でんせつのゆうしゃ
思考は巡る。
同じところをぐるぐると。
それが螺旋であったなら、少しづつでも前へと進んでいくのだろうが、この部屋に前進を促すものは何もない。
石の壁と天井と締め切られた扉で構成された箱のようなこの部屋は、換気の魔道具が常時適温の空気を送り込み続けているし、日に三度変わり映えのしない、けれど過不足のない食事が小さな搬入口から運び込まれる。食事を届ける者の顔はわからず、話しかけても返事などは得られない。
窓のないこの部屋は寝室と居間とトイレ、浴室から構成されていて、生活に必要なものは一通り備えられている。けれどあるのはそれだけで、稀に届けられる家族からの手紙や本を除けば、彼の無聊を慰めてくれるものさえありはしなかった。
検閲の墨で塗りつぶされた手紙や、穏やかで無難な書物の類は、彼にとっては物足りないもので、わずかな時間だけ慰めを与えてはくれても、すぐに彼を無限に切れることのない思考の輪の中に引き戻してしまう。
気温も変わらず景色も見えない、日に三度の食事を除けば、時の移ろいを知ることさえかなわない、この時が止まったようなこの部屋で、彼にあるのは取り戻せない過去の思い出ばかりだった。
もしもあの時、もしもあいつが、もしもあれを、もしも、もしも、もしも……
繰り返し過去に思いを馳せながら、起こりえなかった未来を想像することに、何の意味があるのだろうか。
「石目を数えることと、変わりありませんね」
石でさえなぞり続ければ擦り減り形を変えていくのだ。ぐるぐると回り続けた思考の円は、果たして同じ形を描いたろうか。
「呪術師のまねごとをする人物が必要だ」
そんな依頼がもたらされたのは、男がそこへ幽閉されてどれほど時間がたった時だったか。
「わかりました」と従順に応じる男の思考のかたちは、いかなる物であったのか。
それを知ることは誰にもできはしない。
けれど役目を果たした男が、再びこの部屋に戻ることはなく、男の失踪を聞いたウェイスハルトが知らされたのは、『男に届けられた家族からの手紙は、内容がわからぬほどに墨で塗られていた。しかし、男にとってそんな検閲は何の意味もないもので、家族が伝えた迷宮都市の現状を男はすべて理解していた可能性が高い』という諜報部からの報告だった。
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「奴隷の分際で道の真ん中を歩くんじゃねぇ!」
急に響いた怒号に、マリエラはびくりと体を強張らせる。アンバーに店番を、シェリーたちに師匠の面倒をお願いしたマリエラはメルルさんと夕食の買い出しをした帰りだ。一見、おばちゃんと娘っ子の二人連れに見えるのだけれど、周囲には私服の兵士が警備にあたっているからチンピラ冒険者が騒いだところでマリエラに危険はない。
「やれやれ、ここんとこああいう輩が増えていやだね」
ついさっきまでマリエラのとなりでぺちゃくちゃと卸売市場のお買い得商品について熱く語っていたメルルさんは、いつの間にやらマリエラの前に立ちふさがっている。メルルさんは縦にも横にも大きいから、マリエラはメルルさんの陰に完全に隠されてしまっていて、マリエラからは何が起こっているか全く見えない。
「あんなの見たっていいことないよ。さ、とっとと帰って夕飯の支度だ!」
マリエラの肩をつかんでくるりと回れ右をさせるメルルさん。早業だ。ひょい、くるりで半回転だ。物騒な怒号が聞こえてこなければ、「ワンモア! おかわり! もう一回!」とアンコールを送っていただろう。
魔物除けポーションのおかげで新しい人たちが帝都からやって来るようになったのはよいことなのだけれど、少し治安が悪くなった気がする。師匠が来た頃からキャル様は忙しいようで『木漏れ日』に姿を見せていない。キャル様はアグウィナス家の令嬢だから小さいころから護衛もついているし、危ないことなどないのだろうが、こんな騒ぎがある度にマリエラは少し心配になってしまう。
否が応でも耳に入る大声から、どこかの奴隷が絡まれ暴行を受けていることがわかる。道の真ん中を歩いていたという、たったそれだけの理由で。
「メルルさん、衛兵さんに連絡を……」
マリエラは自分の弱さを理解しているし、変に首を突っ込めば周りの人間に迷惑をかけることを理解している。リンクスのことでいやというほど骨身に染みたのだ。けれど罪のない人がつらい思いをしているのに、何もせず逃げることに抵抗を感じてしまう。
そんなマリエラにメルルさんはにっこり笑うと、「大丈夫、もう連絡が行ってるさね。じきにすっ飛んでくるよ」と言って、軽くマリエラの背中を押した。
メルルさんの言葉に安心したマリエラが、その場を離れようとしたその時。
「道は誰の前にも開かれているものですぞ」
なんだか哲学的な言葉が聞こえた。
「なんだ、てめー。そんなひょろいナリでやり合おうってのか? 傘なんぞ持ちやがってチャンバラごっこのつもりかよ」
「おや、面白いことになってきたね。マリエラちゃん、そこの陰からちょっとだけ見ていこうか」
先ほどまでの逃げの一手はどこへやら、メルルさんは露天商の陰にマリエラを押し込むと、隙間から騒動の見物を始めてしまった。
「あれって、グランドルさん!?」
メルルさんと露天商の隙間からマリエラが見たものは、黒鉄輸送隊の盾戦士ことグランドルと彼の後ろに引っ付いて回る奴隷のヌイだった。配達を終えて迷宮都市にもどってきているのだろう。ヌイが抱えた包みからは大きなバケットが何本も飛び出しているから彼らも買い物の帰りなのかもしれない。ヌイはグランドルの後ろに隠れるようにしておろおろと様子をうかがっているが、グランドルは若木のようなスリムな体形なので丸見えなのだ。
(グランドルさんの横幅がメルルさん位あったらしっかり隠れられたのに!)
心の中で失礼なことをつぶやくマリエラ。自分だってかつてはマルエラの名を欲しいままにしたというのに、喉元過ぎれば何とやらとはこのことである。
燕尾服のようなシュッとしたスーツにシルクハット、キュッと細く巻いた傘を携えたカイゼル髭のスリムな紳士、グランドルさんは、「どうやら貴方は道に迷われているようですな」などと、右手で髭を触りつつチンピラ冒険者に話しかけている。
後ろでちょろつくヌイは何かあったらグランドルさんを担いで逃げるくらいの気構えはあるのか、ぷるつきながらも「腹を決めたぜ」と言いたげな顔をしている。ぷるついているのは武者震いという奴だろう。自分だって立派なごろつきなのだから、チンピラ冒険者相手にビビったりはしていないはずだ。たぶん。
そんな一見愉快な二人組を、たやすい相手だと見なしたチンピラ冒険者は、連れの4人に目配せすると、蹴りつけていたどこかの商店の奴隷から離れてグランドルを取り囲んだ。
「そうだぜ、俺らは道に迷って金がねえんだ。わざわざ帝都から来てやったのによ。だから、おっさん、有り金全部おいてけや!」
「ふむ、罪もなく武器も持たない奴隷に絡んでいるかと思えば、騒ぎを起こして主人から小銭をせしめるつもりですかな。そんな手口がこの街で通用すると思っているとは、ずいぶん残念な頭ですぞ」
ふう、やれやれ。そんな言葉が聞こえてきそうな顔で両手をW字に広げるグランドル。長い足を曲げてクロスしているところが、小ばかにしている感じを強く演出している。
これだけわかりやすいポーズなのだ。『馬鹿にされている』とバカでもわかろうというものだ。
「こっ、こっ、こっ、こにょやろう!!!」
「こにょにゃにょにゅ?」
怒りのあまり思わず噛んでしまったチンピラ冒険者をさらに煽るグランドル。常に真面目そうな表情なのだが、にゃ行の五段活用になるほど、チンピラ冒険者は噛みまくってはいない。早口言葉か。紳士な外見に似合わず意地悪な性格とよく回る口を持っているようだ。
「そんなに噛んでねぇー!!!」
チンピラらしく極めて短時間でブチ切れたチンピラ冒険者がグランドルに殴り掛かる。しかし。
「ほいですぞ」
雨傘どうぞ貸しますぞ、と言わんばかりに傘を持った左手をグランドルが突き出すと、チンピラ冒険者は跳ね飛ばされたように反対方向へと飛んで行った。
「なっ、何しやがった!?」
チンピラ冒険者の仲間はやっぱりチンピラ冒険者で、お決まりの台詞の後に「まとめてやっちまえ」だとか言いながら武器を抜いてグランドルに切りかかる。
「危ない! グランドルさん!」
叫びそうになるマリエラの口をメルルさんがウィンクしながらそっと抑える。
「危なくないよ、マリエラちゃん。それにしても。わかりやすい展開だねー。チンピラの世界にはマニュアルでも出回ってるのかね」
いったいどんなマニュアルだ。わかりやすい絡み方、正しいチンピラ語、人目に付かず退場する作法などが書かれたハウ・ツー本か。ビジネス書を購読する類の人間には見えないが。
メルルさんがそんなことを言い終わるより先に、グランドルさんが留め具を外して傘を開く。
「《シールドバッシュ》ですぞ」
まさか、そんなことが。
マリエラの目は真ん丸だ。
グランドルさんが傘を開いて軽く前に押し出されると、傘の風圧に押されたかのように、冒険者たちがまとめて吹っ飛ばされていった。
「ぐわぁ!」
などと、わかりやすい悲鳴を上げて、その辺に倒れてピクリとも動かない。どうやら気絶したようだ。ご都合主義か。
「まさか……、『傘・シールドバッシュ』……」
『傘・シールドバッシュ』。それは子供たちのあこがれ、伝説の必殺技ではなかったのか。ということは最初にチンピラ冒険者を倒した技は、『でんせつのゆうしゃやく』のみ使えるというアンブレラ・ソードに違いあるまい。いや、『さすらいのけんしやく』が持っている妖刀・傘詐欺という線も捨てがたい。
「しゅごい、しゅごいよグランドルさん!」
興奮のあまりマリエラまで噛み噛みだ。露天商とメルルさんの陰から飛び出してグランドルの方へ駆け出すけれど、危険はもう去ったからかメルルさんは生暖かい目で見守るばかりだ。
「グランドルさん! しゅごい!」
マリエラと同じ気持ちで飛び出してきたその辺の子供たちと一緒にグランドルを取り囲み、『ゆうしゃぐらんどる』に熱い眼差しを向けるマリエラ。
「ほっほ。おや、マリエラさん。しょうでしゅかにゃ?」
にっこり微笑んでマリエラに話しかけるグランドル。
いくら盾スキルをもっているとはいえ、その強さは盾の防御力に依存する。盾職のスキルは纏う装備にも影響を及ぼすから、前衛として苛烈な攻撃を受け止める盾職はみな金属の重装な鎧を纏い、防御力の高い盾を装備するのだ。
たとえ魔物の糸で編まれた布であっても、しょせんは布。ハサミで切断できる材質でしかない。特殊な傘であってもしょせんは傘で、雨粒か、もしかしたら雹くらいならば防げるかもしれない程度だ。それを盾に使ったとして、仮にも冒険者をしている男たちの武器攻撃を跳ね返すことなど、普通の盾職にできるものではない。
だから、マリエラとその辺の子供たちが尊敬のまなざしで見つめること自体、おかしいことではないのだが。
「ちょいとアンタ、傘・シールドバッシュに幼児語ににゃんこ言葉は、ちょいとばかし盛り過ぎじゃぁないかい?」
一人冷静なメルルさんの突っ込みに、ようやく我に返ったグランドルはほんの少し恥ずかしそうに髭を引っ張ると、「ほっほ」と笑ってウィンクを返した。
盾紳士グランドル。やたら高位の盾スキルを持つくせに、胃腸が弱く肉や脂が苦手で筋力薄弱。重装な鎧どころか盾職が持つ巨大な盾など重くて装備できない。装備をしたら動けない。だから彼の『盾鎧』には車輪がついていて、ラプトルたちが引っ張ってくれる。
グランドルの盾スキルに守られた装甲馬車は、昔から黒鉄輸送隊の最後尾で追いすがる魔物たちから輸送隊を守ってきた。
そして多分これからも。適材適所というやつである。
ざっくりあらすじ:必殺技! 傘・シールドバッシュ!!!
(傘盾、みんなやったことある……はず。この技のためにグランドルのキャラを決めました。)