14.災厄の記憶~飢餓~
2になりました。
「まって! もう少し時間を空けてから、お昼ぐらいに入ろうよ」
扉に手を掛けたユーリケを、慌ててマリエラが制する。
「ドニーノさん、ちゃんと昼に来いって言ってた。それって、お昼くらいのことだと思う」
「そう言えばそんなこと言ってたし」
この扉の先に進んだドニーノの忠告だ。
先ほども、不用意に扉を開けて毛虫の魔物に追いかけられたばかりではないか。
二人は昼頃まで近くの部屋で過ごすことにした。
西の塔に一番近い部屋も、やはり錬金術師の工房だった。
書棚に並ぶ本の装丁や布の張られた椅子から、持ち主の裕福さがうかがえる。
極めつけは石の作業台だろう。
錬金術師が使用するスライムの溶解液は、木製の机にかかると焦げたような跡を残してへこんでしまう。金属製だと溶ける上に、スライムの溶解液がかからなくてもすぐに錆びだらけになってしまう。
石で作られた作業台は、錬金術師が使用するスライムの溶解液や様々な腐食性の素材を扱う上で、一番耐久性がいい。
けれど、一辺が1メートルを超えるような石の板など、石材としても高級で、個人が所有するにはかなり高価なものになる。マリエラは全て《錬成空間》で作業をしてしまうから、高価な石の作業台など必要ないが、錬金術師のあこがれの品であるともいえる。
マリエラはキャル様の工房においてある物を見たことがあるだけだ。
(それにしても、この作業台の造り……)
作業台の脚には装飾が施されていて、高価な品だと一目でわかる。
けれど、どうにもしっくりこない。
(石の厚みが一定じゃないんだ……。脚を固めてる石膏? 漆喰? みたいなので調節してるのか。それにこのガラスも、気泡が入ってるし少し色が付いてる)
高価な物が並んでいるはずのこの部屋の品々は、どれも迷宮都市のものにくらべて品質が低い。
(ここは、たぶん……)
マリエラは浮かんだ答えを口には出さず、部屋の窓から中庭の様子を眺める。この部屋の細長い窓からは、中庭と神殿の様子が水の向こうに霞んで見える。
ぽつぽつと、窓の向こうを空気の粒のようなものが流れていく。
まるで風のきつい雨の日に雨粒が風に吹き飛ばされながら、窓を流れていくようだ。
幾筋も幾筋も、窓に斜線を引くように流れていっては、途中で合流して大きな粒に変化する。
幾つか合流して大麦の粒くらいに成長したら、ぷくりと窓を離れて泳ぎ出す。
(あれ、魔物の赤ちゃんだ……)
半透明の魔物の稚魚は、水中を濁らせている淀みを喰らっているのだろうか。窓の外の水はうっすらと濁っていて、半透明の小さな稚魚の行方は知れない。
(本当ならもう直ぐ夜が明ける頃だよね。魔物の稚魚って朝に生まれるものなのかな……?)
そんなことを考えているうちに、うとうとと眠りに落ちそうになるマリエラ。
黒鉄輸送隊で昼夜を問わず魔の森を駆け抜けることに慣れたユーリケならともかく、徹夜で動き回ったマリエラが眠くないはずはない。
「マリエラ、少し休むし。昼になったらちゃんと起こすし」
「うん……」
マリエラはユーリケに促されるまま部屋の長椅子に横たわる。
肩に巻き付いたサラマンダーがぽかぽかと温かい。
長椅子に寝転がり、次々に生まれては泳ぎ去っていく魔物の稚魚の様子を、ぼんやりと眺めているうちに、マリエラはいつしかうとうとと眠りに就いていた。
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深い森の中だった。
木々はこれほど大きかったろうか。
夜はこれほど暗かったのか。
目深にフードを被った一行が、森の中を歩いていた。
フードと言うよりは、布を巻き付けたというべきか。
森を行く人々の服装は服と呼ぶにはあまりに簡素なものだった。
数は20人ばかりだろうか。遠くで吠える獣の声に、頭上を羽ばたくフクロウの羽音に、一行は身を震わせつつ先へと進む。
月光さえも梢が遮り、獣に比べて愚鈍な人々の動きを茂る草が遮る。
魔物に出くわしたのならば、あらがう術はあるのだろうか。
恐ろしい、恐ろしい夜の森。
夜から、森から、魔物から。人々を守ってくれるのは、先頭を行く人物が掲げるランプだろう。
長く火が消えないように材料を選りすぐり丹念に作られた蝋燭は、それだけで炎の精霊への供物となり得る。
現に、ランプの中で蝋燭の先に灯っているのは、小さな炎の精霊だった。
炎の髪をたなびかせ、ランプの中でちろちろと燃える精霊は、大きさからみて随分若い個体らしい。いつまでも変わり映えのしない森の景色にすっかり飽きて、ふわあと退屈そうにあくびをして、その度に炎は揺らいで消えそうになる。
そんな精霊の様子が見えているのかいないのか、ランプを持つ人物は、炎が揺らぐたびに何やら唱えて、精霊の機嫌を必死でとっているようだ。
――つまんない。みんなが辞めとけって言った意味が分かったわ。――
文句を言いつつ、炎の精霊はしっしと何かを追い払うように右手を振る。すると手を振った方向に居た、何匹かの獣が森の中に走り去る。
獣や弱い魔物は炎を怖がる。それは炎に精霊が宿っていて、悪しきものを追い払っているのだとそう信じられている。
この炎の精霊も、文句を言っている割にきっちり仕事はしているようだ。
途中何度か短い休憩をはさみながら、一行は森の奥へと歩き続ける。日が出て姿があらわになると、彼らがひどく痩せこけていて、服とも呼べない布を身に付けていることが分かった。身に付けた武器も金属ではあるけれど、鈍い光を放っていて、とても切れ味が悪そうだ。
彼らは奴隷というわけではないのだろう。
武器も帯びているし、鳥の羽や獣の牙や骨から作られた装飾品まで身に付けている。
これは、とても、とても古い記憶なのだ。
魔法も技術も知識も何もかも発達していない、人々が、精霊の加護に縋って細々と生き延びてきた、そんな古い古い時代の記憶。
途中2人が魔物に喰われ、交戦して重傷を負った1人を置いてきた。
そんな様子をランプの中から見ていた炎の精霊は気まぐれに揺らぐのを止めて、小さく、けれど強い光で彼らを守った。
そうして一行は、ようやく目的地にたどり着いたらしい。
深い森が突如として終わりを告げたそこは、清く美しい湖だった。
そこに流れ込む川もここから流れ出ていく川も見当たらない。大きな水たまりにも思える凪いだ水面は鏡のように周囲の森を映している。
水の出入りは見られないのに、水はとても澄んでいて、水中に沈む倒木の木目さえも数えられそうだ。
そんな湖の中心を、小さな炎の精霊は息を呑んで見つめていた。
――なんて、綺麗。――
そこにいたのは、この湖を司る、水の精霊なのだろう。中性的な顔立ちに、さらさらと流れる雪解け水のような髪。瞳はこの湖の水底を思わせる淡く優しい薄水色。
その佇まいから、炎の精霊よりもずっと昔に生じた力のある精霊に思われた。
水の精霊に目を奪われて、動けずにいる炎の精霊をランプごと近くの岩に残して、人の一行は湖の近くに設けられた簡素な祭壇を清めて供物をささげ、何やら祭事を行い始めた。
先頭を歩いていたたくさんの飾りを付けた者が司祭なのだろう。
何やら祈りの言葉を唱え、何人かが詠唱を引き継ぐ。
後ろに控えていた者は、持って来た荷物の中から、厳重に封がなされた箱を取り出す。
ふたをしても隙間から黒いもやが溢れ出しているのに、人々は気付かないようだ。
炎の精霊も、水の精霊のことも、見えていないのかもしれない。
司祭が箱を受け取りふたを開けると、中には白変し、あるいは黒点が浮かび、虫に食われ、腐り果てたいくつもの作物と、呪術布に包まれた両手の平より大きい何かが収められていた。
――作物の病魔だ。それと……――
炎の精霊は司祭たち一行が危険を冒してここに来た理由を理解した。
「……ジイ……。ヒ……イ……。…………」
黒い靄の囁き声は、司祭たちには聞こえないのだろう。作物を生きたまま腐らせた病魔と、その結果、飢えて死んだ赤子の遺体。その遺体には呪術布で餓死者の怨念を集めて封じ込めているようだ。病魔と人の飢餓の念は混ざり合い、この黒いもやを形作っている。
彼らはここへ、自分たちの村を襲った厄災を祓いに赴いたのだ。
恭しいしぐさで、その黒いもやの溢れる箱を準備してきた小さな船に乗せると、湖へと流す司祭に、炎の精霊は心配そうに水の精霊の方を見る。
力のある清らかな水は穢れを寄せ付けない効果があるし、穢れを受け入れ浄化して、正しく世界に還すのならば、受け入れてゆっくりと世界を循環する水の精霊や森の木々や生き物たちにもできるのだけれど、浄化されるまでの期間、彼ら自身が穢れてしまう。
こういった質の悪い穢れを祓うのは炎の精霊たちの領分なのだ。強い業火で焼いて清めて、何もかもを灰に帰す。力を殺いでしまった後で、ゆっくり世界に還せばいい。もちろんこれほどの穢れを清める力など、小さな炎の精霊に備わってはいないのだけれど。
作物の病魔を乗せた小舟は風もないのに湖の中央、水の精霊の居る場所まで運ばれていくと、底に穴が開いたかのように湖の中に沈んでいった。
「……ジイ……。モジ……イ……。ヒ……」
湖に放たれた黒い穢れは、水の中に薄く散り、いつの間にか集まっていた魚たちについばまれて消えて見えなくなっていった。湖に住まう全ての生き物に広く拡散したのだろう。
「我らが村の厄災は払われたり」
「作物は清められたり」
「苦難は去りき」
口々に唱える人々。彼らは炎の精霊が宿ったランプを再び手に取ると、元来た方向へと引き返していった。
――ねぇ、大丈夫?――
ランプのガラスに手を付けて水の精霊を案ずる炎の精霊。
水の精霊の一息で消し飛ばされそうな小さな炎の精霊に、水の精霊は答えなかったけれど、湖の中に消えていく前に、とても優しい表情で微笑みかけてくれた。