におい
「君、臭いな。外の浴場で風呂に入って出直してきたまえ」
「へへっ、若センセー、すまねぇな」
診察室に座る若い貴族の男の不快げな表情を意にも介さず、中年の男は黄ばんだ歯を見せて嬉しげに笑うと、足を引き摺りながら診察室を出ていった。そのまま診療所の受付に向かい、「風呂に入れってさ」と告げると受付の女性は風呂屋の入浴券を男に渡す。男は杖をついていない手で券を受け取ると、汚れた上着のポケットに入浴券をねじ込む。
その袖口は擦り切れていて、しばらく洗っていないから服も随分と汚れていて、自分でも分かるほどに臭う。
(ついでに洗濯もすっか)
最近の迷宮都市は景気がよくて日雇いの仕事が絶えずあるから、少々懐が温かいのだ。
風呂屋には洗い場もついている。洗濯の道具を借りて自分で洗ってもいいのだが、銅貨数枚支払えば風呂に入っている間に洗濯をしてくれるサービスもある。
風呂上がりのさっぱりとした体で、洗い立てのぴしっと畳まれた服を着るのは、それが着慣れた自分の襤褸であっても随分と気持ちの良い物だ。
長く一人で暮らしてきた男にとっては、誰かの手で洗われ整えられた衣服に袖を通すということは、ひどく真っ当で、上等なことのように思える。
風呂の代金も銅貨数枚程度だが、風呂代に洗濯代、飯代に宿代と重なれば結構な額になってしまう。だからここで入浴券をもらえるのはありがたい。
診療所で治療を行っている若い男は、見るからに貴族といった外見をしている。見た目どころか横柄な言動も、汚いもののように自分たちを見る目も、思い描いた貴族そのものだった。その態度に最初こそ腹を立てた男だったが、後ろには護衛の兵士が控えているし、実際、服も体も汚れているので「風呂入ってねえし、実際きたねぇんだからしょうがない」と開き直っていると、いつの間にやら診療所の近くに風呂屋が建てられ、入浴券をくれるようになった。
どうやらこの若い貴族は、態度や性格ほど悪いヤツではないらしい。
今では、診療所に行くときは、入浴券を貰えるように極力汚れた格好で行くようにしているくらいだ。これは男だけの裏技だと思っていたのだが、同じように考えている者は自分だけではないようで、診療所に通っている他のスラムの住人も、同じ方法で入浴券を貰っている。
風呂屋の入り口で入浴券を渡すと、引き換えに小さな石けんと手ぬぐいをくれる。
石けん、手ぬぐい無しの銅貨2枚安い券もあるのだが、さすがは貴族だ。気前よく、いい入浴券をくれるものだ。石鹸も手ぬぐいも、1回の入浴で使い切ったりしないから、持って帰って普段に使うことができる。
以前より清潔な暮らしをするようになったせいか、それともまともに食えるようになったためかは分からないが、最近は以前に比べて体調もいい。
「随分と脚、生えてきたじゃねえか」
「おう、おめぇか。ご覧のとおりよ」
汚れを落とし、足を引き摺りながら湯船に向かう男に、声を掛ける者がいた。スラムで見知った顔だ。
「前は、引き摺るほどなかったもんなぁ」
「そういうおめえは、最近どうよ」
「おぉ。調子いいぜ。すっかり元通りだ」
指が5本揃った利き手を広げて見せる様子に、「いいなぁ」と男は思う。
確かこの手には、魔物に食いちぎられて薬指と小指がなかったはずだ。残る3本の指ではうまく剣を握れずに、荷運びなどで食いつないでいたのだと記憶している。
男は片脚を太ももの中ほどから失っていたから、ここまで治るのに時間がかかったけれど、こいつは指2本だけだったから、すぐに治って迷宮に潜っている。
「うらやましいぜ」
とても素直な気持ちで、そんな言葉が出た。
「なに言ってんだよ。お前だってもう直ぐじゃねぇか。お前、魔法だって使えるし、脚さえ治れば俺より強えぇじゃねえか。そうだ、脚が治ったらよ、一緒に迷宮に潜ろうぜ」
「おう。ありがとうよ」
うらやましい。そんな風に思えるのは、手を伸ばせば届きそうだと思っているからだ。少々無理をするだとか、何かを我慢するだとかすれば手に入りそうな、近くに見えるものだからこそ、うらやましいと思うのだ。
大金持ちになって豪邸に住むだとか、Sランカーになって名を馳せるなどという、何の実感も伴わない夢物語は、楽しい想像として思い浮かべても、うらやましいと感じたりしない。
手を取り戻したこの男のように、自分ももう直ぐ自分の両足で歩いて迷宮に潜れる日が来ると実感できるからこそ、これほど素直に“うらやましい”と思えたのだと、男は漠然と考えていた。
「冬が来る前に、迷宮に潜りてえな」
ぽつりと男はつぶやく。スラムでは食料の炊き出しもあったから、飢えて死ぬことはなかったけれど冬の寒さはつらかった。雪など降ろうものなら穴の開いた靴から冷たい水がしみ込んで足が凍えて切るように痛い。とっくに失ってしまった脚さえも寒さを訴えるかのように痛んで骨身に染みるのだ。
「大丈夫だろ。でも、治ってすぐの単独行動はやめとけよな。冒険者ギルドで俺らみたいのを集めて職員が付き添って迷宮潜ってくれるのがあっからさ、それ利用するといいぜ」
「へぇ、そりゃいい。そうすらぁ」
そう答えた男は、少々のぼせてしまったと湯船から出る。この脚が治ったら、毎日風呂に入って今よりましな食事と寝床が得られるだろう。
今までは、冬が早く終わることをただ願う以外になかったし、先の不安ばかりが脳裏をよぎり何かに使えそうなゴミクズを集めるような生活だったけれど、今はその心根のあり方さえも変わってきたと感じている。脚を失う前の、あれが欲しい、こうなりたいと希望に満ちていた時の気持ちをほんの少しだけ思い出せる。
食べ物、服、家。そんな物も必要だけれど、欲しい、叶えたいと思う気持ちもまた必要なものなのだと、失われた脚を抱えて冬を過ごした男は思う。
「死なねぇことと、生きてることは一緒じゃねえよな」
「あぁ。ちがいねぇ。こいつは、忘れちゃなんねぇな」
脚を失った男の一言に、指を失っていた男は同意する。
賢くはない自分たちだが、何か大切なことに気が付いた気がするのだ。
スラムの住人たちに、生きる希望や意欲を与えているなど知りもせず、診療所の若い貴族、ロバート・アグウィナスは静かに溜息をついていた。
迷宮の南西側に作られたこの診療所は、迷宮都市のポーション販売益で作られたものだ。怪我で戦えなくなってスラム街に暮らす住人を治療するために建てられた診療所だが、迷宮で怪我を負った者もやって来る。そんな中でもロバートが担当するのは手や足を無くした重症の者たちだ。
特級ポーションは階層主の討伐に欠かせない。材料となる『地脈の欠片』は魔物から稀に採れる物だから、アグウィナス家が100年ほどかけて貯めてきた物があるとはいえ、通院治療可能な者においそれと使うわけにはいかない。
だから、上級クラスのポーションと彼がかつて製造していた『黒の新薬』の技術を応用して、欠損した部位を少しずつ再生する治療をおこなっている。
ロバートがここで治療を始めたばかりの頃は、スラムの人間の汚らしさに辟易したものだ。あまりの不衛生さに、夕食時につい妹キャロラインに愚痴をこぼすと、
「まぁ、不衛生な環境は疫病を招きますわ! そういえば帝都では公衆の浴場なる物があると聞きました」
と言い出して、あっという間に浴場を作ってしまった。
貴族の女性が好む慈善事業かと思いきや、魔の森外周部の村から手ぬぐいを安く仕入れたり、害虫駆除団子の工場のノウハウを利用して浴場で販売する石けん工房を作ったり、迷宮でついた酷い汚れも落としてくれる洗濯サービスを始めたりと、関連業務を手広く広げたお陰で結構儲かっているらしい。
(人間の臭いは落ち着かない)
ロバートの心を落ち着けてくれるのは、本がたっぷりと並べられた書庫の匂いや、湿気てほんの少しかび臭い地下室の匂いだ。
新薬の製造をしていた時も、多くの『材料』と接してきたけれど、彼の鼻孔を刺激するのは、むせ返る血の匂いや、独特の刺激のある薬品の匂いで、彼のいる診療所を訪れるスラムの人間や冒険者たちから漂ってくるものではなかった。
少しすっぱいようなあの臭いは汗の匂いなのだろうか。
診察の為にいやいや触れる彼らの体は熱く、どくどくと脈打っている。
患者の多くは、治療のついでにロバートに治療と関係のない話を聞かせる。
今日、何を倒しただとか、どこそこの料理がおいしいだとか、どこかの店に可愛い娘がいるのだとか。
怪我がよくなってくるにつれ、彼らはみな饒舌になる。
怪我が治ったら迷宮に潜って、たくさん稼ぐのだと。
たくさん稼いで、旨いものを食べるだとか、可愛いあの子に声を掛けるだとか、たくさん金を貯めて、いつか所帯を構えるだとか。家が欲しい、商売がしたい、親を呼んで楽をさせたい。そんな、似たような話を繰り返し聞かせるのだ。
どれもこれも実にくだらない話だと、ロバートは思う。
どれもこれもありふれた、どこにでもあるささやかな願いだ。
魔の森の氾濫から200年、アグウィナス家と錬金術師たちが願い、つないできたのとおなじ、どこにでもあるささやかな願いだ。
怪我の治った者たちは、みんなこぞって迷宮に潜る。
稼ぎの2割は治療費として冒険者ギルド経由で支払われるから、診療所に個別に支払う必要などないのに、治してもらったお礼だと、感謝の気持ちなのだと獲物や採取物の一部を持ってくる。貴族であるロバートが口にはしない魔物の肉だとか、得体のしれない果物だとか、錬金術師ではないロバートには使いようのない薬草だとか。
(不要だと言っているのに。それでも五体満足で顔を出す者はまだマシですが)
折角治してやったというのに彼らのうちの何人かは、大怪我を負って戻って来るし、帰ってこない者さえもいた。
「また迷宮に潜るのですか?」
再び怪我を治してやった冒険者にそう聞くと、「おうよ」と当たり前のように答える。
「心配すんなって、治療費完済するまでは死なねーからよ」
「そんなことを言っているんじゃ、ないのですよ」
この診療所の治療費はどれほど高額だったとしても、稼ぎの2割を完済するまで支払う決まりだ。つまり、死ねば踏み倒せる。診療所の運営費用は、市販されたポーションの利益で賄われているから、ロバート個人にとっては踏み倒されても困ることはない。
なぜ自分がこれほど苛つかねばならないのかと、ロバートは薄い下唇をかみしめる。
こいつらは、怪我をしてスラムにまで堕ちたのに、どいつもこいつも迷宮に向かう。
魔物と相対するのは恐ろしかろうに、怪我を負うのは痛いだろうに、それでも迷宮へと潜っていく。
「だってよ、他にねえもんよ。オレ頭わりぃし、不器用だしよ」
そんなことを言いながら。
(わかっているんだ……)
魔の森の氾濫後の200年、錬金術師たちが、語り伝えたささやかな願い。ロバートや歴代のアグウィナス家当主が叶えたいと願ったそれは、ロバートが治療している人々のそれとなんら変わりがないことを。
(わかっていたんだ……)
ロバートが『材料』にし、殺めてきた者たちも、罪を犯した身の上であっても、彼らと同じ人間なのだと。
今日一日、治療に当たった人々の、人間の匂いがロバートの体に染みついて取れない。
何年も、殺め続けた人々の、血と薬液の臭いがロバートの体に染みついて取れない。
ロバートに癒された人々は、迷宮へと挑み続ける。
その瞳は希望に満ち、失った夢をかなえるチャンスに輝いている。人生を取り戻したものの強かさで、かつて自分たちから全てを奪った迷宮から、富を、幸福を勝ち取るのだと挑み続ける。
ロバートは、そんな彼らを癒し続ける。
周囲は人間の匂いに満ちていて、喧騒が絶えず彼の心は鎮まらない。過去を振り返ることを許さず、未来を臨むいとまを与えない。
まるで砂の楼閣だ。崩れるために築くが如くだ。
高く高く高く高く。天へ至れるはずもないのに、築いては崩れ波にさらわれて彼の下から失われていく。
(五体満足でなくていい。必ず治して見せるから、生きて戻ってきてくれまいか)
診療所へ来なければロバートには手を施しようがない。己の無力さを嘆くロバートが、いつしかそんな気持ちをいだくようになった時、迷宮に潜る冒険者の数は迷宮討伐軍の数をはるかにこえ、魔の森の氾濫以来、最大に達しようとしていた。
何度も怪我をしながら生き残り、痛い目を見て学んだ彼らは、皆一様に慎重で、それぞれの能力に応じた魔物を確実に倒し、富を得るすべを身に付けていた。
ざっくりまとめ:スラムの名もなき人々は人生を取り戻し、ロバートは静かに贖罪の日々を送る





