第二十五話
「本当にいいんですか?」両手を胸の前で組み、瞳を輝かせて彼女は言った。
「それはこっちの台詞なんだが……」
「うわぁ、嬉しいっ!」
ダンボールにいっぱい詰まった得体の知れないものに、三芳春香は興奮の色を隠せない。
「春香ちゃん、こういう古いものが好きなのよ。」
戸惑う竜杜に彼女の義理の姉、そして上司でもある三芳美帆子が説明する。
「骨董……というかガラクタじゃねぇの?」と言うのは春香の実兄の三芳啓太。
横から覗き込んで中身をつまみ上げ、春香に怒られる。
フリューゲルより都心寄りにある『カフェ∞』は、三芳夫妻が経営するカフェ&ギャラリーである。古いビルの一階が美帆子の切り盛りするカフェ、そして内部階段で繋がった二階が、写真家でもある啓太の仕事場兼貸しスペースになっている。オープンしてまだ数ヶ月だが、イベントが写真に特化しているせいか、最近はカメラ好きが集まる場になりつつあるという。
たまたま竜杜が参加した講習会で美帆子と知り合い、開店準備を手伝ったのがきっかけだった。フリューゲルの見習いとして同業者のつながりは、あって困るものでない。しかもその後、都の亡くなった母親が啓太の写真学校時代の恩師だったことが判明し、今は啓太が自ら願い出て、彼女……木島朝子の遺した写真を整理している。そんな経緯もあってか、かろうじて二十代の春香も含めて皆、自分より年上にもかかわらず気安く付き合ってくれるのがありがたい。
「金物とか未使用っぽいし。デッドストック品とかあるみたいですけど……」
「金物は曽祖父が売ってたものの見本らしい。商店街のほかの店から引き取ったのも混じってると言ってたな。」
「本物のアンティークとビンテージなんて最高!ありがとうございます、早瀬さん。無限大二号店出すときは絶対使いますね!」
「二号店?」
「あー、目標っていうか夢っていうか妄想。」ぱたぱたと美帆子が手を振る。
「いつか春香ちゃんが二号店出したら面白そうね、って話してたの。」
「でも、そういうアンティークカフェもアリだと思いません?テーマ性って大事だと思うんですよね。」
「と言われても……自然に骨董品になってるからな。うちは。」
「そうでした。」ぺろりと春香は舌を出す。
「それよか重くて大変だったでしょ。」すんません、と啓太も頭を下げる。
「そこまで知り合いの車に乗せてもらったんで。」
「じゃあ今日は歩き?」
「ええ。」
「だったらコーヒーじゃなくてビールご馳走しちゃいます!」ダンボールを抱えた春香がすかさず言う。
「気遣いは別に……」
「あーいや、おれが一服したいってごねてたんで、よかったら付き合ってください。それともこの後デートとか?」
「残念ながら。学校が始まったばかりなので。」
「じゃあ、決定。」
その言葉に甘えて、竜杜は啓太と並んでカウンターに座った。
押し出されるようにエレベーターを降りる。目の前に広がるのは天井までのガラス窓で囲まれた広い空間。
こちらで暮らし始めた頃、無性に空に近づきたくてたどり着いたのがこの商業ビルの展望フロアだった。当時は頻繁に訪れていたが、しばらく足が遠のいていた。
観光客やデートと思しきカップルに混じって、竜杜は窓に身を乗り出す。
九月に入ったとはいえ、東京の夜はまだ蒸し暑さが停滞している。そのせいもあってか、見上げた空は地上の明かりを反射して、うっすら幕を張っているように見える。
『光害』という言葉を教えてくれたのは栄一郎だった。
飛べないことは覚悟していたが、地上の光のせいで東京の空がこれほど明るいと思わなかった。子供の頃は気にしていなかったのか、それとも二十年近い歳月で状況が変わったのか。
空を眺めながら、ふと、先ほどの啓太との会話を思い出す。
「進路相談?」
「ってほどじゃないけど、美帆子に聞いてたから。店やるって大変なのかって。だから都さんがフリューゲルを手伝うのかと思ったんだけど。」
「そういう話はしてないが。」
「早瀬さん的には、一緒にフリューゲルやってほしいとかないわけ?」
「彼女の進路に口出しするつもりはないし、第一、自分が店を継ぐかどうかも決めてない。」
ふうん、と啓太はビールグラスを傾ける。
「逆に早瀬さんがそういうスタンスだから、自分がどうにかしようと思ってる、とか?ほら、将来的な話がないわけじゃないって言ってたでしょ。」
「それは否定しないが……写真をやりたいんだと思ってたから、考えもしなかったな。」
「確かに、迷ってる感じだった。というか、商売としての写真の大変さは木島先生見てるから、それでふん切りつかないのかもしれないな。」
「それにフリューゲルは仕事内容がわかるから、イメージ掴みやすいんじゃないかしら?」カウンターの中から美帆子が会話に参加する。
「ほら。早瀬さんと早瀬父の仕事を日々見てるでしょ。それにあたしは、都さんがフリューゲル手伝うのもありだと思うな。あの、啓太が褒めてた写真。」
はいはい、と啓太は頷く。
「こないだ来たとき、最近撮ったやつ見せてくれたんすよ。その中にフリューゲルを撮影したのがあって、好きなものを撮ってる感がすげぇ出てたから、そう言ったんだけど。」
「お店に飾ってあるのもそうだけど、あれ見ると、都さんって本当にあそこが好きなんだなぁって思うのよね。だから仕事にするしないはともかくとして、手伝うっていうか居場所にするっていうか、活動拠点にするのは良いことだと思うの。」
「居場所?」竜杜は聞き返す。
「いつも誰かが話聞いてくれて、見守ってくれる場所。普通はそういうのって実家とかになるんだろうけど、都さんの場合、肝心のお母さんを亡くしてるわけじゃない。小暮さんもサポートしてくれるけど、パワーありすぎて頼りたいときにいなかったりするから。」
「確かにフリューゲルは不動だな。」
「でしょー。それに早瀬親子だったら都さんも遠慮ないだろうし、そうしたら、進路とかもゆっくりじっくり考えられるんじゃないかな、なんて。」
「お前にしちゃまともだな。」
「あたしもいろいろ悩んだお年頃があったんです。父親と衝突して、おばあちゃんちに逃げ込んだの。」
「こいつ、すんげぇおばあちゃん子だったんですよ。」苦笑しながら啓太が説明する。「だから、葬式のとき大変で。」
「それは言わなくていい。でも古巣っていうのかなー。おばあちゃんも全部わかってくれるっていうか、もうそこにいるだけで安心できるっていうか……」
「そういう場所が……都にも必要ってことか。」
「というか、都さんにとってフリューゲルがそういう場所になりつつあるんじゃないかなって感じたのよね。だから手伝うのもありかなーなんて。偉そうだったらごめんなさい。」
いや、と竜杜は首を振る。
「自分は考えつかないことだから。」
嘘でも誇張でもない。
もちろん、都にとってフリューゲルがお気に入りの場所なのはわかっている。けれどそれが彼女の拠点になりうるとは考えもしなかった。
むしろそれは尚早で、だから契約の儀を催促されたときも、彼女の安全のために早瀬の家に来てもらうほうがいいかもしれないと父親に言われたときも、今はまだその時期でないと思っていた。
それは強引に契約を交わした償いのようなもの。
彼女の一生を手に入れてしまった分、彼女を縛りたくないという贖罪の気持ち。
それに自分は誰に強制されたわけでもなく、空を飛びたいがため竜隊に入ることを決めた。だから同じように彼女自身がやりたいことを、思い切り目指してほしいと願っている。
だからこそ、彼女が道を決めるまで自分は待つと決めたのだ。
待つなど大したことない、と思っていた。
あの日まで。
ため息をついて、竜杜は空に目を向ける。
見上げる靄のかかった夏空に重なるのは、ラグレス家の墓参りの帰りに二人で見た、満天の冬の星空。
光を増していく星を見ながら、都の言った声が耳元でよみがえる。
「わたし……わたしね。」互いの手指を絡めながら遠慮がちに彼女は口を開く。
「少しだけ自惚れてもいいかな。」
「自惚れ?」
「リュートに……大切にされてるって……リュートのことずっと好きでいていいって。」
それは恐らく、彼女が言った初めてのわがまま。
そう言ってくれたことが嬉しくて、彼は微笑んだ。
「ずっと自惚れてていい。」
「ずっと?」
「十年でも二十年でも。」
「そんなの……先すぎる。」戸惑う表情。
「そうだな。でも……十年後でも二十年後でも、俺は都を大切だと思うし、こうして一緒にいたいと思う。だから安心して自惚れていていい。」
あの時、いつも冷たい彼女の指先がほんのり温かく感じたのは、気のせいではなかったはず。
そこから家までの道のり、交わす言葉は少なかったが竜杜は彼女の気持ちが自分に寄り添っているのを確かに感じていた。
それは暖かく満ち足りた心地よいもので、けれど特別意識することはなく、むしろ今まで忘れていた何かを再び得たような懐かしい感覚。と同時に、このまま彼女をこの地に留めておきたいと強く思った。
もちろん彼女自身の世界を奪うつもりなど毛頭ない。にもかかわらず一瞬生じた独占欲に、自分自身呆然とする。
だから父親に「契約が互いに何をもたらすかわかったはずだ。」と言われたとき、反論できなかったのだ。
「俺の気持ち……」
望むのは、彼女が彼女らしくいること。
けれど父親の言うように彼女と一緒にいたい、一緒になりたいと思う気持ちが奥底にあるのは否めない。彼女との距離が近くなればなるほど、そして時間を経てなお強くなっていることも。
もし美帆子の言うように都に居場所が必要だというのなら、それはフリューゲル以外ありえないだろう。けれどそれは同時に自分達の関係を深めるということになる。
この一年、戸惑いながらふれあい、時間を共有し、そうして自分ともう一つの世界を受け入れてくれた。
その先を、彼女は受け入れてくれるのだろうか。
「まさかこんなことで頭をつかうとは、な。」
クールダウンしようと自販機を探し、ミネラルウォーターのボタンを押す。転がり出たボトルを手にしながら、以前はこんな動作もおっかなびっくりだったことを思い出す。
「状況を受け入れてるのは、俺もか。」
呟いて、そうか、と気づく。
ユーリ・ネッサに会ったとき、
「あの子のどこがそんなに気に入ったの?」と聞かれてとっさに答えられなかった。
実際あのときは契約の力によるものなのか、それ以前から続く気持ちなのか、自分でも掴みかねていた。
そもそも何の感情もなければ、命を助けなかったはず。ささやかに共有する穏やかな時間を失いたくなくて、契約という形で彼女の命を繋いだ。その結果、今こうして実家を手伝っている。
つまり木島都という居場所があるから、自分は早瀬竜杜として暮らしているのではないだろうか。
もちろん、門番の存在を知らぬユーリ・ネッサに説明することはできないが、自分の中では腑に落ちる。
だとしたら、その逆もまた然りということか。
今まで考えもしなかった視点に「なるほど」と感心する。けれど、
「その先を、どうするか、か。」
ぐいっとミネラルウォーターを飲み干すと、ボトルをダストボックスに放り込む。
今ここで考えたところで、すぐ答えが出るはずもない。
諦めてエレベーターで地上階に降りる。
ビルの外に出ると、宵の口の空気はムッとした熱気をはらんでいる。
それでも昼間より楽だと思いながら、斜めにかけたボディバッグを直して歩き出す。
そのとき。
ぞくり、と首筋が粟立った。
展望フロアの窓辺に立ち、彼は建物の真下に目を向ける。
すでに帳の下りた地上には、帰宅途中のサラリーマンの流れができている。まるで小さな虫の集団のように見える流れから、個人の判別などできようもない。
けれど彼の目は、確実にたった一人を捕らえていた。
立ち止まり慌てて辺りを伺うその様子に、思わず口元が緩む。
ひどく嬉しそうな表情を隠すように、彼はキャスケットのつばを深く引っ張る。
鼈甲調の太いメガネフレームを押し上げると、笑みをたたえたまま空を見上げた。
一週間ぶりの更新です。
次回はいつもどおり四日後を予定しています。




