蛇の毒牙は
鬱展開注意
「賢明だ」
撤退を指示したレオンハルトだけに、ヴォイドの声が届いた。階層階段に向けて走り出す一団を、逃すまいと赤竜のブレスが襲う。殿を務めるのは盾戦士とディック。赤竜のブレスを逸らし、はじいて護ろうと言うのだ。
赤竜が連続して吐き出すブレスは、慣れてきたのかどんどん間隔を狭め精度を上げている。ディックのミスリルの槍が尽き、盾戦士の盾が溶けて用をなさなくなったとき、すっとヴォイドが赤竜の前に出た。
「お、おい、アンタ」
思わずディックが声を掛ける。先ほど雷帝エルシーを助けた事は理解している。しかしどうやったのかはわからない。こんな階層を火傷一つなく素足で歩くこの男が、普通の市民のはずは無い。
だが、強者独特の雰囲気や、魔道師から感じる魔力のゆらめきをこの男からは感じない。
(どうしたって、一般市民としか……)
ぞわり。そう思った瞬間、全身が総毛だった。これほど熱い階層で。アイス・フィールドをかけられて尚、熱いと感じていたのに。
《虚ろなる隔たり》
ヴォイドの動きはまるで羽虫を追い払うようだと、ディックは思った。
彼が振った手の先に『何か』がすっと広がって、その範囲のブレスは掻き消すように消えていた。
色でたとえるならば白と黒だろうか。純粋な白と純粋な黒。この二つが同時に現れるなど、自然界では余り見られないことで、そして相克の2色が小さな細切れのように同時にあるというのも、違和感しか感じなかった。
そして何より、見ているだけで堕ちていくような、一歩も動いていないのに飲み込まれてしまうような、自分の肉体が裏返ってしまうような、不安で落ち着かない気分になる。
熱量も質量も厚みすら感じさせないその『何か』――これが《虚ろなる隔たり》なのだろうが、其れに触れたとたんにブレスの質量も熱量も無かったように消えたのだ。
「さぁ、早くいこう。余りここにいると、忘れてしまいそうだから」
何事も無かったようにヴォイドはディックをせかす。
《天雷》の爆音から漸く回復したディックの聴力は、その時ようやく、じゅぅ、じゅぅと何かが焼ける音をヴォイドの足元から拾った。
(回復しているのか……)
ヴォイドはこの灼熱の階層にダメージを受けていないわけではない。受けた端から物凄い勢いで回復しているのだ。
(この能力……)
そこまで考えてディックは思考を放棄した。
ヴォイドと目があったのだ。ひどく穏やかそうな顔の男の、いつもは眼鏡に隠されたその瞳は、まるで《虚ろなる隔たり》そのもののように見えたのだ。
「あなた、あなた! どうして。平穏に暮らしたいって、だから私……」
赤竜のブレスを逃れ、階層階段付近の安全地帯に退避する一行。ヴォイドに抱きついて泣きじゃくるエルメラにヴォイドは優しく語り掛ける。
「君のいない人生なんて、退屈で何の価値もないからね。それより、今日はもう帰ったほうがいい」
何処までも迷宮の最深部には似つかわしくない様子のヴォイド。
エルメラの、自分たちの窮地を救った男に声を掛けようとしたウェイスハルトをレオンハルトが制する。安易に声を掛けて良い相手ではないと。
「退避だ。拠点に戻るぞ」
階層階段付近は赤竜が飛んだまま入っては来られない程度には天井が低い。けれど獲物に逃げられ怒り狂った赤竜は先ほどから低空飛行を繰り返し、階層階段のある洞窟入り口にブレスを叩き込んでいる。
『歩く火の山』も近づいていて、何が起こるか未だ予断は許さない。
断腸の思いで撤退を決めたのだ。こんなところで被害を出すわけにはいかない。
一行は最低限の治療だけ行うと、転移魔法陣、地下大水道を経由して基地へと撤退していった。
最下層に集結した迷宮都市の最強戦力が、階層主どころか守護者さえ倒せないまま撤退する。
まるで、レオンハルトが石化の呪いを受けたときのように。
56階層を離れても赤竜の咆哮が聞こえるようだ。逃がさぬと。ここで葬ってくれようと。再びこの地を、迷宮を脅かすことが無いように。
其れは迷宮では良くある現象だ。弱り逃げ出す獲物に追い討ちをかけるように、強い冒険者がいたり冒険者が集まっている階層に通常よりも強い個体が出現するのは。
レオンハルトが石化の呪いを受けたときは、通常はCランクの魔物しか出ない30階層に、Bランクのクラーケンが異常なほど大量に湧いたのだ。冒険者はCランクばかりで人数は数十人ほどもいた。これらを倒しうる魔物として1ランク上のクラーケンが大量に湧いたのだろうと、対処に当たった雷帝エルシーは思っている。丁度海水の階層で、雷魔法との相性は最高だったから簡単にカタがつき、卸売市場はひどく賑わった。
そして今回は。
23階層 常夜の階層にAランクに届こうとする冒険者2名と、強力な魔力を持った錬金術師が偶然にも居合わせていた。
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何が現れたのか、マリエラの目では捉えることが出来なかった。
ただ、そこここにある沢の水がせり上がってマリエラが見上げるほどに大きい何かが何体も出現した事だけはわかった。そして、最も近くに現れたモノがマリエラに向けて腕らしきものを振り下ろそうとした事も。
パァン。
強く跳ね除けるような音がした。
ラプトルだ。体を回転させマリエラに振るわれた腕を跳ね除けたラプトルの尾は、ズタズタに裂けていた。ダメージを受けたのはラプトルだけで、ソレは跳ね除けられた腕をもう一度マリエラめがけて振り下ろそうと動き出す。
「ギャッ、ギャッ」
ラプトルは頭を低くして全く状況についていけないマリエラを掬い上げるように背に乗せると、リンクス達の方へ全速力で駆け出した。
「きゃっ、あうっ」
短距離とはいえ派手に揺れるラプトルの背にうつ伏せでくの字に乗せられたマリエラが振り落とされなかったのは、大量に積み上げたルナマギアの薬草にうまく埋もれたからだろう。追撃する爪がラプトルの尾を半ばから切り落すだけで済んだのは、飛び散る薬草が目くらましとなったからだろう。駆けつけたリンクスとジークの迎撃によって、マリエラは無事二人と合流することが出来た。
「マリエラ無事か!?」
「くそっ、何でこんな浅い場所にデス・リザードが湧くんだよ!」
リンクス、ジークの元にたどり着くなりラプトルからずり落ちるマリエラを、急いでジークが確認する。何処も怪我はしていないようだ。代わりにマリエラを助けたラプトルの尾は半ばから失われ、数秒の短い逃走にも関わらず限界を超えた疲労状態にある。
当然だ。デス・リザードはAランクの魔物だ。生じてすぐの意識があやふやな状態とはいえ、Cランクのリザードマンにすら及ばないラプトルが太刀打ちできる相手ではないのだ。けれどラプトルはマリエラに向けて振るわれたデス・リザードの腕を弾き飛ばし、マリエラを乗せて逃げ延びて見せた。
沢から次々と這い上がるデス・リザード。
リザードマンの上位個体であるはずなのに、退化したようにその背は丸まっていて、手足はひょろりと長い。けれど腕の数は4本もあり、関節は人とも爬虫類とも異なっているのか四つんばいになって這い上がる様は蜘蛛か何かを思わせる。指は分かれておらず手足の先は鎌か槍の穂先のようにとがっているところが一層おぞましさを感じさせる。
顔は話に聞くワニという動物のように口先が長いが、その巨大な口は三つ以上に裂けていて、グアッと裂けるように上下二つに開いたかと思うと、何かを掴むように上下のどちらか、あるいは両方が左右に裂ける。個体によっては六つに裂けているものいて、何かをつかもうとするかのように閉じたり開いたりしている。それが手ではなく頭であると思えるのは、普通ならば耳があるであろう場所に瞳孔が3つも4つもある目が蠢いているからだろう。体色はどの個体も真っ白で、常夜の階層の月光石の光を受けて青白く見える。裂けた口や手足の先は出血しているかのように赤く濡れ光っていて、体の中心に向けて侵食するように白いからだの中を血管が走っているのが見える。
陸に上がったデス・リザードは二本の脚で立ち上がると4本の刃物のような腕をぎらつかせる。この爪が触れただけでラプトルの尾をズタズタにするほど鋭い事を、リンクスとジークは知っている。
「マリエラ、俺らが抑えてる間に階段を目指せ」
リンクスの指示に黙って頷くマリエラ。
自分が役に立たないどころか足手まといだとわかっているから大人しく指示に従う。ラプトルもマリエラを先導するように階段へと進み、その後をジヤも付いていく。
狩るに容易いエモノを逃すまいと飛び掛るデス・リザード。けれどその体を何本もの影の刃が串刺しにし、別の個体はジークの剣がその手足を切り落とす。
「行かせねーよ」
挑発するリンクスに、黙って剣を構えるジーク。相手がBランクのニードルエイプやワイバーンであったなら、このまま倒せ切れたのだろう。けれどデス・リザードはAランクの強敵で、影の刃に串刺しにされた個体はビヂビヂと縫いとめられた肉を引きちぎりながら立ち上がり、手足を切られた個体からは、ズブズブと骨のようなものが延びて切り飛ばされた手足の代わりになっている。
「ハァッ」
デス・リザードが次の攻撃に移る前に切りかかるジーク。一撃、また一撃。打ち込む刃はデス・リザードの刃物のような爪に阻まれて致命傷を与えられない。リンクスも先ほどの個体に再び影の刃をつきたて動きを封じると、そのまま飛び掛って短剣で首を掻き切る。4本腕の攻撃と魔力を乗せた剣で打ち合っていたジークも、再生したばかりのひょろ長い脚へ風の魔法を叩き込み生じた隙を逃さずデス・リザードの息の根をとめる。
1体ずつ2体倒した。Aランクの魔物を倒せたのだ。けれど戦っている間にも湧き出るようにデス・リザードが現れて二人を取り囲む。互いの背を護りあうように背中合わせになってデス・リザードの攻撃を防ぐリンクスとジーク。一対一では倒せても多勢に無勢。二人の剣はデス・リザードを削ってはいるけれど、反撃によって手も脚も無数の傷がついている。このままでは埒が明かず、すべてのデス・リザードを倒すことなどできはしまい。
けれど其れで構わないのだ。マリエラさえ逃げおおせれば。
たとえデス・リザードに囲まれていても、リンクスとジーク二人だけならば離脱するくらいは出来る。それがわかっているのか、ラプトルにせかされながら、マリエラは懸命に走っている。
階層階段まではあと少し。そうあと少しだったのだ。
階段近くの梢の先に小さい沢さえ無かったならば。
「マリエラ!!!」
その叫びはリンクスのものだったのか、それともジークのものだったのか。
ガザガザと6本の手足でマリエラに迫るデス・リザードの動きは、リンクスとジークにははっきりと捉えられるけれど、マリエラには避ける事は叶わない。マリエラとの距離は開いていて、走って駆けつけられる距離でもない。
デス・リザードの鋭い爪の切っ先でマリエラが貫かれる未来しか見えない。
だから、リンクスは、渾身の魔力を篭めて命じたのだ。
《ジヤ、前に出ろ》と。
その命令の意味をジヤは瞬時に理解した。
『身代わりに死ね』
そういわれているのだと。
(コイツはオレを選ばなかった! だからオレはこれほど辛い思いをしているのに! この痛みは! 理不尽は! すべてコイツのせいなのに! なのに! なのに! 身代わりになって死ねってぇのか!!!)
心の中で、どれほど泣こうと叫ぼうと、ジヤに命令に抗う術はない。リンクスの渾身の魔力は、死に抗い立ち止まろうとするジヤの脚を、意思を、完全にねじ伏せている。ジヤの脚はまるで激しくつった時のように酷い痛みを伴いながら意思に反して前にでる。
(ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう)
愚かで哀れで脆弱なジヤに何ができただろう。死ねという命令に逆らうことも出来ず、逆恨みにも等しい恨みを、妬みを垂れ流すしかないこの男に。
(死にたくねぇ、コイツのせいで! コイツの! 全部コイツのせいだってのに! ちくしょう! 死ぬんなら、コイツのせいで死ぬんなら! だったらコイツも……!!!)
ジヤという男に出来たのは。
何の力も持たないマリエラという非力な少女の腕をつかんで、自分より前に突き飛ばすことだけだった。《命令》には逆らっていない。けれどズギリと『呪い歯』が痛む。腹の底から湧き上がる愉悦にも似た黒い気持ちは『呪い歯』の痛みを塗りつぶすようにジヤの精神を塗りこめる。
腕をつかまれ前へと突き飛ばされた瞬間、マリエラは、ジヤの声を聞いた気がした。
「オマエノセイダ」