少女と老婆
少女がその家に来てからどれほどの月日が経っただろう。終わりの見えない労役の日々を考えると、あの日、森の中でのたれ死んでいたほうが良かったとさえ思える。家の主である老婆は、始めの数日こそ親切だったが、ある朝突如として豹変した。
老婆の中で何が起こったのか、少女にはてんで分からない。だが、老婆の天秤に乗せられていた良心が、少女が来たことで起こった何かの拍子に転がり落ちてしまったことは感じた。初めて鬼のような形相を目にしたとき、彼女はただ一片の後悔を覚えた。あの悲しい目をした女性は、自分のせいで死んでしまったのだ。自分が来なければ、老婆は幸せなまま静かに暮らしていたかもしれない。老婆は少女を疫病神と罵り、憎しみの目を向けた。この世に存在することそれ自体が不幸を呼ぶのだ、と。
昔は、逃げ出そうとしたこともあった。奥へ奥へと進んでいった森の端で、対岸の見えない湖を見つけた。湖を渡れば森から出られるはずだった。だが、氷が張ったような湖中に泥色の大魚が飛び上がり、烏を丸呑みにしたとき、少女は老婆と共に生きるしかないことを知った。それ以来、彼女は自分の居場所を守るため、老婆のもとで働いた。
朝は日が昇らないうちに叩き起こされ、朝食の準備から始まる。庭の井戸水は腐っているので、森の外れにある湖まで汲みに行かなければならない。森はいつも霧に包まれ薄暗く、少女は妖怪でも出るのではないかと怖かった。米を炊いて、漬け物を刻んで、老婆に出して、それから洗濯をする。一枚一枚、染みひとつ無くなるまで、ずっと洗濯板でこすらされた。そうなると、少女がやっと朝食にありつくのはお昼前で、老婆には休む間もなく昼食を作ってやらなくてはならない。彼女に一時の休息が訪れるのはその後で、老婆が昼寝を始めると、やっと自由に動けるのだった。やがて老婆が目覚めれば夕食を作り始め、夜には二人分の着物を繕った。大抵、老婆はその傍でうつらうつらしていたが、近くの村に売るために綺麗な着物を縫っていることもあった。少女が働く間中、老婆は彼女を監視し、少しでも余計なことをすれば癇癪を起こした。
ある霧の朝、老婆は少女を連れて着物を売りに行ったことがあった。待ち合わせは水汲み場所とは違う方向の、森の外れだという。森の外れには以前少女が見つけたのと同じような湖がある。その向こう側には変わった人々が住んでおり、船に乗ってやってきて、米を着物と交換しに来るのだった。老婆は杖をついて、少女は着物を背負って歩くこと暫く、左手前方から微かに水の音が聞こえてきた。灰暗い霧の中、軽々しく鮮やかな鈴の音。少女は耳をすませ、段々力強くなっていく音を聞いていた。やがて、それは自分の足音さえ聞こえないほど辺り一帯の空気を揺らし、雷鳴のごとき声を轟かせ、彼女に接近を告げ、響き渡る。水音は垂れ込めた霧を貫き、生命の力を震え起こさせる。そして、輝くばかりに透き通った霧は、森の淀んだ気を確実な速度で祓っていく。
ふと、耳元に冷気を感じて少女は立ち止まった。すぐ横に、水が流れている。彼女はその気配の正体を見出そうと夢中で深い霧に眼を凝らした。老婆も少女が足を止めたのに気づいて、いぶかしげな表情で一歩、二歩と少女に近づいた。そして、少女の視線を追い――少女は老婆が息を呑む音が聞こえた。何に気づいたのだろう――何気なく振り向いた瞬間だった。老婆が突然彼女の腕を掴み、引きずり倒したのだ。何が起こったのか、どこにそんな力があったのか、唖然としている少女を見据えて、老婆はいつになく激しい口調で喚いた。そして、口角を捩じ上げて笑った。見るな。見るんじゃない。お前は滝の神に殺されてしまうぞ、と。
その言葉は少女に、未だ見ぬ滝への興味と、気味悪く笑う老婆への恐怖を抱かせた。あの滝には、老婆が少女に見られると都合の悪い何かがある。考えてはいけないと思えば思うほど、霧の向こうを走る水音への意識は高まるばかりだった。老婆の目を盗むことを考えては、老婆の仕打ちと自分の仕事を思い出し、興味は押しつぶされていくのだった。
しかし、偶然か必然か。その数日後、彼女は思わぬ機会を得ることになる。
霧が晴れた。
老婆は朝早くから少女に留守番を命じ、出掛けていった。森の縁、湖畔に生える薬草を採るためだという。霧が晴れたときに採集した草は、湖の向こうの人々が高く買い取るらしい。老婆は自分だけの宝の在り処を知られたくないようだった。
老婆が握り飯を持って出て行った後、少女は夕方までの家事労働を急いで終わらせた。昼食は朝、作り置きしていた握り飯二つで簡単に済ませ、水も切り詰めれば、一回分の水汲みを省略することができた。万が一、老婆が帰ってきても気づかれないように、薪を取りに行ったような体で家を出た。
森はいつもとは違う、清々しい気に満ちていた。地面にのしかかるように生えていた植物も、鬼気迫る叫びを上げそうな木々も、今日は静かに佇むだけだった。鳥の歌は聞こえず、森全体が微睡みの中にあるようだ。
仄暗い森の中を真っ直ぐに進む。道は何度も思い描いたおかげだろうか、間違えない自信があった。やがて心地よい水音を聞き取り、少女はいよいよあの場所に辿り着くことを知った。神が棲むという聖なる滝。水流が奏でる音色に誘われるように歩を進める。見てはいけない、見れば殺される。老婆が言った時点で、少女には老婆が滝にある何かを独り占めしようとしている、としか思えなかった。だから、見てはいけないと言われたものを見ようとすることに、罪悪感はなかった。今日は何をしようが老婆に知られない絶好の機会だ。少女は半ば心を躍らせながら、数日前に通った小道を逸れ、滝へと駆ける。そして――水音が水飛沫に変わり、見ず色が水色に変わる、その瞬間。少女の選択は正しかったのか、間違っていたのか。今となっては言葉にすべきではない。地を震わすような轟音の中、幽玄なる滝の威風堂々とした御姿に感覚を奪われ、動けなくなった小娘に何ができるというのか。水流は岩を裂いて流れ出、岩肌を削り、周囲を浄化しながら虎のごとき勢いで滝壺に躍りかかっていく。大小様々な岩に囲われた滝壺はまるで、獲物を呑み込む大蛇のごとき大口を開けて、迫り来る虎に毒牙を突き立てようとしているようだった。勢いよく吹き出す気迫の中で、ただ清い流れだけが時を費やしている感覚。奪われた視覚に続くように、思考のみが浮遊し、その他の感覚も全て滝に飲み込まれていく。今まで感じたことのない激しい感情が意識の底から湧き上がり、やがて、それは見えざるものを見出させる。少女は滝の向こう側に微かな光を見た。深い滝壺の色に、月のような仄かな輝きがふたつ。やがてそれは、激しい水流に紛れて消えていった。
やがてゆっくりと時の波が押し寄せ、彼女は感覚を取り戻していった。現実に引き戻され、溜息をついて滝に背を向けた、その時。足が固まった。あっ、と思う間にそれは全身に伝播し、名状し難い不安に襲われる。いつの間にか滝の音も聞こえなくなり、視界が白粉のような霧に包まれていく。そして動かない時の中で、彼女は滝が背後から物凄い勢いで破られる音を聞いた。振り向きかけた視界で、樹齢数百年の大木のようなものが、日の光を弾きながら力強くうねり来る。それは彼女が逃げようとする前に華奢な体を締め上げてしまった。ひんやりした太くて長い胴、反射する鱗。一歩間違えれば突き通されそうな硬毛。だが何よりも、視覚から魂を奪い去る白。少女の思考は完全に停止し、冷たい汗を溢れ出させる。
だが、それはそんな少女に、「彼」は暖かな吐息に優しげな言葉を添えて言った。
「またおいで……」
たったそれだけを、心地よい低音が、ある種の生々しさを持って脳内に響かせた。それに合わせて、正座の後のように、思考が痺れながら感覚を取り戻していく。少女は頬が熱くなるのを感じた。それだけではない。愛欲にも似た激しい炎が呼び起こされ、内側から身を焼いた。懐かしさと愛しさを織り込んだ感情、感傷と、奇妙な緊迫感、そして絶望。数え切れないほどの複雑な記憶の残像が、その感情のみが幻のように押し寄せてくる――。
だが、恍惚の時はすぐに終わった。体が重圧から開放された瞬間、世界の全てが一気に押し寄せ、彼女はその場に倒れこんだ。濃霧と何か――おそらく滝の神だったのだ――は、もうどこにもいなかった。あれは幻だったのかとも疑ったが、締め付けられた感触はべっとりと取りついて離れなかった。体中がびしょ濡れで、動悸が止まらない。肩を上下させることしばらくして、気分が落ち着いてくると、彼女は自分が生きていることに気づいたのだった。
夕方になって、霧は再び森を覆った。老婆はちょうど霧が出てきた頃に帰ってきて、どれほど多く薬草が取れたかを自慢げに話し続けた。だから、少女の様子が今朝と違うことに気づかなかった。「またおいで」と言った声色はあまりに優しくて、下卑た老婆にこき使われる憐れな少女にはどれほど魅力的だったか、想像に難くない。