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霧無し  作者: 水の民 さゆと
第四章
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少女と世界

 少女は森を駆ける。急げば急ぐほど、霧は手足にまとわりつき、彼女の逃亡を妨げる。蔦に躓き、枝に打たれ、進めば進むほど、森は少女を傷つけていく。走っても、走っても、老婆の叫び声が体中にまとわりつき、その追跡からは逃れられないことを知る。だが、少女はただひたすらに走る。死が、すぐそこまで迫っている。巨岩のごとき恐怖に潰されそうになりながら、絡みかける足を必死で前に出す。息が苦しい。足が痛い。老婆の荒い息が聞こえる。足を止めれば、一瞬のうちに殺されてしまう。

 そのとき、水音が彼女の耳に入ってきた。不意に体が軽くなる。歯を食いしばり、さらに力を込め、地を蹴って進む。一歩踏み出すたび水音は大きくなり、また一歩進むたび少女の体力が削られていく。極限との戦いを鼓舞するように、森を支配する滝の音は重層的に響き渡る。

 駆ける少女。追う老婆。水音は耳元で轟く。冷気が彼女を包み、草は足が置かれるたびに露を跳ね上げる。霧は滝の音に震え、微細な粒が弾けては彼女の頬を濡らす。最後に腐り落ちた大木を曲がり、頭を突き上げた瞬間――突然視界が開け、凄まじい気迫を放つ滝が現れた。滝の圧力と老婆の引きつった叫びに息苦しさを感じながら、彼女がさらに足を踏み出そうとした、そのとき。気の焦りに傷ついた足がついていかず、体だけが前に飛び出した。あっという間に、目の前に地面が迫る。転ぶ。そう思ったとき、白いものがさっと彼女を掬いあげた。

「大丈夫」

 耳に、優しい言葉が触れた。彼がまさに目の前で、優しく微笑んでいるのを見上げて、喉の奥から熱いものが込み上げてきた。が、青年は感傷に浸る間もなく素早く彼女を立たせ、そっと後ろへ押しやった。彼の視線は大木の根元に向けられていた。少女はその先にあるものを見て、思わず口に手を当てた。彼女を追ってきた老婆だった。老婆は目をぎょろつかせ、息を切らし、汗のような唾のような液体をだらしなく垂れ流しながら走っていた。着物は枝に引っかけたのか無残に裂け、皮膚にはいくつも血の筋がある。皺だらけの手には包丁が握られ、血管の浮き出る足は、あらぬ方向に曲がったまま体を運んでいた。青年は悲しげに目を細めると、少女を庇うように老婆の行く手に立ち塞がった。だが、老婆は神の姿が見えようが足を止めることはなく、虚ろな目を向け、意味の分からない言葉を叫びながら勢いよく包丁を振り上げる。彼女は咄嗟に青年の背中にしがみついた。老婆の見るも無惨な変貌は、彼女に少なからず衝撃を与えていた。ただ体の底から湧き上がるような、激しい震えが止まらない。

そのとき、不意に透き通った声が空気を切り裂いた。

「――止まりなさい!」

 老婆の声がぱたりと止んだ。静寂が溶けていくように辺りを包み、空気は滝の規則正しい律動に身を任せた。恐る恐る、彼越しに覗き込むと、老婆は包丁を振り上げたまま、時が止まったかのように動いていなかった。少女が驚いたように彼を見やると、彼は目を細めて安らぐような笑みを零した。

「大丈夫。少しの間大人しくしてもらうだけだ」

 少女はもう一度老婆を目に収めながらこくりと頷いた。やがて、哀れな姿にいたたまれなくなって目を反らす。それから、再び彼の方に向き直ると、私を連れて行ってください、と小さな声で言った。

「……考えていてくれたんだね」

 彼の目に、ふと悲しげな色がよぎった。少女はただそれをじっと見つめていた。

「だけど、ひとつだけ約束があるんだ。君は、守れるかな」

 少女はしばらく感情のない表情を浮かべていたが、やがて、悲しげな笑顔で頷いた。たくさんのものを失い、さらに命までも奪われようとした場所。そんな世界から一刻も早く逃れたいのが、彼女の切実な願いだった。彼がいるなら――そのためなら、どんなことだってできた。

 青年は彼女に優しい笑みを返すと、滝を指差して言った。

「あの滝の向こう側に、世界を渡る入り口がある。滝の正面から駆け出して、そのまま思い切り飛び込みなさい。……分かったね?」

 再び頷くと、彼は満足したように朗らかな顔で少女の頭を撫ぜた。

「さぁ、急いで。そろそろ彼女が動き出す」

 彼は老婆のほうを見やり、彼女をどうにかしてから行くよ、と付け加えた。彼の言った通り、老婆は痙攣したように震え始めている。だが、少女は始めの一歩を踏み出せなかった。彼のいない世界に一瞬でもいることは、心細くて、恐ろしいことだった。たたらを踏む彼女を見かねて、彼がそっと背中を押そうとしたときだった。

 ――行くな‼

 少女の背中に老婆の声が襲いかかった。行くな、行くな、行くんじゃない、奴は裏切り者だ。化け物じみた叫喚が幾重にも足に絡みつく。老婆の体は徐々に動き始めていた。包丁を握る手は血管が浮き上がり、脚には力が満ち始める。彼は顔をしかめると、少女を押しやり、再び少女と老婆の間に立った。

「早く。私が止めている間に」

 彼の声色は恐ろしく真剣だった。老婆に立ち向かう広い背中に決意を感じ取ると、彼女はそろそろと足先を浅瀬に踏み入れた。水に触れる一瞬は傷に沁みたが、それも瞬く間にひんやりとした心地よさに変わる。そして、両足を水に浸した瞬間、辺りに立ち込めていた霧が、少女から波紋を広げるように消えていった。森が後押ししてくれるような不思議な感覚に包まれ、少女は顔を上げる。聖なる滝の流れが、視界いっぱいに広がる。霧は無くなった。もう、少女と滝の間を遮るものは無いのだ。最後に彼のほうを振り返ると、老婆が彼に刃を振り上げ、走ってくるのがはっきり見えた。

「早く行け!」

 青年が老婆の刃を受け止め、叫んだ。その声に突き動かされるように、少女は轟々と流れる滝に向き合った。激しい水圧への恐怖はあった。だが老婆の暴力や、彼を失うことを考えたときの比ではない。今度こそ雑念は消え、滝の向こうへと飛び込んでいく。その背中に老婆の悲鳴が刺さったが、彼女は決して振り返らなかった。

挿絵(By みてみん)

(小埜木のこさん作 @this_si_mash)


 少女が滝に飲み込まれた瞬間、老婆は魂が抜けたように崩れ落ちた。包丁は手から滑り落ち、腕にも足にも、嘘のように力が入らず、絶望に苛まれるように、地に伏すに甘んじた。青年は老婆に歩み寄ると、その様子を穏やかな目で見下ろし、すぐ傍にしゃがみこんだ。老婆は彼に気付き、掠れた喉から搾り出すような声で囁いた。彼はしばらくそれに耳を澄ませ、やがて、静かに答えた。

「すまないね。しかし、終わらせるわけにはいかないんだ」

 老婆は彼が話す間、じっと俯いていた。絶望に打ちのめされているのか、悲しみに暮れているのかは定かではない。だが、その目からは涙が零れ落ち、土を濡らしていた。

「私は数えきれないほどの時を待っている。何年も……何回も。なのに、君は、たかが数十年で、約束を破ってしまうんだね」

 彼は老婆の頭に置いた手を滑らせ、頬を濡らしている涙を拭う。肩の下に手を入れて仰向けにさせ、額についた土を優しく払い、最後に、赤く腫れた目をそっと閉じさせた。老婆は一瞬肩を震わせたが、それきり、動かなくなってしまった。

 彼は悲しげに口を歪め、それからすうっと目を閉じた。彼にとって、この別れは何度も繰り返した、取るに足りない出来事。だが、悲しみもまた繰り返す定め。彼はこの世界の一役者でしかない。役者は舞台の一部であり、彼らは世界の一部なのだ。

「それでも、私は君を……」

 悲劇は終わらない。それこそが喜劇。世界は彼らを嘲笑うかのように、その運命を弄び続ける。それでも。


 やがて、彼はゆっくりと立ち上がった。真白の着物をはためかせ、滝のほうへと向かう。袴が濡れるのも気にせず、髪留めを無造作に抜き去りながら、滝の流れへと歩を進めた。

 彼が滝をくぐると、目の前には大きな穴が黒々と口を開けていた。彼が通った瞬間、この穴は消える。次の世界が、彼を待っている。

「さらば」

 言葉は瀑音に呑まれ、口内に息だけを残した。それと同時に彼の姿は消え、薄暗い滝の中に仄白く輝く竜が現れる。その胴は大木のように太く、たてがみは針のように鋭く、突き出た角は牡鹿のように気高く、鱗は僅かな光をも反射する。滝の飛沫を受けて口髭から水を滴らせ、彼は深青の双眼で穴を見据えた。そして、少し体を引いたかと思うと、全身に力を漲らせ、突風とともに凄まじい勢いで穴に躍り込んでいった――。



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