第三話
「っていっても……」
鏡に映った己の姿にため息をつきつつ、都はたっぷりひだを取った膝下まである服をつまみあげた。足元は足首まである革靴で、しっかり踵が高い。
普段は写真部として活動しているので動きやすい格好が鉄則。高校も制服があるので、こんなドレッシーな格好をすることはめったに……いや、ほとんどない。
そんな一介の女子高生である木島都がこの世界と関わりを持ったのは、一年と少し前のこと。
唯一の肉親だった母親を亡くした痛手から抜け出せず、ぼんやりした日々を送っていた頃だった。
その日帰路を急いでいた都は、突然、正体不明の黒い影に襲われた。
そのとき彼女を助たのが、早瀬竜杜だったのだ。
もちろん当時は彼が異世界と関わりを持っているなど思いもしない。それに母子家庭で育って男子が苦手、そしてどこか普通でない言動の彼に「怖い」とさえ感じた。けれど何度か助けられ顔を合わせるうち、「怖い人」は「不思議な人」に昇格していった。
転機があったのはちょうど一年前。
都は再び「黒い影」に襲われた。
そのときの記憶は曖昧で、自分がどういう状況にあったのか覚えていない。ただ駆けつけた竜杜の手が暖かく、自分の名をずっと呼んでいたことをぼんやり覚えている。
翌日、早瀬の家で目を覚ました都は例の影が自分の血を欲し、そのため命を失う寸前だったと説明された。
そう言われても自分はこうして生きている。
その疑問に答えたのが喫茶店フリューゲルの店主、そして竜杜の父・早瀬加津杜だった。
いわく、
「本来は竜を召喚し、それを繰るのが一族の力だ。強靭で大きな力。つまり竜杜の持つ特殊な力を君に分け与えたことで、君は命をつないだ。」と。
そしてそれは一生を添い遂げるために、「一族」が行う婚姻の契約なのだ、と。
「婚姻」という単語に都が大慌てしたのはいうまでもない。
そもそも「竜」だとか「一族」だとか訳がわからない。
戸惑う都に、早瀬は「門」と呼ばれる通路で繋がれた、もう一つの世界のことを話してくれた。
そこは国があり人々が暮らす、強いて言えば外国のようなところ。ただしこの世界の地図に載ることはなく、何より決定的に違うのは空に住む「竜」という種族がいること。
竜は強い力を持ち空を駆ける神話時代からの生き物で、人間が「地上の民」と呼ばれるのに対して「空の民」と呼ばれてきた。
その地上と空の間にいるのが「一族」と呼ばれる一派。今や希少な存在となった空の民と意思疎通できる能力を持ち、彼らと共に空を駆ける人々である。彼らもまたその数を減らしているが、それでもなお、竜を「同胞」と呼んで空と地上を繋ぐ役目を担っているのだと言う。
その特殊な血筋を守るために行うのが「契約」である。
本来は一族同士で行うものが、なぜ都と竜杜のあいだで成立したかわからない。
ただ随分経ってから、思い出したように早瀬が言ったことがあった。
「伝承のようなものだけど、ずっと昔、門を行き来してた一族がいたという話が向こうにも残ってるんだ。だからもしかしたら、都ちゃんはそういう人たちの末裔なのかもしれない。確証はないけどね。」
けれどある時から門の行き来はなくなり、ついには閉ざされてしまう。そうして長い年月が経ち、今では門の存在自体、伝説になっているという。
けれど門はずっと存在した。
長い間人目に触れることなく。けれど門番である、早瀬の一族に守られて。
早瀬はこちらの出身だが、ひょんなことから向こうの世界の住人であるエミリアと知り合い、紆余曲折の末結ばれ竜杜が生まれた。つまり竜杜は生まれながらに「一族」でありながら「門番」でもある稀有な存在なのだ。
だからと言って、「早瀬竜杜もリュート・ハヤセ・ラグレスも本名だ」と言われても、「はい、そうですか」と納得できるものではない。
そのジレンマは竜杜も同じだった。
命を救うためとはいえ、「契約」という枷で繋ぎとめたことをひどく後悔していたと、都は後に彼の従姉のクラウディアから聞いた。
そんな風に互いを意識しつつ答えの出ない日々を過ごしていたある日、都は三度、影に捕まった。
それは「黒き竜」と呼ばれる、かつて封印された竜の思念。遥か昔世界を脅かしたゆえに追放された竜のなれの果て。伝説の中で英雄ガラヴァル兄弟が空の民の長であった聖竜リラントと共に封じたはずの思念が、長い年月を経て復活し、一人の男に寄生していたのである。
そのとき、都は初めて竜の姿を見た。
それまで形のない影だったものが、契約の力のせいではっきり竜の形に見えたのである。それは「門の向こうの世界」を意識するきっかけでもあった。
結局「黒き竜」を再び封じることは失敗したが、対峙した竜杜が無事だったことに都は深く安堵した。
自分でも意識しないうちに彼の存在が大きくなっていたこと、そして彼が見てきた空、竜と共に飛んだ空を見たいと思う気持ちを打ち明けた末、「わたし、竜杜さんと契約します」と受け入れたのが昨年の秋のこと。ただし、「お付き合いからでいいですか」と、付け加えた上で。
あれからまだ一年と経ってないが、過ごした時間は濃密で、都は時々もうずっと昔の話だったような気がする。
最初の試練は保護者である小暮冴の大反対だった。
冴は都を赤ん坊の頃から知っているし、母の死後も一緒に暮らしている家族同然の存在。そんな彼女だからこそ、都が誰かと結婚を前提に交際するなど「ありえない」ことを知っていたのだ。
単身赴任から帰って、様子のおかしい都を問い詰め竜杜との一件を聞いた彼女は、当然のごとく交際に反対したのだ。
挙句、
「竜だの契約だの、どうして訳のわかんないことにあの子を巻き込んだのよ!」
そう言って竜杜に平手打ちしたのは、今でも語り草になっている。
最終的には状況を受け入れ、それどころか都が名づけた銀竜も受け入れてくれたことに、今は感謝している。
銀竜は「向こうの世界」でも数の減っている生き物で、大きさは小柄な猫ほど、全身がサテンのようなすべすべした白い鱗で覆われていて、こうもりのような羽で空を飛ぶ姿は本当に銀色に見える。瞳は金色で、指の先についた鋭い鉤爪を見ると竜だと納得するが性格はいたって温厚である。特に都が「コギン」と名づけた銀竜は、成獣になった今でも都や冴にしきりに甘える。
「銀竜にも性格があるから……それに親であるルーラは随分長い間こっちにいたからね。そういうのも影響してるのかもしれない。」
そう言ったのは早瀬で、向こうの世界では軍属にいながら銀竜の研究もしていたのだという。
「一族が軍に入るのは珍しくないよ。竜隊は軍属と言っても特殊だから調査とか、連絡とかそういった仕事がほとんどだし。」
事実、竜杜の仕事も本来は地図を作成するための調査が主だと言う。
けれど今は復活の兆しを見せた「黒き竜」の動きを探るため、特命を受けて実家である早瀬の家と本来の職場を行き来しているのである。加えて彼には「ラグレス家当主」の肩書きもあるので、その忙しさは並大抵ではない。
必然的に会えない時間が過ぎたある日、都は早瀬からセルファ・アデルを紹介される。
「リュートとは従兄どうし。年も近いので彼とは兄弟のように遊んだものです。」
その彼から、竜杜が予定を過ぎても戻らないことを聞いた都は、自らラグレスの家に行くことを志願した。
ちょうど春休みに入るタイミングだったこと、契約のおかげで言葉が問題なく通じてること、日々成長するコギンを思い切り飛ばせてあげたい気持ち。そして何より、竜杜の身を案じた末の決断だった。
そうして初めてくぐった門の向こうの世界で出会った人たち、起こった事は、今思い出しても色あせることのない強烈な体験だった。と、同時にこちらであまり感じることのない「契約の力」を実感したのも彼の地である。
離れているのに、まるで傍にいるように互いを感じる不思議な感覚。
それは竜杜も同じだったと見える。
その出来事をきっかけに、彼は正式に「研修」という形で早瀬の家に留まることを上申したのだ。もちろん門番などほかに継ぐ人材もいないゆえ、上も認めざるを得なかったのだろう。都が卒業するまでの期間を条件に、喫茶店フリューゲルの見習いに入ったのが五月の連休明けのこと。
「でもこの場合、門番じゃなくて喫茶店の研修になるんじゃないの?」
「と言っても門が店の中にある以上、それが前提になるわけだし……」
「僕もいざとなったら竜杜に頼むしかないからねぇ。」
そんな調子だったが、いざ店に入ってみれば今までと違う仕事環境に戸惑いつつ、新しいことにまい進するのが楽しかったらしい。今では紅茶に関しては父親より詳しいし、接客も板についてきた。同業の知り合いができたりと、日々着実に生活基盤を固めている。
今回の帰省はそれ以来で、都も夏休みに入るのとエミリアが彼女に会いたがっていると聞いて、同行することを決めたのだ。もちろんリュートが忙しいことは予想していたが、着いたその日のお茶の席で切り出されたときは、思わず「もう?」と呟いてしまった。
「すみません。」セルファが申し訳なさそうに言う。
「ミヤコには悪いと思っています。が、どうしても彼が必要なので、一日前倒しで先にガッセンディーアに連れて行きます。」
「まったくあなたたちは……」エミリアがため息をつく。
「俺も共犯者か。」
「むしろ主犯です。一人残されるミヤコのことも考えなさい。」
「でも仕事ならしかたないし……」
「ミヤコの迎えにはクラウディアを寄越します。」
「クラウディアさん?」
都はセルファの双子の姉、そしてリュートの年上の従姉の颯爽とした姿を思い出す。女性ながら軍に所属して竜を繰る彼女と再会できるのは、それはそれで嬉しい。
「それにリュートも今回はアデルの家に滞在しますから、そこでまた合流できます。」
「時間を作る努力はする。」
「話半分で聞いておきなさい。」そっけなくエミリアが言った。
それが二日前のこと。
クラウディア・アデル・ヘザースと再会を喜んだりコギンが勝手に買い物に行ってしまったので、荷造りが済んだのは午後になってからだった。
「忙しいのはラグレスの家系かしらね。カズト伯父さまもよく、いなくなってたけど。」庭で待機していた竜の背に荷物を載せながらクラウディアが言う。
「でも必ず穴埋めはしていました。」と傍らに立つエミリア。
「リュート、向こうの家では時間作ってるんでしょう?」
「家が近いから。それに学校の帰りにフリューゲルに寄ったりするから、会わない日のほうが少ないかも。」
「どちらにせよ、またあなたを一人で行かせることになってしまったわね。」
「向こうで会えるから大丈夫です。それにクラウディアさんと一緒に飛べるの、嬉しいから。」
都の言葉に、クラウディアはにっこり笑って言った。
「あたしもよ。」
次回の更新も四日後です。
それと前回書き忘れましたが、都ちゃん用にリフォームした部屋のインテリアイメージはモリス柄(^^
自分では使いたくないけど、見るのは好きなファブリックです。