少女と竜神 後編
世界は確実に終わりへと向かっていく。少女が滝を見上げるたび、老婆が少女を罵るたび、神が姿を現すたび。
霧が隠すもの。少女が廻す世界。神はそれを、何と見るのか――。
老婆の仕打ちは悪化の一途を辿っていた。時にはいわれの無い暴力が混ざることもあり、彼女の体には幾つもの痣が折り重なっていった。始めこそ年のせいだと目を瞑っていた少女も、この頃から憎しみを抱くようになっていく。しかし、それでも、体に刻み込まれた痛みと森への恐れは、命を繋ぎ止めたいがために老婆の酷使を強いた。彼女はゆっくりと生気を失い、無力感に溺れ、感情を閉ざしていった。
だが、彼の――清というただ一人の青年の前では、不器用ながらも素直な表情を保ち続けることができた。少女は滝への訪問を重ねた。それはいつも老婆の目を盗んで行われ、彼に会うためならば食事の時間さえ惜しんだ。いつも彼は滝の傍の岩に腰掛け、彼女を優しく迎え入れるのだった。彼はただ彼女を傍に招き、その肩にそっと手を置いた。温かい重みは彼女に安心感を与え、気持ちをほぐし、いつしか彼の存在は心の支えとなる。
ある日、彼女はとうとう弱音を洩らした。彼が痣を見つけ、優しく問いかけたときだった。彼女は繰り返し遠慮したが、彼は何度も迷惑ではないと首を振った。だが、彼が優しい音色で囁いた「吐き出していいんだよ」――その一言が一滴となり、小さな器に極限まで溜め込んだ水を溢れ出した。流れた水は、弾けた言葉は、留まることを知らない。老婆は何がしたいのか、少女に何を求めているのか、彼女は何をすべきなのか。少女は話し続けた。森に立ち込める霧さえ隠しきれないほどの感情を晒し、苦しみを吐き出した。
気がつくと、唇に塩辛い水が垂れている。藍染めの作務衣は、彼女が強く握り続けたために乱れた皺を寄せ、露に触れてしっとりと濡れていた。そして震える小さな両肩には、それぞれ広い手が置かれていた。
「辛かったんだね」
そして、彼は少女の肩を引き寄せた。柔らかい声、広い胸と、硬い腕。青年の体温がじんわりと彼女を温め、静かな安らぎへと連れて行った。彼の中では、ただ滝音だけが響く。雄大で、荘厳で、絶え間ない流れを作り続ける、神が棲む滝。
「もう苦しまなくていい」
滝の神はそっと彼女を抱きしめた。
「共に逃げよう」
少女は神を見た。仄やかな視界の中で、ただ彼の存在だけを感じた。全てを吸い込む滝壺のような深い色を帯びて、対の目が波立つことなく少女を見つめていた。恐る恐るどこに行くのかと問うと、彼は優しく微笑み、ただ一言をそこに置いた。
「霧の無い世界へ」
深い声は滝の音に響いて消えていく。少女は俯き、彼の胸に顔をうずめた。もしかしたら、そこは神さまの世界かもしれない、と彼女は思った。けれど、この世界よりはましに違いない。
それからしばらくして、老婆は高熱に襲われた。薬草を煎じたり、額を冷やすには水がある程度必要だが、この場合、老婆の病状は熾烈を極め、何度汲んできても水が余ることはなかった。さらに、老婆は起きては看病の不備を怒鳴り、眠っては悪夢に叫び、悪霊にとり憑かれたように暴れまわっている。家を壊し、家具を壊し、皿を割り、皺だらけの細い体のどこにそんな力が残っているのか、どうしてそんなことをするのか――疲れ果てた少女には考える余裕さえなかった。当然、老婆が昼寝をしていたり、着物を売りに出掛けたりしている時に生まれる自由な時間は無くなる。滝には行けず、彼女は不安定になっていた。
少女はふとした瞬間に彼のことを思い出した。あまりに疲れているときには、青年が少女を置き去りにして霧の中へ溶け込んでいく、蜃気楼のような夢を見ることがあった。そんなとき、彼女はいつも何かとてつもなく重いものに体を押さえつけられ、彼の背中を追うことはできなかった。彼との日々の中で見つけた小さな欠片を、彼女は手放したくなかった。ただ働くだけの存在だった彼女が教えられた、温かい手のひらと、包み込む声。存在の肯定と、相手を思いやる愛情――卑小な泉を打つ雄大な滝。滝が流れ込むたび泉のかさは増し、汚れた水は零れ落ちていく。泥は沈殿し、新しい水底を敷く。そして、そこにはやがて水草が生え、か弱い生き物たちを育むことになるのだろう。滝はそれを、いつまでも変わらず見守っていてくれるだろうか。
いつの間にか料理の手は止まり、清さん、という言葉が零れていた。例え声を交わさずとも、姿を見ずとも、彼の存在を感じたい。そうでなければ、体が、心が壊れてしまいそうだった。彼は逃げようと言ってくれた。彼女にとって、この世界は見捨ててしまってもいいものだった。老婆に使われ続け、尽きることのない痛みと憎しみの中で生きていくくらいなら。少女は、神が投げかける無償の愛の中に、この世界の全てを投げ出して、身を沈めてしまうことを望んでいた。
――清さん……。
そのとき、突然手元が暗くなった。何者かが背後に立っていた。悪寒が走り、冷ややかな汗が滴る。背中から聞こえる荒い吐息、臭い息。波打つ鼓動。
見なくても分かった。老婆がいる。少女の体は凍ったように動かなくなり、喉が震え、歯は触れ合うたびに金属的な音を響かせた。蛇のように睨まれているのを感じる。やがて老婆は爪が食い込むほどの力で少女の肩を掴むと、下卑た声で囁いた。
――清?
そして、老婆は口調を一変させて、しゃがれた声をはりあげた。その名をどこで聞いたのか、少女は答えられない。その名をなぜ知っているのか、少女は答えられない。なぜお前が、なぜお前が、なぜお前が、なぜお前ごときが。繰り返される問いに気圧され、彼女は口を開くことができなかった。老婆が青年を知っていたという驚きは、肩を掴む力が生み出す恐怖に押しつぶされて瞬く間に潰れ去った。少女がやっと動けたのは、肩から力いっぱい投げ出されて倒れ、下から老婆を見上げたときだった。
薄暗い視界の端に、何か白い光を放つものを捉えた。それは薄く、鋭く、目も眩むような輝きを翻すと、一瞬の後に少女に襲いかかった。咄嗟に土間に伏せると、それは頭上を通り過ぎ、煮え立つ鍋に不快な金属音を刻みながら土壁に突き刺さった。酸素と触れ合い、錆びて朽ちつつある刃。肉を裁つための刃。老婆は壁から刃を引き抜く。食べ物を刻み続けていた刃が、今再び、少女に降り下ろされようとしている。憎悪で歪んだ表情に血走った目が大きく見開かれ、彼女はその影の中に映されていた。
このままでは殺される。少女は考えるより先にぱっと飛び起き、戸口に向かって駆け出した。後ろから化け物じみた叫び声が聞こえ、それに激しい足音が続いた。恐怖に押されて庭に飛び出し、霧が支配する森の奥へと向かう。遠き滝に恋焦がれるように、少女はただひたすらに駆けていった。
老婆を狂わせたのは誰か。憎しみを抱かせたのは誰か。少女が真実を知るのは、ずっと後の話である。