第四話
翼を広げた竜がゆっくり降下する。
石畳の中庭に着地すると、その背に乗っていた若い男がするりと降りた。風除けの眼鏡を首元まで下げながら、鱗で覆われた竜の茶色の肌に手を触れ、金色の瞳に向かって言葉をかける。
傍らでは、今まさに空に向かって飛び立とうとしている灰色の竜の姿。
その光景に、彼は笑みを浮かべる。
と、
「ガイアナ議長!」
うん?と後ろ手を組んだまま振り返る。
若い士官が彼の前に立った。
「こちらでしたか。」
「一日に一回同胞の姿を見ないと落ち着かなくてね。」ガイアナは目を細めて中庭を見渡した。
首筋で束ねた髪は白く、皺も年齢相応に刻まれている。けれど竜を見つめる緑の眼差しは、そして真っ直ぐ伸びた背筋は、六十を超えてなお往年の名騎手が健在であることを物語っている。
「今年は久しぶりに若い乗り手が多いようだが。」
「ええ。現役の乗り手が育てた逸材が来ましたから。」
「現役……ラグレスとダールかね?」
「請われて教えた甲斐があったようです。本当は継続して欲しいと言われているのですが……」
「ラグレスは辺境へ出向中。ダールも議会付きになってしまっては、身動きがとれないな。」
あ!と仕官が用件を思い出す。
「それでコーゼン分隊長ですが、そのラグレスの報告を受けているところでして……」
「ラグレスが戻っているのかね?」
「はい。一昨日より一時帰国中です。それで席が外せないので、お時間の都合がつくなら、そのまま部屋に来ていただきたいと。」
「わたしの年齢になると、都合はいくらでもつけられるよ。それにラグレスから辺境の話を聞けるのであれば、それはそれで興味深い。」
恐縮です、と言って彼はガイアナを建物の中へ誘う。
昔、この大陸は七つの国に分かれていた。
あるとき起こった諍いをきっかけに、そのうち四つの国が連合国となったのが百五十年前のこと。大陸の大河を境にした半分の国……南のカーヘル、ホルドウル、北の海に面したアバディーア、そして一番内陸で北の大山脈を有するガッセンディーア。その四つが手を組み、今日のノンディーア連合国として機能している。各州都にはそれぞれ議会があり、さらにガッセンディーアの州都ガッセンディーアには五つ目の議会も存在している。
それは空と大地を繋ぐ者たちが構成する、彼らの権利を守るための議会。
長老を筆頭とする一族の評議会は、そのほとんどが英雄ガラヴァルの血を受け継ぐ古い家柄で、キルフェガ・ガイアナもまさにそういう家系の出身であった。
彼はまた由緒正しい出身の例に漏れず、かつて軍の竜隊に身を置いていた。それが、現在彼のいる『ノンディーア連合国ガッセンディーア駐屯分隊』なのである。
分隊、と名がついているがそれは本来の軍隊と区別するためで、連合国内にある四つの竜隊の本部的な要素も兼ね備えている。
建物は中庭をぐるりと囲むロの字型になっており、その広い中庭は竜たちが着地し飛び立つ場所で、長年使われてきた石畳はところどころ磨り減り、片隅には彼らが“同胞”と呼ぶ、竜のための水場も設けられている。
つかの間休息する竜を眺めながら、ガイアナは二階の部屋に足を踏み入れた。
「ご足労おかけします。」
分隊の責任者であるコーゼンが出迎える。
軍人にしては小柄だが、竜の乗り手としてはむしろ好条件だと自負している。南の出身らしく褐色を帯びた肌に、北出身の母親譲りの黒髪、そして濃い茶色の瞳の持ち主である。年齢は五十に差し掛かった頃。
「ご無沙汰しております。」
コーゼンの後ろで若い男が頭を下げる。
「元気そうだね。リュート・ラグレス。それにフェスも。」
ガイアナは椅子の背に大人しく止まっている銀竜に、指先で触れた。
「滞在証の件、ありがとうございました。」
「間に合うに越したことはない。何より役に立ったのならよかった。」
ガイアナは勧められるまま、打ち合わせ机の椅子に腰を下ろす。
リュートが隣の部屋へ行き、間もなく茶器を手に戻ってきた。
「君は優秀な部下にお茶を淹れさせているのかね?」ガイアナがコーゼンを振り返る。
「まさか!ただこれも研修成果の一環だと、ラグレスが言い張るので。」
その言葉を実証するように、リュートは慣れた手つきでガイアナとコーゼンの前に茶を置く。
立ち上る花の香りに、ガイアナは「なるほど」笑みを浮かべる。
「これはエミリア・ラグレスが作っているお茶だね。」
「ご存知でしたか。」
「アデル商会でも評判の品だと聞いている。それに確かに美味しい。」
ありがとうございます、とリュートは頭を下げる。
「ところで向こうでの暮らしはどうかね?」
「いろいろ勉強しているところです。」
「彼女の傍にいることで、君自身が安定しているんじゃないかね。」
「安心はしています。四六時中張り付いているわけではありませんが、いつ何が起きても動きやすいに越したことはありません。」
「相変わらず真面目な男だ。だが確かに契約を交わしたもの同士が得る繋がりは、言葉では説明しづらい。どうだ、と言われても答えにくいか。」
でしょうね、とコーゼンも苦笑する。
「一度感じてしまえば、それが当たり前だと受け入れてしまいますから。」
「そういうものなんでしょうか?」
「そう、感じているのだろう。」
ええ、まぁ、とリュートは曖昧に頷く。
茶を堪能したところで、コーゼンが書き込みの入った紙束をガイアナに差し出した。
「ケイリー書記官に報告することを確認していました。」そう言ってリュートの報告を含めた打ち合わせ内容を、ざっと説明する。
「リラントの瞳も黒き竜の気配も、変化なし、か。これは吉報というべなのだろうな。」
「できればこのまま何もないことを期待したいところですが……」
「ラグレスが黒き竜と対峙してじき一年。そろそろ動きがあってもおかしくない、か。」
「ええ。それが我々の一致した見解です。」
「奴はまた彼女を狙うと思うかね?」
「むしろ狙うとしたら自分ではないかと思ってます。」リュートが口を開いた。
「奴は自分を竜騎士と認識していました。だからもし本当にあれが伝説の黒き竜本体だとしたら、世界を追放したリラント、そして自分を封じた竜騎士ガラヴァルに連なる者に制裁を加えたいと思うのではないでしょうか。」
「つまり復讐、か。しかしそれは黒き竜の思念の思惑だ。」
「奴を宿した男も同じことを考えるはずだと思います。あのとき……彼は相当な痛手を負ったはずです。その原因は自分ですから。それより……例の遺跡に進展があったと聞きましたが?」
リュートの問いかけに、ガイアナは頷く。
「予備調査が始まるそうだ。神舎からの要請で聖堂からも人を送ることになった。」
「神舎が要請?」リュートが目を丸くする。
創造神ルァを主神とする神舎が、英雄ガラヴァルを祖と崇める聖堂に協力を求めるのは稀である。
「本舎を通して連絡が来た。確かに珍しいことだが、今回は場所が場所なので専門知識が必要だと、ガッセンディーアの司教が助言したらしい。」
リュートは納得する。
『神の砦』と呼ばれる、カーヘルの平原に建つ神舎は、竜と一族が築いた遺跡の上に礼拝堂を増築した、珍しい来歴の場所であった。しかも創造神を祭る施設にもかかわらず、代々の司祭は一族に由来する遺物を守ってきたのだ。それが『英雄の書』と呼ばれる古代文字。
それを見つけたのはリュートたちで、それに対する調整と便宜を図ってくれたのが、そのとき同じ場所に居合わせたガッセンディーアの司教だったのである。
「確かにマーギス司教の助言なら、ありえるかもしれません。」
「それで、長老と相談してヘザース教授を推薦しておいた。」
「えっ?」
「意外かね?」
リュートの反応にガイアナはくすりと笑う。
「え……ええ。てっきり聖堂の人間が出向くのかと……」
「彼らは現場仕事に向かんよ。一族という肩書きがあり、なおかつ世間が納得する学者を考えたら彼は適任だ。もっとも、専門が宗教でも考古学でもなく歴史……というところでいささか反論はあったがね。だがむしろ守備範囲の広い彼なら、客観的に現場を見ることもできるだろう。」
「だから予備調査、か。メラジェの嬉しそうな顔が目に浮かびます。」はぁ、とリュートはため息をつく。
「確実に調査報告書が届く保障ができたな。」と、コーゼン。
「それとトラン・カゥイのことをそれとなく識者に聞いてみたよ。確かに自身が言うとおり、聖堂とひと悶着あったらしい。けれどそれを差し引いても、彼の能力を評価する声を聞いた。」
「それは……」
「彼の遠慮ない意見が今もあれば、英雄時代についての研究はもっと進んだだろう、と。それにカズト・ハヤセが早々に引退したことを惜しむ声もだ。銀竜を評再価し伝承が失われる前に集めた彼らの功績は大きいと。」
「父が聞いたら喜ぶでしょう。」
「カズトは復帰する気はないのかね?」
「ええ。長老の見舞いも行かれず、申し訳ないと言っていました。」
「仕方あるまい。たった一人で守っていることは長老もご存知のこと。しかしその一方で会いたいと切望もしておられる。」
「この滞在中、父の代理で自分が行くつもりです。」
「最近はお加減も一進一退で、いささかふさぎこんでいる風がある。君が顔を出してくれれば少しは気分も晴れるだろう。」
「だといいのですが。」
「ダールも一緒に行くのかね?」
「あいつは……勝手に行っているでしょうから。」
「ダールが長老への連絡を取り次いでいるのが不服かね?」
「いえ……そういうわけでは……」
「自ら首を突っ込んできたことが不服か。だが他の誰よりも信頼は置けるはずだ。」
「それは否定しません。」
「わたし個人としても彼が間に入ってくれることは望ましい。なにしろ彼はアニエ嬢の婚約者だ。屋敷に出入りしたとて不審に思う者はいない。それに自分のことで孫娘の契約の儀が延び延びになっていることも、気に病んでおられる。それを逆手に取るではないが、そういう意味でもダールが間にいることは都合が良い。門が存在することを公表できない以上、それを知る人間は貴重だ。」
「お気遣いさせて申し訳ありません。」
「リュート。」
「はい。」
「何度も言うようだが、わたしは門番を否定しているのではない。カズトがここを去ったことは残念だが、役目を全うするためだと知っていたから、引き止めることができなかった。」
「わかっています。」
「門はこの国における重要な機密だ。もしそれが存在すると知れたら、他国がどう出るか……だからそれを守るためなら、我々は助力を惜しまない。もちろん、評議会全てが事実を知るわけではない。」
充分すぎるほどわかっている。
それゆえ父親と都の出身も、そして自分が出向している先も「国交のない辺境の島国」としか周りには伝えていない。事実を知っているのはこの場にいる者を含めた、ほんの一握りだけなのである。
「かといって、わたしも長老も、君とカズトだけに背負わせるつもりはない。それは忘れないでいてくれ。それに新たに契約の儀を行うことは、我々にとっても喜ばしい。時期は決めたのかね?」
「それは……まだ……」
「書類など便宜上に過ぎない。現にダールのように延期になる場合もある。彼女の学業との兼ね合いもあるのだろうが……」
「書類だけは早々に提出して欲しいと、こちらにも通達が来ている。ただ彼には仕事上優先する書類があるから、後まわしになると返事をしておいた。」慌てなくていい、とコーゼンが付け加える。
その言葉に、リュートは素直に感謝した。
外に出ると、すでに陽が傾きかけていた。中庭に舞い降りる竜を眺めながら、リュートは軽く息をつく。
と、
「ラグレス教官?そうですよね?」
振り返ると、赤毛の若い男が自分に向かって敬礼している。
「ホムスゥト?」
「お久しぶりです!髪が短かったので気がつきませんでした。」
士官学校で教えていた頃よりぐっと大人びた若者の姿に、リュートは少し嬉しくなる。けれど確か彼は南のトゥトスに配属になったはず。
「もしかしてガッセンディーアに異動になったのか?」
「はい。でも来たら教官が不在だったのでがっかりしてたところです。いつお戻りになったんですか?」
「一昨日……と言っても休暇をかねた一時帰国だ。それより、調子はどうだ?」
「すごくいいです。」
「同胞に振り落とされたりしてないか。」
「それは言わないでください!」ホムスゥトは慌てて手を振る。
「知れたら今の任務から外されます!」
後ろから若者を呼ぶ声。
「今度お時間があるときに、お話できますか?」
「愚痴なら聞かないぞ。」
「もっと専門的なこと、聞きたいんです!」
失礼します!と言って駆けて行く後姿に苦笑する。
どうやらせっかちなところは学生時代と変わらないらしい。
「あのホムスゥト坊ちゃんが、とか思ってねーか?」
背後から聞こえた声と気配に、リュートは「あのな、」と振り返る。
「黙って見てるなんて趣味が悪いぞ。」
「いーじゃねぇか。教え子との再会に時間を割いてやったんだろう。」オーディエ・ダールは片目をつぶる。
「お前だって教えたじゃないか。」リュートは自分より背の高い同僚を見上げた。
もともと体格が良いのだが、軍の制服を着るといっそう大きく感じる。けれどそれに反して瞳は優しい印象を与える明るい青、そして癖のある黒髪は首筋で束ねている。
彼とリュートの付き合いは、互いの生きてきた年月……つまり年齢と同じ二十六年間に相当する。双方の両親に親交があったこともあり、物心つく前から、そしてついてからも、何だかんだと付き合いは続いている。
「他にも二人ほど、おれらが教えたのがこっちに配属になった。結果が見えるてのは嬉しいもんだな。」
「まぁ……そうだな。」
「なんだ。気に食わないのか?」
「いや……俺がいなくても、ちゃんと組織は動くんだと思って。」
「それが組織ってもんだ。」
「それに議長と話してて実感した。つくづく、父親はよくやってた。」
「そりゃそうだろ。なんたってお前の親父さんなんだから。」
大真面目なダールの表情に、リュートは一瞬あっけにとられる。
「それ、褒めてつもりか?」
「けなしてるように聞こえるか?」
「いや。」そっと首を振る。
「それより分隊長との面談は終わったのか?」
「書かなきゃいけない書類がまだ残ってる。」
「そんなもん明日にしろ!」
「簡単に言うな。」
「組織はお前がいなくてもちゃんと動くかもしれんが、ご婦人たちの相手はそういかない。」ダールはリュートの胸に指を突きつける。
「まさか、おれ一人で犠牲になれ、なんざ言わないよな。」
「まったく……」リュートは苦笑する。
「よくお前が公僕に身を置いてると思うよ。」
「同感だ。さ、お姫様たちを迎えに行くぞ!」
やっぱりしばらく、四日ごと更新になります。
必死で推敲しております。