霧を無くした少女
ここは明るい森のなか。光溢れる世界は静けさを抱き、幾筋かの光明が木々を貫く。古木に這い上る蔦は青々と茂って空を目指し、小鳥たちはささやかな幸せを祝うように歌い交わす。名もない草が我先にと小さな葉を伸ばす獣道を歩けば、見落としそうなほど小さな池に出会うが、その池の色は一様に透き通っており、蛙やヤゴなど、たくさんの生き物が暮らしているのが見える。
色とりどりの蝶が飛び交う新緑の森で、少女は風に吹かれ、足音を弾ませる。何時こんなところに来たのか、何故自分が此所に居るのか、それは少女が選び取ったことだ。老婆から解放され、彼女を縛るものはもう何もない。彼が言ったように、この世界には霧が無かった。少女を縛っていた、疎ましい白い霧。それは跡形もなく消えてしまった。
少女は滝に飛び込んだはずが、森に放り出されて、あちこち彷徨っていた。まさか森がこんなに楽しいものだとは思っていなかった。生き物たちの輝かしい生命に導かれるように、やがて少女は一軒の家に辿り着く。
さして大きくもないが、真新しい一軒家。瑞々しい朝日に照らされ、きらきらと輝いているように見える。屋根に葺かれた藁は飛び出るものひとつなく綺麗に揃えられ、壁は木目の美しい紋様に彩られている。周りには手入れの行き届いた庭。その中の小さな畑は耕されており、柔らかな土に種をまけば、どんな野菜でも実る気がした。隅のほうには井戸があり、清潔そうな板できちんと蓋をされていた。それなのに、何故か人気の無い家だった。
ここは、もしかしたら、あの神さまが用意してくれた家なのかもしれない。少女は何気なくそんなことを思うと、興味をそそられ、少しだけ覗いてみることにした。庭を通り、戸の前に立つ。一度深呼吸をして、数回戸を叩き、返事がないことを確認すると、一息で中に滑り込んだ。そして、彼女は言葉を失った。
老婆の家と、全く同じ構造をしている。新しさに違いはあるが、間違うはずがない。入ってすぐは土間、そして土間から見て左手が広めの座敷、右手が小さな板の間。廊下を進んで裏口を出れば、すぐそこに小さな厠があるはずだ。少女はその家のあちこちを見て回り、やはりここは老婆のものと同じ家だと結論付けた。そして、これは青年が用意したものであると確信した。
やがて来るであろう青年を待とうと座敷に座り込む。部屋の中央に置いてあった卓袱台に肘をつき、何気なく窓へと目を向ける。気が付くと、空には闇が手を伸ばしていた。嫌な思い出が浮かんでは消えていくのを、ただひとり耐えながら少女は眺める。清々しいはずの世界、だが、彼が来ないという事実が彼女を不安に追いたてていた。
少女は森の中を歩いていた。霧立ち込める薄暗い森は揺れ動きながら彼女を受け入れ、彼女もまた不安定な足取りで、不確実な地面を踏み越えていく。彼女には、此処が夢の中だと分かっていた。そして、自分が神に会いに行くのだとも。これから彼に会うと知っていても、何故か心は動かない水のようだった。
何かに導かれるままに歩を進めていくと、やがて、少女は聖なる滝の元へと辿り着いた。滝の前には、白い人影が佇み、激流に打たれて揺れる水面をじっと見つめていた。
――清さん。
少女の声にゆっくりと振り返った彼は、ぞっとするほど白い肌をしていた。少女を見据えた瞳は滝壺よりも更に深く、纏う雰囲気からは清浄さが失われ、疲れきった表情は、彼の声にも影を落としている。
「約束の話、覚えているか?」
目を見張る少女に、彼は唐突に尋ねた。投げ出すような口調ではあったが、彼の目は真剣なのだと訴えかけていた。彼女もまた、彼を真っ直ぐに見つめ返し、頷く。
「三千年……」
彼は力無く呟き、そして迷いを振り払うかのように首を振ると、再び口を開いた。
「三千年待つこと……『私の姿を見ず、他人にも見せず、三千年待つこと』。これが約束だ」
一瞬、時が止まった。目の前がぼやけ、滝音が遠くなる。少女はぽかんと口を開いたまま、どんな言葉も発することができなかった。知ってか知らずか、彼は彼女をたしなめるように話し続ける。
「君を捨てるわけじゃない。前にも言った通り、私は天に昇り神になるために、三千年の修業をしなければならない。君は何も心配しなくていい。君が今いる家もその家具も、庭の畑も……全て君のために用意したものだ。好きに使いなさい」
それでも、少女の思考はその場に留まりたがった。世界を渡れば、ずっと一緒にいられると思ったのに。何より、彼が天に昇る、つまり神になる前に自分は死んでしまうではないか。ぐるぐる巡る思考を前にして、彼女に逆らう術などは無かった。体は震え始め、彼の端正な顔は薄くなり、二重に立ち現れてくる――と、不意に両肩に手が置かれた。
「大丈夫。君が約束を守ってくれる限り、君を絶対に死なせはしない」
その声は穏やかに、少女の不安にそっと触れた。そして彼はそのまま少女を引き寄せ、その腕にかき抱いた。強くもなく弱くもない力で、彼女の心を包み込むためだけに、彼は動いていた。彼女はゆったりと彼の優しさに身を委ねた。だが、彼の冷ややかな体は少女の悲しみを癒すことは無い。甘い吐息ばかりが髄を侵食するように流れ込み、脳を腐らせていく感覚。
「私は君を愛している。今までも、そして、これからもずっと……」
ゆめゆめ、忘れてくれるな、と彼は囁いた。少女は彼に抱かれるままに、その言葉をぼんやりと聞いていた――。
それから、五十年もの月日が流れた。あれから、庭で野菜を育てたり、森で果実を収穫してみたり、この森に迷いこんだ人を助けたことから、着物と米との取引が始まったり、色々なことがあった。あの頃の少女も年を取り、体が上手く動かなくなり、庭の手入れはままならなくなり、日々の家事も手間取るようになっていた。手や顔は皺だらけで、最近では自分を見るのさえ嫌になった。一人でいることに寂しさを覚えることもあったが、彼が一言をずっと信じてきた。信じ込んできた。無理矢理にでも信じ込まなければ、これ程の長い年月を生きていられなかっただろう。彼女は不安を抱えながらも、彼の言葉に縋りついて立っていた。
だが、この五十年は確実に彼女の精神を蝕んできた。それを感じ取ったように、森の様相も一変する。光差す美しき森は、光を受け入れない、闇の霧漂う森になってしまった。蟻に食い荒らされた木は毎日のように倒壊音を響かせ、水も淀み、花は朽ち、草も枯れて泥に埋もれてしまった。
そんな、ある夕暮れのこと。彼女が夕飯を食べ終え、針仕事をしていたとき、戸を叩くはっきりとした音が聞こえた。珍しい客人に驚きを隠せないまま、どちら様か、と応える。客人に驚きを隠せないまま、どちら様か、と応える。客人はか細い幼子の声で、森で迷ってしまったのです、と告げる。彼女は、どうぞ、と招いた。寂しい独り身に、話し相手ができたことが純粋に嬉しかったのだ。
現れたのは小さな少女。話を聞くと、その子には名も、帰る場所も無いようだった。彼女は、遠い昔のことを思い出した。自分も以前、森に迷い込んでしまったのだ。彼女は気持ちが分かるだけに、快く家に置いてやることにした。彼女に恩を感じたのか、客人はよく働いた。その姿に昔の自分を重ねつつ、少女は親切に接するよう努めていた。
だが、それから数日後のことだった。少女が目を覚ましたのは、まだ暗い時分だった。ゆっくりと起き上がろうとして、奇妙な違和感に気付いた。手足が痺れ、ひどく体が重い。柱を支えにしながら土間へ行く。顔を洗うために大きな瓶から柄杓で水を掬い、桶に貯めていたとき。彼女は――ふと、水に映った自分の顔を見た。たった一瞬のこと。しかし、彼女はそれが目に入った瞬間、反射的に桶の水をひっくり返した。水は辺りに飛散し、彼女の胸元をびっしょりと濡らす。息苦しくなり、鼓動が速くなる。彼女は再び桶に水を張ると、自分の顔を正面から見つめた。
彼女はしばらく魂が抜けたように水面を凝視していた。だが、やがて、ゆっくりと顔を上げると、突然息を飲み込むようにして笑い出した。そう、五十年が経ったのだ。
――五十年経って、私は来るのか。
周囲の空気を荒い砂地に乗せ、無理矢理に引きずり回すように、笑い声は彼女の喉を引き裂き、世界に響き渡る。森の木々はけらけらと互いの葉を擦り合わせ、小鳥たちは嬉しそうに狂気の歌を奏でた。遠くで何かが池に落ちる音。近くで何かが這いずり出す音。家までもが苦しげな音を立てて軋み始める。そうだ、世界は、定めを繰り返しているだけだったのだ。
突然の音に目を覚ましたのか、客人は眠い目を擦りながら、貸し与えていた小さな板の間から出てきた。彼女は絶望という名の恍惚を目に浮かべ、驚き、怯える客人に向き直る。そして、言い放った。
――おまえは疫病神だ。
少女は身を震わせる。絶望は憎しみに変貌する。少女は感じた。目の前の人物は、もはや昨日までの優しい女性ではない。少女を怨む、下卑た老婆なのだと。
最後まで読んで下さり、ありがとうございました。総文字数約17000字。未熟なところも数多く見受けられます、本当に長かったことと思います。
この物語は私が小さい頃見た夢がモデルになっております。小さな小屋、厳しい老婆、老婆宅に奉公する私と、清らかな滝。そして、私に世界を超えるよう告げた、滝の神。私はその断片的なストーリーを膨らませ、「霧」をあるものの象徴として使いながらひとつの物語を書き上げました。
また、この物語を決定づける上で「女声合唱のための無伴奏小作品集『愛のとき』より『霧明け』」という合唱曲に多大な影響を受けました。非常に美しい曲ですので、ぜひ一度聞いてみてください。
それでは改めて、表紙・挿絵を描いてくれた小埜木のこさん(@konokinoko0905)、読者の皆さま、この作品が好きだと言ってくださった方々に心を込めて。ありがとうございました!