第二十七話
「昨日の朝は来なかったし、今日は今日でボーっとしてるし……」柔軟体操をしながら波多野大地は向い合う相手にぼやく。
「珍しいっすよね。」
「そういうときもある。」
「木島と喧嘩した……とか?」
「安心しろ、雑用で忙しかっただけだ。」と、竜杜。
嘘ではない。
トランの報告書を読むのに、時間がかかってしまったのだ。
そもそも放置してあった報告書を読む気になったのは、眠れなかったから。その原因は一昨日の繁華街での一件に他ならない。
あのとき。
ほんの一瞬だが、確かに感じた気配。
慌てて辺りを伺ったが、その後二度と感じることはなかった。仕方なく帰宅し、気のせいだったかと自問した。しかし考えれば考えるほど、自分が一年前に危険を賭して対峙した相手を間違えるはずないと確信した。
すなわち、あのとき黒き竜を宿した男が近くにいたのだと。
ただの偶然なのか。それとも……
やり場のない苛立ちを沈めるため手にしたのが、トランの報告書だった。
一昨日は内容がまったく頭に入らないばかりか、一睡もできなかった。定休日の昨日は、フェスの眼を借りて商業ビルの周辺に手がかりがない探ったが、結局、何もないことを確認しただけだった。
それ以上動いてもどうにもならないと見切りをつけ帰宅すると、再度、気合を入れて報告書と向き合ったのである。それが、今の自分にできる唯一のことだと言い聞かせて。
そうしてトランの膨大かつ、仔細な報告書を読み終えると、焦りは少し収まっていた。
黒き竜を封じる方法はまだ見つからないが、可能性はあるという結論。なによりトランが着実に仕事をこなしている信頼と安心が、竜杜の気持ちを落ち着かせてくれた。
その後軽く睡眠をとり、朝のジョギングに出たところで波多野と合流したのである。
「だいたい、大地に俺の機嫌は関係ないだろう。」
住宅街の小さな公園で、いつものようにストレッチをしながら竜杜は言った。
「なくないっすよ!だって竜杜さんがへこんだら、木島もへこむじゃないすか!文化祭前の忙しい時期に、木島の動きがこれ以上鈍ったらこっちが大変なんです!」
「そんなところまで責任持てるか!」
「第一、竜杜さんがひどい顔してたら、フリューゲルの常連さんだってなんか言いますって。」
「安心しろ。」ため息混じりに竜杜は言った。
「別件で忙しかったんだ。」
「ならいいですけど。木島もようやく、展示用の写真決めてくれたし。」
「文化祭、近いんだったな。」
「考えすぎるんすよね。それが突き抜けて元の場所に戻ったっていうか……」
「戻った?」
「やべ。オレが言ったこと内緒ですよ。竜杜さんに言うなって言われてるから。」
「戻る、ね。」
「だから聞かなかったことに……」
「安心しろ。その言葉で推察できるほど超人じゃない。」
「ですよね。」ははっと笑って、波多野は自分の頭をなでる。
「でも、すっげいい作品ですよ。」
「楽しそうだな。」
「木島の写真、ときどき直球が来るんすよね。そういう写真見せ付けられると、すげーなって思う反面、オレもやってやるって嫉妬したり。」
「ライバルって奴か。」
それはない、と手を振る。
「木島は自分が勝ってるとか、自覚ねぇもん。それに竜杜さんあっての木島だから、オレとしては師匠と張り合うの気が引けるだよね。」
「だから、師匠になった覚えはない。それに都の写真に俺は関係ないだろう。」
「でも木島の写真が変わったの、竜杜さんと付き合うようになってからですよ。」
え?と竜杜は動きを止める。
「ほら、木島って時々無理するじゃないすか。冴さんはブレーキになるけど、一度止まるとエンジンかかるまで時間くうから。でも竜杜さんといると適度にシフトダウンするからエンストしないつーか、上手くギアチェンジするつーか。」
「どういう喩えだ。」
「だって高校入った頃とか、マジで停止寸前だったんじゃないかなぁ。入学式のときも、最初わかんなかったし。」
「付き合い、長いんだろう?」
波多野と都が保育園からの知り合いで幼馴染というのは周知のこと。
「でも中学は一度もクラス一緒になんなかったし、髪、ばっさり切って印象違ってたし。」
「髪?」
「耳の下でばっさり。長いのしか見たことないから、わかんなかったんだよね。うちのお袋もびっくりしてた。」
ふと、竜杜はラグレス家の使用人イーサの言葉を思い出す。
彼女が都の髪を結ったとき、何気ない会話の中で「昔は長く伸ばしていた」と都が言ったらしい。
「きっと亡くなったお母様が手伝っていたんだと思います。女の子にはよくあることですから。」
もしイーサの言うとおりだとしたら母親を失った喪失感で髪を切ったのか、それとも冴の手を煩わせたくないと思って切ったのか。どちらにせよ、思いつめた結果だと想像がつく。
波多野もそれを感じてたのだろうか。
それに彼の観察力と勘のよさは侮れない。今朝も会うなり「大丈夫すか?」と聞いてきて、どう切り返そうかと考えたのだから。
「よいしょ」と、波多野は地面に座って足を伸ばす。
前屈するが思うように身体が動かず、竜杜に頼んで背中を押してもらう。
「それに冴さんも仕事で海外行ったりしてたじゃないすか。やっぱ一人ってしんどかったんじゃないかなぁ。写真撮っても楽しくなさそうだったし。それが去年の文化祭くらいから変わって……去年展示した写真って知ってます?」
「撮影に付き合った。」
やっぱり、と波多野は笑顔になる。
「木島は言わなかったけど、そうかなって思ったんだよね。ほら、そのちょっと前に竜杜さんと木島が付き合ってるって聞いたから。それからどんどん良くなってるし、学校でも他の奴と喋るようになったし、それにフリューゲルのこと話すとき、すげぇ楽しそうだし。それってやっぱ、愛の力っしょ。」
「勝手なこと言うな。」
「うわっち!」思い切り背中を押されて、波多野は声を上げる。
「相変わらず硬いな。」
「自覚してますよ~。と、そういや竜杜さんも髪長かったよね。あれ、木島になんか言われて切ったとか?」
「あのまま店に出るわけにいかないだろう。」
「そりゃま……って、ちょっとタンマ、タンマ!だぁ!無理っす!」
遠慮のないサポートに耐え切れず、波多野は横倒しに転がる。
「ひっでぇー。マジ手加減なしなんだもんなぁ。」
「お前の身体が硬いんだ。よくそれで運動部に入ってるな。」
「柔道は助っ人みたいなもん。膝裏筋肉、破断寸前……」
あうー、と唸りながら波多野は地面に大の字になって空を見上げる。
「本気出したら、こんなもんじゃないぞ。」
「木島も……」
「うん?」
「木島も本気出したら、すげー写真出してくるのかなぁ。」
「さあな。」
「竜杜さんが本気出したら、木島も本気出す、とか。」
「俺に聞くな。」
不意に、妙な声が漏れる。
それが笑い声だと気付いて、竜杜はぎょっとした。
「大地?おい、大丈夫か?」
波多野は「うぉーっ」と咆えながら起き上がると、両手を空に突き上げた。
「すっげ、やる気出てきた!」
「えっ?」
「っていうか、すげー見てぇ。木島の本気。それ考えただけで、やる気がすっげぇ出てくる!」
「なんだか……」
満面の笑みに、竜杜はあっけにとられる。
「お前と話してると、細かいことがどうでもよくなってくるな。」
「まじっすか?」
「呆れてるんだ。」
でも、と呟く。
「本気出すことも必要、か。」
「いっ?」と波多野が身構える。
「今日はもういいっす!これ以上やったら筋肉痛で動けない!」
「そっちじゃない。」
波多野の反応に、思わず竜杜は笑う。
「大地、今日の放課後空いてるか?」
「えーと、部活寄るんでちょっと遅くなるけど。」
「どうせ店閉めてからの時間だ。」
「なら大丈夫。」
「骨董品持って行った代わりだ。手伝え。」
「ど、どうしたの?」
翌日。
湿布の匂いを充満させてきた波多野に、都は目を丸くした。
「ただの筋肉痛。モップがけも本気出すとこうなるんだ。」
「こんな時期に大掃除?」
まぁね、と言いながら都を振り返る。
「木島、今日、演劇部との打ち合わせだよな?」
「うん。」
「じゃあそれ終わったらでいいや。竜杜さんから伝言。店閉める少し前に来てくれ、って。」
「なんでそれ、波多野くんから聞かなきゃいけないんだろう。」
「朝練のついで。了解?」
慌てて都は頷く。
「あ、うん。了解。」
次回も四日後に更新です。そしてあとの二回分の更新でございます。
まぁ、次の話もアウトラインに取り掛かってはいるのですが・・・長くてすみません(^^;




