第二十六話
「あんまり遅くならないうちに寝なさいよ。」
「わかってる。」
おやすみ、と冴が自室に引き上げるのを見届けると、都はダイニングテーブルに向かった。
ペンダントライトだけつけたリビングダイニングに一人立って「うーん」と唸る。
文化祭の展示写真を決めようとプリントをテーブルに広げたのは夕食後のこと。途中バスタイムを挟んでもまだ決めることができず、気がつけば時計の針はすでに深夜を回っている。
新学期早々無理したくないと思う反面、迫るタイムリミットに焦っていた。
「かわいくまとめるのもいいけど、それは他の人もやりそうだし……演劇部に断れば舞台の写真も使えそうだけど、それも安易だしなぁ。」
椅子に座って更に悩む。
と、コギンが足元から膝の上にもそもそよじ登ってきた。
都を見上げてきゅきゅと、喉を鳴らす。
「お茶飲みたいか。」
冷蔵庫からガラスのポットを出すと、恐竜柄のマグカップと厚手のグラスにジャスミンティーを注いだ。コギンがマグカップに顔を突っ込んでおいしそうに飲むのを眺めながら、自分もグラスに口をつけ、ほっと息を吐き出す。
学校は始まったものの秋の気配は遠く、クーラーを止めるとすぐに汗が噴出す。
都はベランダに面した掃き出し窓を開け、網戸越しに空を見上げた。
コギンが肩にしがみつく。
「文化祭終わったら、こっちの空を飛ぶ練習だって。フェスが一緒だから大丈夫だよね。」
くぅ、と肯定する声。
「本当は向こうの空がいいんだろうけど……」
そう言って目を凝らし、星を探す。
「やっぱあんまり見えない、か。」
そっとため息。
目を閉じて思い出すのは、ラグレス家の墓参りの帰りに竜杜と並んで見た星空。
日が沈み、刻一刻と色を変えていく空の美しさ、そして時間と共に空を埋め尽くす星の輝きは圧巻の一言に尽きる。
なにより竜杜が見てきた空を一緒に見ている。
それがたまらなく嬉しかった。
だから、帰り道であんなことを言ってしまったのだ。
「少しだけ自惚れてもいいかな。」
ほとんど無意識で言ってしまってから後悔する。
けれど竜杜はそれを優しく受け止めてくれた。
「ずっと自惚れてていい。」
「ずっと?」
「十年でも二十年でも。」
「そんなの……先すぎる。」
「そうだな。でも……十年後でも二十年後でも、俺は都を大切だと思うし、こうして一緒にいたいと思う。だから安心して自惚れていていい。」
それが心からの言葉だと、触れ合う指先から、そして彼の優しい笑顔から都は理解した。
同時に、いろんなことを保留にしたままではいけないことも。
もちろん都がそうしてくれと言えば、竜杜はいつまでも待ってくれるだろう。
けれどユーリ・ネッサの言うとおり、それはラグレスの家のためにならない。口惜しいがネフェルやケィンの話を聞いて、一族という集団の輪郭がぼんやりわかってくるにつれ、いっそう思うようになってきた。
便宜的に儀式に望むこともできるだろう。
けれど契約は実質的に成立していて、それによる支障も今のところない。
強いて言えば、向こうの世界で相手の存在を強く感じることに戸惑っていたが、それも最初のうちだけ。今はその感覚も当たり前だと思うし、何より竜杜がいるからこそ常に守られているような安心感があると理解している。つまり見えない絆で結ばれている証なのである。
それに日本の法律に照らし合わせてもすでになんら問題はないし、今仮に都が竜杜と一緒になりたいと言っても、冴は反対しないだろう。
結局、自分に足りないのは思い切り。
踏み切れないのは自分の気持ちがゆらいでいるから。
だから写真も進路も決まらない。
「わたし……引き継げるのかな?」
呟いた言葉にコギンが首をかしげる。
「最初に向こうに行ったときね、カルルが怖がらないの珍しい、ってケィン言ったの。もし銀竜を引き継ぐ人がいるとすればリュートかわたしだって。」
そのときは意味がわからなかったが、今ならわかる。
銀竜を継ぐということは、ラグレスの家を継ぐということ。
そもそも何かを引き継ぐなんて、自分の人生は無縁だと思ってた。
着物だってそう。
けれど冴の口から「処分する」という言葉を聞いたとき、早瀬の家の一部が捨てられるような気がしたのだ。でも自分から言い出せず、竜杜が「着てみればいいじゃないか」と言ってくれたとき、それを口実にできることに内心ほっとしたのだ。
「お母さんや冴さんみたいに、度胸があればいいのにな。」
冴もだが、母親もその場で判断して物事を決めていくことが多かった。もちろん生活のため、仕事を選り好みでない実情もあったのだろう。
時には打ち合わせから戻るなり、
「明日から、ちょっと沖縄に行ってくるから。」と言い出すこともあった。
「別件の打ち合わせだったんだけど、ついでの企画話が盛り上がってね。時間があるうちに下見してこようかと思って。」
実際現場で何をしていたか知らないが、そうやって、最後まであちこち飛び回っていた。
それに比べて自分はどうしてこんなにも即決できないのか。
「わたし、本当に誰に似たんだろう?」
もし母親が生きていたら、今の自分を見てなんと言うだろう?
「何も言わない……っていうのはないか。えーと、なるようになる……って言いそうだけど……ちょっと違う気もするか。」
以前はこんな冷静に母親を思い出すことすらできなかった。
「つくづく、暗かったんだな。わたし……」
そんな自分の命を、よくも竜杜は繋いでくれたと思う。それに、
「お母さんが生きてても、こんな風にリュートと付き合ってたのかな?っていうか、お母さんって誰か好きになったことあるのかな?」
男性と行動を共にすることはよくあったが、冴に言わせれば、みな仕事仲間だったらしい。
「若い子なんて、朝子のこと親方扱いしてたもの。」
そう聞いて、あっさり想像つくことに苦笑する。
「やっぱり……もっと話しておけばよかったな。」
でもそれは取り返しのつかないことだと、痛いほどわかってる。
「言ってもしかたない。」
よしっ、と気合を入れて選定作業に戻る。
コギンも舞い降りると、テーブルの端に積んであったポケットアルバムを鍵爪のついた小さな手で器用にめくる。そのうち一枚を引っ張り出すと都の前に持ってくる。
「それがいいの?」
「うぎゅ!」
「コギンは写真でも空が好きなんだね。でもそれ、去年展示したから、今年は使えないよ。」
都がそう言っても、コギンはぐいぐい写真を押し付ける。
「コギンがいつでも見られるようにしたい、ってこと?」ようやく意図を理解して金色の瞳を覗き込む。
コギンはこくこく頷く。
「じゃあ、明日……じゃないや。もう今日か。写真立てかパネル買ってくるね。」
その言葉に、小さな白い竜は目を細めて喉を鳴らす。
その姿が可愛くて、都は背中に畳まれた白い羽をなでる。
「そうだね。わたしもこの写真、好き。先輩には地味とか言われたけど……」
そこまで言ってあっ、と思い出す。
あれはいつだったか。周りと比較した都を、母親が諭したことがあった。
「まわりのみんなはどうでもいいの。都はどうしたいの?」
一体なにが発端だったか忘れてしまったが、その言葉だけは今でもはっきり覚えている。そのときは、そんな風に強く自分を諭す母親を恨めしく思った。けれど今は……
「そうだ……きっとお母さんだったら……」
(都は、どうしたいの?)
「わたしは……どうしたい?」
呟いて、コギンが選んだ写真に目を落とす。
それは去年の夏の終わりに、竜杜と行った臨海部の風景。
空と海が交わる夕暮れを撮影した写真。
あの日、竜杜は初めて向こうの世界のことを話してくれた。それを聞いて彼の見てきた空を、彼が同胞と呼ぶ竜の駆ける空を見たいと思った。その気持ちがあったから自分は竜杜との契約を受け入れ、そして彼を追いかけて向こうの世界へ行った。
すべてはあの日から。
そしてその気持ちは、一年経った今でも変わらない。
むしろ共に空を飛ぶようになってから、そして彼が歩んできた道筋を知れば知るほど、空に近づきたいという欲求が増している気がする。
「そっか。」
突如、都は了解した。
「わたし……もっといっぱい空を見たいんだ。」
竜杜の見てきた空。彼が同胞と共に飛ぶ空を。
そんな単純なことにどうして気付かなかったのかと、呆然とする。
「だとしたら……ええと、どうすればいいんだ?そだ、写真!ここじゃない!」
都はテーブルの上のものをかき集めると、コギンを従えあたふたと自室に戻る。
翌朝。
「何で起こしてくれなかったの!」
「だって都ちゃん、いつも自分で起きるじゃない。」
「起きないんだったら、変だって思ってよ!」
「あんま遅くならないうちに寝なさい、とも言ったでしょ。」
「だって終わらなかったんだもん!だいたいコギンもひどいよ!」
「トカゲ当てにしてどうすんの。」
「トカゲじゃなくて銀竜!ああっ、バス、間に合う?」
いってきます!と飛び出していく。
「はい、いってらっしゃい。」
勢いよく閉まる扉に向かって冴は肩をすくめる。
「まーったく元気なのはいいけど、気ぃ抜いてるんだから。怪我しなきゃいいけど。ね。」
冴の言葉に、コギンもうにゅ、と頷いた。
一応四日後に更新予定ですが、ずれる可能性もあり。ばたばたしていて、なかなかパソに向かえず。もう一息なんですが・・・




