82.時、来たる
――時が来た!――
その時、大地は歓喜に震えた。
たくさんの偶然と、さらに多くの必然を、何度も何度も積み上げて、けれど実らず朽ち果ててきた。
そんな時間を重ねた果てに、ついに望んだ時が来たのだ。
――全ての駒がこの地に揃い、全ての条件が満たされた――
ゲニウス・ロキは声にならない笑いを漏らす。
今、彼に肉体はなく、あるべき姿に最も近い。
けれど自由には程遠く、捻じ曲げられた契約と大地の間で揺蕩っている。やがて再び肉体という軛に囚われて、契約にがんじがらめにされるのだろう。
それでも今だけは、ずっと自由に動けるのだ。
――さあ、始めよう――
ゲニウス・ロキは両手を広げる。彼の両手はこの帝都のどこにでも届く。
遥か昔、ヨハンと交わした約束を、果たせなかった契約を。
今、新たなる『ヨハン』と成就させるのだ。
■□■
「た、たたた、大変だ! ジーク、ジークっ! あ、今日はいないんだった……」
マリエラのピンチにはいつも颯爽と現れるジークムントが今日は不在だ。
なんたる怠慢と怒ってはいけない。
今日のマリエラの〝大変〟は『マダム・ブラン』のチョコレートショップがリニューアル・オープンしたから行かなくちゃ、というものだからだ。
対するジークはロバートの護衛という名目で出かけている。行き先が『男性向け黄金美容:ハンサム・ブースト』で、ジークも施術を受ける予定なのはもちろん内緒だ。
「ナンナがついて行くなんな」
「んじゃ、オレが馬車を回すわ」
「ナンナ、エドガンさん、お願いします」
ジークがハンサムをブーストしている間、マリエラもマルエラをブーストするのだ!
目的の下らなさはさておいて、朝から出かけたジークが帰ってこないのだから仕方ない。用意された馬車でチョコレートショップを目指したマリエラだったが。
「あれ? こんな場所通ったっけ?」
「うなんな?」
馬車が出立した頃から、帝都では珍しい霧が立ち込めた。
慣れない霧に馬車は速度を落として進んでいたから、とっくに着く頃合いを過ぎても不思議に思わなかったのだけれど、流石に遅すぎると窓の外を見てみると、見慣れたチョコレートショップへの道とはどうにも違っているようだ。
「あのー、エドガンさん。今どの辺ですか?」
「ギクギク! いやー、あの辺? もうすぐ? だと思うんだよなー。あっ、おい、どうした。進め、進め」
どうやら迷子になったらしい。しかもマリエラと話している間に、馬が歩みを止めてしまった。手綱を握るエドガンの命令をガン無視だ。ストライキか。それともどこか具合が悪いのだろうか。
馬の体調を心配したマリエラが馬車から降りた時、聞き覚えのある声が消えた。
――大アタノールに火が入るよ――
「えっ? なに!?」
霧に霞む白い視界に土煙が混じったかと思うと、一緒に馬車を降りたはずのナンナも、馬車さえも姿を消していた。
「ここって……。あれ、ナンナ、エドガンさん? どこに……」
いや、馬車が消えたのではなくて、マリエラが移動したのだ。前にもこんなことがあった。気が付けば一人別の場所にいたことが。
あれは、帝都に来てすぐのこと。
「やっぱり。ここ、『イリデッセンス・アカデミー』の大アタノールのある場所だ」
今は霧で霞んで、ぼんやりと大アタノールと呼ばれる塔の影が浮かんで見えるだけだが、この濃密な《命の雫》は間違いようがない。
マリエラは再びここへ招かれたのだ。だが、一体なぜ……。
その疑問に答えるように、景色さえ霞んで見えない霧の中マリエラの視界が明瞭になり、列を成して大アタノールへと向かう大小の人影が見えた。霧が晴れたわけではない。その証拠にその人影はマリエラの存在に気付いていない。けれどマリエラは、行列の中に見慣れた姿を見つけた。
「……リリアちゃん!?」
マリエラが声を発しても、霧が音を呑み込んでしまって誰も気づく様子はない。駆け寄りたくとも、砂に変わった地面に足を取られて、うまく前に進めないのだ。
大アタノール前の広場に一行が着き、開かれた扉の向こうに消えていくのをマリエラは見守ることしかできなかった。
兄ロキの姿を見つけたリリアの無邪気な笑顔とは反対に、子供たちに向けられたロキの笑顔が、マリエラにはとても悲しそうに見えた。
リリアたちが塔の中に消えていくのを、ただ見守るしかないマリエラ。
「……止めて欲しかったんじゃないの? 私に何を見せたかったの?」
一行を呑み込んで塔の扉が閉まる瞬間、マリエラはロキと目が合い、その声を聞いた。
――この先さ――
(え?)
急に足元が流砂に変わって、呑まれたような感覚がした。





