75.退避
どんどん被害が広がる中、一部の人が気づきます。
この状況のおかしさ、そして広がり方に。
気づく人がいれば、一時的に被害を止めることはできるのです。
「ぶべばっ……ぐぶるぅ!!」
妙にくぐもって濁った悲鳴は、口をうまく開けないから。
仲間が生きていて感動に打ち震えていた救命士が、その仲間に噛みつかれていた。しかも、めいっぱい開けた口で顔面を抉り取るように。
あまりの痛みと混乱に、噛まれている救命士は振り払うこともできない。
「は、離れろぉ!!」
指を食いちぎられて止血中だった救命士が、己の痛みをこらえながら噛みついている仲間を突き飛ばす。
しかしそいつが噛んだ肉を離すことはなく、噛まれた救命士の顔から滝のように血が流れた。
「あ、あわ、わがあああ!!!」
顔面のひどい有様が、他の者の目に晒される。
噛みつかれた救命士は、顔の皮を半分はがされていた。そのうえ、まぶたを破られた下で眼球が潰れている。
これではもう、この救命士は他者を助けるどころではない。
速やかに処置をしなければ、命が危ないかもしれない。
だが、その余裕はなかった。もう救命士の中で無事な者は一人しかいないし、他は処置が必要な怪我を負っている。
そのうえ……同僚を噛んだ血まみれの救命士は、突き飛ばされてしたたかに床に打ちつけられたにも関わらず……すぐにむくりと起き上ったのだ。
他の救命士たちは、それを見て戦慄する。
これは異常だ。普通の人間の反応ではない。あれだけひどく転べば、普通の人間なら痛みとショックでそうすぐに起き上がれないはずだ。
そもそも、あれだけ失血してなお動けるのがまずおかしいのだ。
「クソッ動かせ!」
唯一無事な年配の救命士が駆けつけ、指を噛まれた救命士と両側から支えて顔を噛まれた救命士を避難させる。
後には、立ち上がった血まみれの救命士が残った。
突如おかしくなった血まみれの救命士を前に、社員たちの混乱はさらに加速する。
「あ、ああっ……何で救命士が噛むんだよお!?」
「知るか!そんな事より、あいつも早く押さえつけ……」
とにかくこの場を収めようと指示を飛ばす事務長に、年配の救命士が待ったをかける。
「いや、もうあれには近づかんでください!下手をすれば、もっと多くの肩が被害に遭うかもしれない!」
「じゃあ、どうしろと……?」
年配の救命士は、額に汗を浮かべて部屋の全員に言った。
「逃げてください。
おかしくなってしまった患者さんはひとまず置いて、声が届く人は全員ここから出てまず安全を確保しましょう」
その提案に、社員たちは目を丸くした。
「あんた、この子を見捨てるって言うのか!?」
「そっちの奴は、おまえの仲間だろ!
おまえらは助けるプロだろうが!!」
だが、年配の救命士は苦し気に首を横に振った。
「無理です……この状況はもう、我々の手に負えません。このまま救助を続けようとすれば、さらなる被害が出るでしょう。
この状況は、おかしすぎる。我々の知識と技術で対応できるレベルではない。
誠に申し訳ありませんが、すぐに避難を……失礼!」
いきなり年配の救命士が身を翻し、近くにあったパイプ椅子を掴んだ。そして、ゆっくりと歩み寄ってきていた血まみれの救命士を殴り倒す。
「さあ早く!ここから出て!」
「そんな事言われたって……」
「いや、彼の言う通りにするんだ」
社員たちの混乱を一瞬で押さえつけたその声は、社長の竜也だった。竜也の今までにない恐怖に染まった視線は、血まみれの救命士と傷ついた女を交互に見ていた。
「おかしいんだ、どう考えても……。
君たちは、あの二人の行動が見えないのかね?」
殴り倒された血まみれの救命士は、近くにあった肉片に手を伸ばした。そして、それを自分の口に詰め込んだ。
その肉片がどこから来たかというと、転んだ拍子に彼の口から出たものだ。
元は何だったのかといえば、噛みちぎられた別の救命士の顔の肉だ。
それを血まみれの救命士は再び口に入れ、もごもごと口を動かし始めた。明らかに、噛み砕こうとしている。
一方、机と壁に挟まれて動けない傷ついた女も、もごもごと口を動かしていた。
彼女の口の中にあるのが何なのかといえば、先ほど首を噛みちぎられた救命士の肉だ。
それを彼女はグチャグチャと咀嚼し……ごくりと飲み込んだ。
「とてもおかしな事を……全く、同じことをしているんだよ」
竜也が、わずかな震えを含んだ声で言う。
言われてみればその通りだ。二人とも、他の人間の肉を噛みちぎって、文字通り食べている。
二人の行動は、そっくりだ。
おまけに状況も、そっくりだ。
死んでもおかしくないような怪我をして、脈も呼吸もないと言われて、それでも動いて他人を襲った。
しかも片方は、そうなっていたもう片方に噛まれてそうなった。
「君たちは、薬物により狂気にこんな事ができると思うかね?」
その質問に、社員たちは心の底から凍り付く思いだった。
竜也は現実主義であるがゆえに、現実的な知識と目の前の現実を見て気づいてしまった。今目の前で起こっている現実は、薬物や失血による錯乱では説明できないことに。
二人の人間が、そっくり同じ常識では考えられない状態で極めて特異な行動をしている。二人の接点は、元からそうだった方が全く元気だった方に噛みついたことのみ。
つまり、この状態異常は、伝染したように見える。
そして薬物や失血による錯乱は、決して伝染しないのだ。
「……あああぁ!!!」
竜也の言わんとする事に気づいた途端、社員たちは雪崩を打って逃げ出した。傷ついた女を押さえていた者も机を放り出して、部屋の出口に駆け込む。
そうして正気の社員たちが全員部屋から出るのを見届けて、竜也も退室した。
「ここは、外から鍵をかけられるか?」
「はい、内鍵を半回しにして扉を閉じればそれで……」
救命士たちが逃げ出すと、竜也は事務長に言われた通り部屋に鍵をかけた。これで少なくとも扉が壊れるまでは、おかしくなった者たちは出てこられない。
自分たちの当面の安全は、確保された。
「……何もできませんで、誠に申し訳ありません」
足早にホールへ向かう竜也に、年配の救命士が謝ってくる。
事務長は憎らし気ににらみつけたが、竜也は首を振って言った。
「いや、こちらこそ訳の分からない事に巻き込んでしまって申し訳ない。あれはどうも、常識的な対応で手に負えるものではない。
助けを求める前に気づかなかった、こちらの落ち度もある。
今はとにかく、我々の安全を確保してもっと多くの助けを借りることだ」
竜也と年配の救命士は、分かっていた。
あれは、理由の分からない、常識の通用しないものだと。
だからどうしていいか分からず被害が広がってしまったのは誰のせいでもないし、ここで誰かを責めたとて何も解決しない。
必要なのは安全を確保して、確実な鎮圧のために人手を揃える事。
「僕は、救急車に積んである無線機を持ってきます。
皆で本部に状況を説明し、援軍を呼びましょう」
「ああ、私も警察と警備会社に通報する」
竜也と年配の救命士は、てきぱきとこれからやるべきことを洗い出す。
自分たちだけで手に負えないなら、もっと実効性のある対処ができそうな人の手を借りればいい。少しは状況がましになるはずだ。
そこまで考えて、竜也は小声で事務長に指示した。
「例の若者を部屋から出し、私のところへ連れて来るように」
この状況を表す言葉に、竜也は心当たりがあった。
今は大勢の前では言えないが、非常に嫌な予感がした。




