175.楓の決壊
帰ってきた楓姐さん!
これで勝てる……と思ったら大間違いです。
これまでの度重なる軽い扱いと家族からのとばっちりに、楓の心はついに限界を迎えてしまいます。
帰還した楓が、何よりも欲しがったものは……。
司良木親子と福山親子の戦いは、そうすぐに決着しそうにない。司良木親子は安全重視で相手が疲れるのを待っているし、福山親子は攻めあぐねている。
(ううむ、猛と陽介があいつらを倒せないようなら、やはり私が銃を使って倒すことを考えねばならんか……。
しかしその場合は、先に猛を撃った方がよさそうではあるな。
強い駒だが、あれはもう生かしておくと何をするか分からん……)
竜也は、銃を向けながらそんなことまで考え始めていた。
実際、猛は諸刃の剣であり、この非常時には銃がなければ抑えつけることも難しい奴だと分かった。
そのうえ今の猛は、思い通りにいかなくて最高に荒れている。
ひとたび手綱を緩めれば、どんな風に噛みついてくるか分からない。
さらに、その力は戦うには必要だが逆に逃げて籠って耐えるにはそんなに必要ではない。これからそうするなら、最悪いなくても構わない。
むしろ、いない方がいい。
(いっそ、勝ってもどさくさに紛れて撃ってしまうのもありか……。
どちらにしろ、あちらは決着待ちだな)
福山親子と司良木親子の方は、銃口と目を離せないものの今できることはない。
そんなことより、今は外に転がっている最大の危険を取り除かねば。逃げて籠る戦略を覆しうる、最強の敵を。
自分は動けないながらも、竜也はわずかに残っている戦える社員に指示を出した。
「速やかに、外に転がっている野菊の頭を再び破壊しろ」
今すぐにやるべきこと、それは野菊の復活阻止だ。
野菊に復活されたら建物にこもることもできなくなり、外へ逃げるとなると犠牲を防げなくなり猛も切り捨てられなくなる。
そんな事態を防ぐために、何としても今野菊だけは潰さねば。
幸い、今野菊は無防備だし、周りに死霊の姿はない。
社員たちもそれを分かっていて、すぐに武器を持った二人が一組になって転がっている野菊に向かった。
その時だった……土を蹴る足音が猛烈な勢いで近づいてきたのは。
「お、おい……何か来るぞ!」
もしや別の敵かと、引きつった顔で身構える社員たち。
しかし相手の姿が見えると、社員たちは破顔した。
「楓姐さん……良かった、生きてたんですね!」
赤く禍々しい光の下、軽い足取りで駆け寄ってきたのは、探索に出て敵に襲われ生死不明になっていた楓だ。
「ええ、何とか生きて帰ってきたわよ」
楓は少し息を切らしているが、怪我などはしていない。
頼れる戦力の帰還に、ロビーで震えている人々はどっと沸いた。
「か、楓さんが帰ってきた!これで勝てる!」
猛と陽介が苦戦している中、これほど心強いことはない。楓がいれば、司良木親子などさっきのように軽くひねってくれるだろう。
しかし楓はそんな声など意に介さず、外に出ようとしていた社員を見て尋ねる。
「あら、あんたたち……敵はあっちにいるのに何してるの?」
「ああ、僕たちはそこにいる野菊の頭を潰すために……」
それを聞くと、楓は足下にある野菊を見た。
そしておもむろに持っていたポールの折れて鋭くとがった先端を向け、片足で器用に顎を踏みつけて口を開かせ……一息にポールで突き刺した。
「これで、いいのかしら?
確か、百万円の報酬って言ってたわね」
あっという間のできごとに、社員たちはしばしあっけに取られた。
楓は、固まる社員たちに嫌味たらしく言う。
「何よ、猛に従ってあたしをあんな目に遭わせておいて、報酬だけせしめるつもりだったの?そんなのは許さないわ。
どうして工場内に死霊がいたか、あんたたちもう分かってるんでしょ。命懸けで戦って戻ってきたあたしに、何か言う事は?」
その言葉に、武器を持った社員の何人かが勢いよく頭を下げる。
「ね、姐さん……すみませんでした!!」
楓の態度はふてぶてしいが、誰のせいでこんな目に遭ったかを考えれば責められまい。社員たちは、楓の証言をないがしろにしたことを心の底から後悔して謝っていた。
そして、それは社長の竜也も同じだった。
戦況を左右する大事な証言を嘘と決めつけられたあげく死地に送り出された楓に、頭を下げて謝罪する。
「本当にすまなかった、正しい事を言っている君を信じてやれなくて。
私が愚かだった、あの猛の言うことを信じたのが間違いだった。
それについての償いはできるだけしようと思っているし、もちろん野菊の頭を潰した百万円は君のものだ」
それを聞くと、楓は薄笑いで言った。
「社長さん、お気持ちは分かりましたわ。
実は私、百万円なんかよりもっと叶えていただきたいお願いがありますの。聞いていただけるかしら?」
「ああ、何だね……一応言ってみなさい」
こちらが悪いことは重々分かっているので、竜也は素直に言うよう促す。
楓が報酬以上に何を望むかは分からないが、ここで断ったり後回しにしたりするのは得策ではない。
楓には、早いところ機嫌を直して戦ってもらわなくては。
そんな竜也の心中を見透かしたように、楓は微笑んでいる。
そして、丁寧な口調のまま、はっきりと言い放った。
「私を、猛と離縁させてください。
もちろん陽介の親権は猛に渡しますわ。そうしたら私は、一人でどこへでも行って生きてきます。
もう、あんな家族と共に生きるのはごめんですわ。
そして社長さん、あなたとも、手を切らせていただきます」
その発言に、竜也も社員たちも凍り付いた。
楓の堪忍袋の緒は、とっくに切れている。
楓は、ついに白川鉄鋼に見切りをつけてしまったのだ。さんざん軽く扱われてひどい夫と息子のいろいろなものを被せられて、そのうえ社長も自分より猛を信用して。
楓はもう、白川鉄鋼が支えてくれる未来をも信じられなくなっていた。
「ま、待ちたまえ楓くん!さすがにそれは勝手が過ぎるというものでは……」
竜也は慌てて、楓を諭そうとした。
楓の気持ちは分かる、しかし今それはまずい。それに、陽介のやってしまったことの責任を放棄されては困る。
ロビーにいる人々からも、非難の声が上がる。
「おおいおい、そりゃいくら何でも無責任だ!」
「そうだそうだ。だいたい、おまえが陽介をきちんと育ててれば、そもそも死霊なんか出なかったんだよ!
きちんと責任取れ!!」
しかしその声は、楓の怒りとみじめさに火に油を注ぐばかりだった。
楓の体がプルプルと震え、作り笑いが引きつっていく。
「ふーん、責任ね……じゃあみんな、十歳も過ぎた子供の外出先と持ち物を一から十まで全部チェックするのかしら?
旦那が酒ばっか飲んで家計が苦しくても、その家計の助けになるありがたい子のところへ行くのをやめさせるのかしら?
あの子はいつも都合が悪くなると旦那のところへ逃げていくのに、あたしは殴られるのに、死んでも立ち向かえって言うのかしら?」
楓の目に、みるみる涙がたまっていく。
「これからの生活だってそう。
いくらあたしが報酬をもらったって、あいつに何かと理由をつけて巻き上げられるだけ。それ以前に、いくらもらっても陽介のせいでみんな被害者のところに飛んでいく。
仕事を紹介してもらったって同じだし、あいつは家事を全部あたしに押し付けて稼ぎは自分のが上だって威張り続ける」
楓は、ボロボロと涙をこぼしながら叫んだ。
「もう嫌!!もうたくさんなのよ!!
あんたたちもあたしにそうしろって言うなら、そんな生活に希望を持ってみなさいよ!あんな野郎どもを愛してみなさいよ!!」
積もり積もった楓の慟哭が、赤い夜空にこだました。




