少女と竜神 前編
霧はなかなか晴れない。
あれから、数日が経過した。少女は何度もあの神秘的な体験を思い出しては、思索に耽った。なぜ神は現れ、少女を殺さなかったのか。それはやはり、素晴らしい景色と美しい神を見せたくなかったがために老婆がついた嘘だったのだろう。少女に手伝わせて楽をするより、薬草の場所を知られたくない老婆のことだ。自分の優越感のために、嘘をつくのは当たり前だ。それよりも大事なのは、なぜ神は再び少女を招いたのだろう。神には人間なぞ、しかも何の力もないただの小娘なぞ、取るに足らないものだろうに。
だが、考えれば考えるほど、彼女の滝の神との再会を願う気持ちは増えていくばかりだった。奇跡的な逢瀬を終えても体の奥底に燻っている炎。そしてなぜか、一片の懐かしさ。その正体を知りたいとも思ったが、なによりも、神の声をもう一度聞きたかった。低く、柔らかく、神秘的な清流の音。耳元で存在を語ってほしい。諸行無常の世でただひとつ、変わらないその声で。
一方、老婆は朝からうたた寝をしていた。気持ちよさそうな寝息を聞きながら、少女はその傍で虫に食われた着物を繕っていた。ふと老婆の顔を見ると、普段は眉間に皺を寄せて怒鳴り散らしているのが嘘のように思えた。子供のようにあどけなく、無力な表情。その上には何本もの皺が刻まれ、平たい顔をみすぼらしく飾っている。少女は思わず溜息をついた。ただの皺だらけの老人に苦しめられているのかと思うと、自分が情けなくなってくるのだ。
その夜、少女は夢を見た。深い霧の中を歩いていた。引き寄せられるように辿り着いたのはあの場所で、なぜか滝の回りだけ、穴が開いたように霧が無かった。滝の目の前まで歩いていき、立ち止まって見上げる。目を閉じると、飛沫が微かに頬を濡らすのを感じた。そのまま深く息を吸い込むと、浄らかな気が胸いっぱいに満ち、日々の労働で疲弊した気を払ってくれる。
晴れやかな気持ちで目を開くと、少し離れた場所に誰かが立っているのが目に入った。一瞬、老婆かと思ってはっと体をこわばらせたが、どうやら違うようだ。その誰かはすっと背筋を伸ばすと、露に濡れた草を踏み踏み歩いてきた。サク、サクと軽い音が続く。相手がどこにいるのかは分からない。だが、誰かが近づく度に体が熱くなっていく事実が、彼女にその正体を告げていた。ごくりと息を呑み、懸命に気配を探る。姿は見えぬまま、足音はぴたりと止まった。
「またおいで」
胸が張り裂けそうになる。耳から流れ込む爽やかな快感が、粘り気のある液体となり、体中を満たし、溢れだして、器官をひたすら刺激する。神経が超常的存在を認識しきれず、脳が麻痺して、自分と相手以外には何者も存在しない世界を創り上げる。
「明日、待っているよ」
今度こそ声の出所をはっきりと感じ、彼女が振り返った。視界の端に見えたのは一人の青年。少女が彼を捉えきる前に、青年が纏った霧は周囲を覆いつくしていった。最後に残ったのはふたつの光。深い滝壺を思わせる、深青の双眸。だが、それもすぐ、霧にかき消されてしまった――。
少女は目が覚めると同時に布団から抜け出した。早朝の空気は冷たく、庭の草には霜が降りている。一歩踏み出せば、サクッという音と共に霜柱が砕かれる。少女は一瞬ためらいを見せたが、雑念を払うと森の奥へ飛び込んだ。霧は視界を遮って、彼女を飲み込んでいく。
ここは夢か、現か。真っ白な世界に迷いこんだ少女は、ただひたすらに駆けた。彼女を呼ぶ神の声に従って、夢の跡を辿っていく。深い霧、立ち並ぶ古木、うねる蔦と根。全てが夢に見た通りで、恐ろしいほどの高揚感に包まれる。彼女は分かっているのだ。この霧の向こうに、神がいることを。
朝露が濡らした短い草を踏みしめて、少女は滝の前に立った。あの時と変わらぬ厳かな清らかさを水音に乗せて、滝はただ落ち続けている。しかしただひとつ違うところは、その傍、滝の流れに背を向け、岩に腰を下ろしている人影があったことだ。絹のような朝霧を纏い、水流に溶け込み、輪郭から清浄を醸し出す。まるで滝そのもの――。
「おや、来てくれたんだね」
優しい声色が滝の音色に交ざって響く。ああ、彼女は彼にこそ会いたかった。溢れ出す思いは、零れる雫となって熱くなった頬を濡らす。それにつられるように湿気が頬に吸い付き、涙の跡は霧と曖昧に混ざってしまった。
霧の向こうの彼は無駄のない所作ですっと立ち上がり、少女へ一歩近づいた。それから、もう一歩、また、一歩。草を踏む音がわずかに空気を揺らし、彼女の鼓動を高鳴らせていく。鼓動が一際大きく波打ったとき、人影は明確な色彩を持って立ち現れた。水が滝壺に吸い込まれるような滑らかな着物に、麻の羽織。髪は清流のように白く流れ、首筋のところで束ねられている。霧のような肌にはところどころ丸いものが浮かんでいて、拡散した光を弾き返す。瞳は硝子玉のように深い青を湛えて透き通り、優しくも、まっすぐ見据えられれば動けなくなるような不思議さを持ち合わせているのだ。
少女が絞り出そうとした言葉を遮って、彼は彼女の頬に手を添えた。
「久しい……」
湿った涙の跡を辿るように、指先を頬に這わせ、滞りない流れで手を離す。彼女の鼓動は跳ね上がり、顔が火照ってどうしようもなくなりながらも、彼女は目を逸らせることができなかった。不思議な青年は優しさと悲しみをない交ぜにした色彩の瞳を向けながら、名を告げた。
――清。滝に棲む者。
少女が、あなたは滝の神さまですか、と尋ねると、彼は微笑みながら答えた。
「そうとも言うし、そうでないとも言える」
ぎこちなく首を傾げる彼女を横目に話は続く。
「分かりやすく言うとね、私は神さまの修行中なんだよ」
森で千年、川で千年、海で千年。三千年の修行を終えて始めて、竜は天に上り龍神となる――。
そう言われても、少女には皆目見当がつかなかった。彼女が老婆の元で過ごした計り得ぬ時間、それを何度繰り返したら彼は本物の神さまになれるのだろう。時は澱んだ水のように、遅々として腐っていくだけなのに。
それから彼はいくつか質問を重ね、少女の答えを静かに聞いた。微笑み、頷き、肯定の言葉を口にしては少女を惑わせた。老婆にこき使われることしか知らない彼女にとって、対等なやりとりをしてくれる彼はあまりに異質な存在だったのだ。
「さあ、そろそろお帰り。彼女が……君のご主人が起きる頃だろう」
彼女の話が一段落着いたところで、青年は少女に優しく告げた。そして、今日は私が帰してあげようと、彼女の両目を塞ぐようにそっと手を置いた。薄暗い視界の中、手のひらのぬくもりを感じながら彼女はとても悲しくなった。神は決して、少女を引き止めはしないのだ。
「またおいで」
そんな少女の心を知ってか知らずか、彼は言い聞かせるように語りかけた。
「私に会いたくなったらいつでも来なさい。ただし、彼女に気づかれないようにね」
少女はぼんやりとした頭で頷き、名残惜しさを胸に抱きながら、言われるがまま目を閉じる。この温かい闇の中に、彼女はえも言われぬ懐かしさを感じた。ずっと昔、こんな闇の中にいたような気がするのだ。でも、それはきっと気のせいに違いない。
次に目を開いたとき、彼女は自分の布団で横たわっていた。そろそろと起き出し、着替え始めたところで、老婆が起き出す音が聞こえる。ここは現実。だとすれば、先程の出来事は夢か、幻の類かもしれない。
少女は、微かに熱の残る目元に指を添えた。