15.飢餓の蜘蛛
(今の夢、……一体)
この夢も誰かの記憶なのだと思う。けれど随分古い時代のようだ。マリエラも200年前に生まれた人間だけれど、夢でみた服装はそれよりもっと、ずっと昔のことに思える。
記憶の珠を確認しようかとも思ったけれど、昨日は急いで回収したからいくつあるのか分からないし、煤けたものは色も確認していない。だから今さら確認したって何かがわかるわけではない。
「マリエラ、起きたし?」
マリエラの寝ている間、見張りをしてくれていたのだろう。扉の方にいたユーリケが戻ってきた。
「ごめんね、私だけ寝ちゃって……」
「僕は慣れてるし。マリエラの体力が回復する方が重要だし。そろそろ時間だから、何か食べてから出発するし」
ユーリケはずっと起きて見張りをしてくれていたのだろうか。だとしたら、あの夢を見たのはマリエラだけだということになる。
作り置きのサンドイッチを食べた二人の少女は、周囲に十二分に注意を払いながら再びあの扉の前に立った。
毛虫の時のことを思い出し、マリエラはいつでも逃げられるようにクーの背中にしがみ付き、ユーリケがクーに飛び乗れる距離を取っている。
開けた扉から薄暗い廊下に明るい光が差し込んでくる。
「温室……かなにかだし?」
「それにしては、木がバキバキなんだけど」
西の塔の2階は、1階からの吹き抜けで何本もの樹木が茂っているところは、“首飾り”に襲われた南側のエントランスと似た景色だ。けれどその樹木のほとんどが、途中から折れたり倒れているし、よく見ると巨大な蜂の羽だとか、昆虫の脚のようなものが残骸の合間に埋もれている。
吹き抜けになった塔の2階部分は塔の外壁側に沿って半周ほど廊下になっていて、突き当りが下り階段だったのだろうが、完全に崩れ落ちている。廊下の手すりの一本に千切れたロープが絡みついているから、ドニーノはロープで下りた後、破損し上がって来られなくなったのだろう。
3階より上では西の塔からさらに北西の塔へ通路がつながっていたけれど、1,2階はこの西の塔が行き止まりで北西側に繋がってはいないようだ。
壁には大理石だろうか、白く美しい色合いの石材が貼られていて今までの塔の部屋よりずっと明るく見えるけれど、外壁側の広さはこれまでの塔の部屋と変わりない。けれど内壁側は、半円を描くように築かれたガラス張りで倍ほど広く部屋が拡張されている。
マリエラたちの居る2階の中央あたりから上部がドームのような曲線を描く天井になっている。1階部分には水路や噴水も作られていて、樹木の残骸で覆われている様子は廃墟のようで美しい。そこに外を満たす水に拡散した光が降り注ぐ様子は幻想的と言って良い。
室内に生えた植物がことごとく樹木の魔物の残骸で、しかもそのすべてが半ばから折れ、あるいは何か鋭い物で抉られたように切り裂かれていなければ、その美しさに二人は見ほれたことだろう。
「ドニーノさんが戦ったのかな?」
開いた扉の隙間からマリエラとクーも中を覗き込む。
「この倒れ方……ドニーノじゃないし……」
そう言うと、ユーリケはマリエラに静かにするよう合図を送る。
カリカリカリ、カリ、ポリ、シャリ。
何か硬くて薄い物を齧るような、小さな音が部屋の中から聞こえて来たのだ。
その音の出所を探るため、ユーリケは少しだけ扉を開いて西の塔へと滑り込む。
カリ、カリ、パキ……。
そのささやかな物音はすぐに途絶え、代わりに聞こえてきた音は。
「……ジイ、……モ……イ、ヒ……」
(この音、……声!? あの夢の……)
マリエラは扉の隙間から、音の聞こえてくる方向に目を向ける。
その場所、扉からは死角になっていた西の塔の外壁側の白い壁に、こびりついた汚れのように、黒い物が蠢いていた。
“まるで死んだ蜘蛛のようだ”
そのように、見る者は思っただろう。光沢のない、光さえ喰らいつくすような黒いそれから、形状の詳細を知ることはできないけれど、楕円の胴らしきものから細長い脚が上下方向に折れ曲がって生えている様子は、蜘蛛の死骸を思わせた。
恐らく幾本も生えていたであろうその脚は、今は3本しか残っていない。その位置が前後左右に均等でないことから、何本かの脚がもげて失われたのだろう。残った3本のうちの1本も半ばで折れて無くなっていて、まともに残っているのは反対側の2本だけ。
この黒い何かが蜘蛛の魔物であったなら、頭と胸部が一緒になった頭胸部から足が生え、ぷくりと大きな腹部を持つものだけれど、この黒い何かには失われたのかそれとも元から存在しなかったのか、腹部と呼べるものがなく、頭胸部が高さ方向に歪に盛り上がっている。歪な形に見えるのは、その頭胸部が大きく削り取られたり、齧り取られているからだろう。まともな生き物であったなら、たとえ魔物であったとしても生きているのが不思議な損傷状態である。
その頭胸部の下面、壁面との間からぽろぽろとパンくずのようにこぼれているのは、蜂か何かの羽のようだ。先ほどのパリパリという音は、これを喰らう音だったのか。
そして今、喰らうものをなくしたこの黒い蜘蛛は、西の塔に侵入した温かく、柔らかい肉を見つけて歓喜に身を震わせた。
「ヒモジイ」
黒い蜘蛛がはっきりとそう喋った声を、ユーリケもマリエラも確かに聞いた。
次の瞬間、ユーリケに向かって飛び掛かる黒い蜘蛛。その体長は脚を除いた頭胸部だけでも2メートルはあるだろうか。けれどその跳躍は、片側に2本しかない脚では速度も精度もでるものではない。
飛び掛かって来る黒蜘蛛の体の下面側、四本の動物に例えるならば腹側に、大きく切裂かれたような裂け目があり、そこに人間の物を思わせる丸みのある黄色い歯が無数に生えていることに気が付くや、ユーリケは鞭の代わりにポーション瓶を黒蜘蛛へと投げつけた。
「はっ!」
ユーリケが投げたポーション瓶はいともたやすく黒蜘蛛を捉え、当たった衝撃で瓶は割れ中身が黒蜘蛛へと降りかかる。
これは、先ほどマリエラが錬成した毛虫の粘液と虚勢蛙の頬袋から作られたポーション。
空気に触れることでポーションが飛散する速度は加速度的に増加して、飛び散る空気の流れに引き伸ばされるようにポーションは白く細い糸に変わっていく。
四散しながら対象を捕捉する様は、蜘蛛の糸のようではあるけれど、細かく綿か不織布のように面で包み込むさまは、虫の繭を思わせる。
このポーションは捕縛のポーション。あの毛虫は毒毛で攻撃する種で糸を吐いたりはしないけれど、繭を作る種でもある。繭の元になる体液と虚勢蛙の急激に膨らむ性質を合わせて作られたのがこのポーションで、対人、対魔物を問わずに効力を発揮する使い勝手の良いポーションだ。
めったに市場に出回らないのは、毛虫の臓器が大層柔らかく壊れやすいため、目的の素材の入手が難しいからだ。
捕縛のポーションは黒蜘蛛の腹側の裂け目を塞ぎ、脚をからめとって自由を奪う。その上にユーリケの鞭が黒蜘蛛に巻き付き、そのまま床へと叩き付ける。
「ヒモジイ、ヒモジイ、ヒモジイ」
くぐもったように響くその声は、本来口がある場所でなく、黒蜘蛛の腹側、歯の生えた裂け目から聞こえてくるようだ。あの裂け目はこの黒蜘蛛の口なのだ。
「ヒモジイヒモジイヒモジイヒモジイヒモジイヒモジイヒモジイヒモジイヒモジイ」
壁にたたきつけられた衝撃よりも、その身を苛む飢えが強いのか、黒蜘蛛は口をふさぐ繭を食い破り、身に絡まった鞭さえも喰らおうと巨大な口をうごめかせる。
「こいつっ!」
これを自由にするのはまずい。本能的にそう感じたユーリケがもう一度壁に叩きつけようと、鞭を握る手に力を込めたその時。
「ユーリケ、こっちだ。そいつをここへ投げてくれ!」
「ドニーノ! 分かったし!」
ユーリケの真下、1階の廊下を抜けて駆け付けたドニーノが、特に大きな倒木へ黒蜘蛛を投げろと叫んだ。
その指示に従い、力いっぱい黒蜘蛛を投げつけるユーリケ。
べじゃりと潰れるような音を立てて、倒木に激突した黒蜘蛛は、まるでダメージを受けていないかのように、近くにいたドニーノに飛び掛かろうと3本の脚に力を入れる。
「おっと、させるかよ!」
けれど、黒蜘蛛がとびかかるより早く、ドニーノは倒木から作ったのであろう杭を黒蜘蛛に突き刺し、間髪入れず武器であるハンマーを打ち付けて、倒木へ黒蜘蛛を縫い付けた。
再び自由を失った黒蜘蛛は、体を、恐らくその口内を貫通する杭と接する倒木をも喰らおうとするように、ガジガジと底面にある口を動かしている。まるで痛みもダメージも感じてはいない様子だ。
「……こんだけやっても死ねねぇのかよ」
まるで哀れな物を見るように、黒蜘蛛を見下ろすドニーノ。その頭上に、いつの間にマリエラの肩から移動したのか、サラマンダーがぴょいと飛んでぺちょりと落ちる。
「うぉ、なんだ、コイツ」
ドニーノの頭上から顔を覗き込むように頭を下げたサラマンダーが、ドニーノの目の前でぷはっと小さい炎を吐いた。
「火で焼けってーのか?」
視線だけ頭にへばりついたサラマンダーに向けて問いかけるドニーノに、サラマンダーは「キャウ」と返事するように鳴く。
「ドニーノさん、これ使って! 火炎瓶です」
マリエラの投げた火炎瓶を受け取ると、ドニーノは黒蜘蛛へと近づいて、火炎瓶を投げつける。止めとばかりに吐き出されるサラマンダーの炎。
「ヒモジイ……。……モジ……。ヒ……ヒモ……。ア、ア、ァ……」
黒蜘蛛は小刻みに体を震わせながら、炎の中で燃えていく。
(この黒蜘蛛、夢で見た、作物の病魔と飢餓の念の塊だよね……)
マリエラは2階から黒蜘蛛が燃える様子をじっと見つめる。
きっと、遥かな大昔、ある村で作物の病が蔓延し、人々は飢饉に苛まされたのだろう。子供や年寄り、弱い者から死んでいき、人々はその災いを森の奥深くにある精霊の住まう湖で清めた。
あれは、そういう記憶なのだろう。
ならばなぜ、この飢餓の黒蜘蛛はこの場所にいるのか。
その疑問に答えてくれる者はない。ドニーノの頭上にいたサラマンダーは黒蜘蛛のそばに歩み寄り、いつまでも燃え尽きない黒蜘蛛に再び炎を吹きかけて、今度こそ完全な消し炭へと変えていった。
ざっくりまとめ:虫戦終了!