良かったゆえに形代となれたその人物は。
「もっと早くに気付くべきだったのか? それとも、考えずにいただけなのか……」
水槽に横たわる形代。それは、彼の双子の弟、シュトレーヴェだった。
「なぜだ……。なぜ。シュトレーヴェ!」
皇帝ヨハン=シュトラウスはその場に崩れ落ち、嗚咽のような声を漏らす。
水槽の中の弟に意識はなく、問いに答える声もない。
不意に、シュトレーヴェの体が引き攣り、肉が裂けて血が噴き出した。
これは悪意だ。皇帝に向けられた、民たちの小さな悪意の集積だ。
「シュトレーヴェ! どうして弟がこんな目に。共に帝国の未来を語り合ったのだ。民の幸福を願っていた。帝国に平和と発展と富をもたらすと誓い合ったのだ。余は、余とシュトレーヴェは、この帝国と民のために、ずっと尽くしてきたではないか!」
余りにも理不尽な状況に、皇帝ヨハン=シュトラウスは声を荒げる。
彼は歴代の皇帝の中でも善良な人間で、誠実に政を行う良い為政者であったのに。
「帝都はどこより豊かで、民は飢えることも魔物に脅かされることもなく生きられる。それがどれほどの奇跡か分からぬのか!? 人というのはどこまで欲深いのか!」
ずっと口にできなかった不満。隠し続けていた心の内が言葉になって溢れ出た。
そんな彼の嘆きにゲニウス・ロキが冷ややかに答えた。
――ニンゲンは欲によって動くのではなく、妬みによって動くからだよ――
遥か昔、ヨハンとその民たちがこの地に流れ着いた時は、明日の朝まで命を繋ぐ糧さえなかった。そこから長い時間をかけて、豊かさを手に入れたのだ。
今では孤児でさえ雨をしのぐ軒があり、腹を満たすパンがある。さしたる能力を持たない弱き者でも日々を生きる糧を稼げる。そう言う国になったのに、他人が持っている物ばかりに目をやって、自分が持てずにいることを不公平だと考える。
この国はどんどん豊かになっているのに、満ち足りるを知らない民の心はどんどん貧しくなっていて、不平不満ばかりが増している。
なんて身勝手なのだろう。この国の民も、全てを弟に背負わせた彼自身も。
――彼らは誰かと比較して、足りないものに不満を抱いて、恨んで、妬んで、その原因を全部『ヨハン』のせいにするんだ。そうすれば楽だから。そうすれば自分自身は正しくて、救われるような気がしてくるから。なんて穢れているんだろうね。そうして、その穢れの全てを肩代わったのが君の形代。今この帝都の中で、誰より正しく、誰より罪なく、誰より弱い君の弟だ――
ゲニウス・ロキの言葉が皇帝ヨハン=シュトラウスを打ちのめす。
己の罪、民の罪。その愚かさに、押しつぶされそうになる。
「弟をこんな姿にするために、帝位を志した訳ではない。耐え難きを耐え、無辜の民を犠牲にしてでも帝国を維持してきたわけではない!」
踏みにじった者たちに恨まれるなら、甘んじて受けることもできただろう。だが、彼らをこうして呪っているのは、利益を享受してきた者たちではないか。
「そんな民のために、こんな思いをしてまで、どうしてよい皇帝であらねばならない!」
血を吐くように叫んだ言葉。皇帝ヨハンであることを厭わしく思う気持ち。
それを吐露した瞬間に、ゲニウス・ロキは軽やかに笑った。
そう、朗らかに、解き放たれたかのように、笑ってこう言ったのだ。
――君はもう、『ヨハン』じゃない。民のために全てを投げうった彼じゃない――
「ロキ?」
皇帝ヨハン、いや、今やただのシュトラウスが顔をあげると、そこにロキの姿はなく、ただ青い光だけが明滅していた。





